いよいよ『屑屋先生』(田村一二:著)の連載のスタートです。
掲載分量の関係で「サーナ」での連載1回分を3回程度にわけてアップしていきます。
挿絵は連載当時のもので、連載1回につき1作品掲載されていました。
サインのないものもありますが、すべて田村の作品と思われます。
それでは田村一二の単行本未刊行の小説をお楽しみください。
三月の夜の大地はまだ冷たかった。その冷たさが、時間がたつにつれて、坐っているむしろを透して段々に臍のあたりまでしみ上って来た。私は両手を股倉につっこんで、貧乏ゆるぎをしていた。
夜店は今、丁度、人の出盛りで、筋向いの古金物屋のアセチレン灯の光が殆どこちらにさして来ない程の人の厚さが、右に左に入り交って流れていた。二三軒おいて右の豆屋が、パチ、パチ、ポン、パチ、パチと景気のいい音をたててそら豆をいっていた。コークスのつんと鼻をさすにおいが時々流れて来た。そのコークスのにおいの中へ、串カツをあげる油のにおいが割りこんで来た。
――ああ、ほんとに、あいつを十本位、一ぺんに食ってみたいなあ――
危うく私はそれを声に出して云いかけた程であった。
屋台の串カツなど、てんやもんとして、そんなものを食べることは恥しいことだと家では教えられて来たし、又、実際、今まで一度も屋台ののれんをくぐったことなどはなかった。
だが、この串カツのにおいは、空腹をかかえ、冷たいむしろに坐っている私の脳をしびれさせ、胃の腑をわめかせる程の強い刺戟力を持っていた。私は口の中に湧いて来た唾をのみこみ首を振った。
私の家はこの界隈では一寸知られた「松風堂」という菓子屋で私はそこの次男坊として呑気に育ってきた。
ところが、私が丁度中学の三年生の頃、父が「発明」に凝り出し、家業は店の者にまかせっ切りで、代用燃料の製作に没頭してしまった。それは「鋸屑」にパラフィンか何かを混ぜて、型に入れて固めたものである。母が時々泣きながら意見をしているのを見たが、父の耳にははいらなかった。
一年余りの後、どうした事か「特許」がとれた。全くこれは幸か不幸かわからないことであった。
さあ、そうなると、急に鼻息の荒くなった父は、大量生産をするのだといって、母や兄の止めるのもきかず、近くに古いボロ工場を買った。それから和歌山の新宮附近に大きな山を一つ買った。そこから材木をきり出して、鋸屑をこしらえてという段取であったらしい。今から考えると、鋸屑なんか製材所で買えば安く手に入った筈だのに、当時の父の頭はたしかにどうかしていたのだ。
ところが、それから間なしに新宮附近に大山火事が起った。二昼夜燃え続けたその山火事のために、父の買った山はすっかり焼けてしまった。この二昼夜の山火事が、父の夢をたたきつぶし、長年続いた「松風堂」を人手に渡し、従って私達の運命をも変えてしまったのである。
安く譲った「特許」の権利金と、店や家事道具を売りとばした金で、父のこしらえた借金を返し、私達は裏長屋に引移った。
兄は親類の世話で京都へ働きに出た。母は、これだけは売らずに持って来たミシンで洋傘の袋を縫う内職をはじめた。私は医者になる希望で上級学校の受験準備をはじめていたが、もうそれどころでなく、中学をでるのがやっこらさ、後は直ぐ働かねばならなくなってしまった。
しばらくの間に十年も老けたようになった父は、ぼんやりしてしまって、仕事をしようという気力もなく、毎日、金魚鉢のそばにかがみこんでいた。
この金魚鉢と金魚は父の秘蔵のもので、全く裏長屋には不似合いな立派な陶製の大きな鉢で、中には素晴しい「獅子頭」が二匹これもくすんだ裏長屋の雰囲気とかけ離れた豪華さをただよわせて、ゆったりと泳いでいた。この金魚も父に気兼ねをして、売るといったのを、まあこれだけは父の楽しみにというので私達が無理に持って来させたものであった。
父はあさから金魚鉢のそばに坐りこんで、鉢のふちをとんとんと指先でたたいて、金魚を寄せては、それに自分の口で噛んだ餌をやるのが仕事のようになってしまった。
(月刊『SANA』(サーナ)第48号(1953(S28).6.1、真生活協会)より)