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更新は1日と15日

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活版印刷について  ん? 何で?
2025-02-01
 活版印刷ってご存じですか?
 1970年代の終わりごろまでは書籍印刷の主流で、活字を組み合わせて作った「版」にインクをつけて刷っていく印刷技術のことです。
 インクをつけた活字を紙に押し当てるようにして印刷するので、字の線が微妙に凹んでいて、紙面を触るとその凹みが感じられます。
 現在はオフセット印刷にとって代わられましたが、オフセットにはないこの風合いを好む方が今でもたくさんいるようで、結婚式の招待状や名刺など小物の印刷ではまだまだ人気があるそうです。
 そういえば、読まれた方も多いと思いますが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」には、物語の最初の部分で、活版印刷のことが描かれていますね。主人公のジョバンニが活版印刷所で「活字拾い」(「文選」というらしいです。)をして銀貨をもらう場面です。
 ジョバンニが何べんも目をこすりながら、小さな平たい箱に粟粒ほどの細かい活字を一字一字拾っていくシーンですが、もしも本を1冊印刷するとなると、まず小さな活字を原稿の文字数分拾い集め、それらをページごとに組み合わせて、一冊分の版に組んでいくということになるので、膨大な人手と時間がかかります。
 こうした手間をかけて印刷された本のページ面を指先でなぞっていると、技を駆使し、さまざまな工夫を凝らしていた印刷所の職工さんたちの息遣いがなんとなく伝わってくるような気がしてきます。でもこういったアナログな感じが、とてもいいですよね。
 筆者が古い書籍に惹かれるのは、そんなところもあるからなのかもしれません。
 
 ところで今回なぜ活版印刷について取り上げたのか?…ですよね。
 活版印刷のファンである筆者がその魅力を語り、ウンチクをただ単にひけらかしたかった……フフフ…確かにそれもあります。
 けれども、みなさん一碧文庫や不問庵の収蔵品を思い出してください。
 そうです。ここにはたくさんの糸賀、田村の著作や関連の書籍があるではないですか。
 これらは、いわゆる古い書籍、古本、古書です。
 当然、活版印刷が主流であっただろう頃の印刷物ということになります。
 職工さんの息遣い満載です。
 
 そこで、今回取り上げるのが田村一二が著した「手をつなぐ子等」なのです。
 「手をつなぐ子等」は、京都にあった大雅堂という出版社から戦時下の1944(昭和19)年1月に初版が発行され、その後、終戦をまたいで第7版(1949(昭和24)年3月)まで出版されています。(その後も大阪教育図書、北大路書房からも再販されています。)
 第4版からが終戦後になりますが、戦後すぐの混乱期、国の体制も180度転換した時期です。
 GHQの占領下での書籍出版ですから、当然、検閲もあり、戦後版の第4版と第6版では、物語の舞台や時代は戦中という設定のままですが、軍国主義的な表現を変更したり、言葉を入れ換えたりする改訂がなされました。
 今回は、その改訂について活版印刷という視点から語ってみたいと思いたちました。
 先ほども紹介しましたが組版に膨大な手間がかかる活版印刷では、一度組んだ版は、増刷などにそなえてすぐにバラすことはせず、一定期間はそのまま置いておくそうです。(……保管場所はどうしてたのだろう……)
 その上で、いざ改訂となった時、一から版を組んでいては、それこそ膨大な時間、手間がかかりますから、全面改訂は別として、部分的な改訂の場合、残してある版の改訂する部分だけを組みかえて使うのだそうです。
 改訂によって、どこかのページの1行が削除された場合に、減った一行分を順次詰めていくとなると、章や単元の終わるところまで何ページにも渡って版の組みかえをすることになります。下手をするとページの番号まで換えなくてはならなくなり、目次も含めて、一冊分すべてのページの組みかえをすることになりかねません。
 そうした手間を省くためにできるだけ他のページに影響が出ないよう改訂するページの版だけを組みかえていくのです。
 戦中版と戦後版の「手をつなぐ子等」をページごとに比較すると、そうした工夫が見て取れるところが何か所かあるのがわかります。
 今回は第3版と第7版で組みかえの跡がよく分かる部分、2ヶ所を紹介します。
 (以下、▭内の本文は、旧字体を新字体に改めています。)
 写真①は、一行削除された分を原稿の段階で一文追加することで、そのページ内で組みかえをしたという例です。(資料写真は文末にあります。)
 ページ中ほどの軍国主義的な表現「さうでなければ、御国の為にすまない」という一文がカットされました。
 そのため、第3版で
 
 父親は、決然として出征していった。
 後に残った母親は、どうせ学校を変わるならと思って、店をたゝんで、寛太をつ
れ、実家のあるこの町へ帰って来た。
 
 だったところを、第7版では原稿の段階で修正して
 
 あわたゞしく、父親は出征して行った。
 後に残った母親は、しばらくぼんやりしてしまった。しかし寛太の学校はどう
してもかえなければならない。
 彼女は思ひ切つて店をたゝみ、寛太をつれて、実家のあるこの町へ帰つて来た。
 
 というように、「しばらくぼんやりしてしまった」という一文を挿入し、なおかつ「店をたゝんで…」以下の部分を改行して別の一文にしています。前段の文章で一行増やすことで減った一行分を補ったのですね。
 2ページにまたがっていますが、その範囲内で版の組みかえを収めたといえます。
 
 続いて写真②ですが、こちらは空白行を挿入した例です。
 このページでも、軍国主義的な表現と思われる
 
 話が軍人のことになって来たゝめか、先生の口調までが、軍人口調になって来
た。
 
 が、カットされました。
 ……子どもおもい、生徒おもいの心優しい松村先生までもが、軍国の教師になっている表現に今更ながらに気付かされました。戦時中は軍部の「検閲」があったからでしょうか。田村一二はどのように思っていたのでしょうね。……おっと脱線。
 「た。」のたった二文字があったために、余分に一行削除しなくてはならなくなり、苦肉の策だったのでしょう、強引とも思えますが「空白行」を2行挿入することで、このページだけの組み換えに収めています。
 空白行で挟まれた箇所は担任の松村先生が主人公の寛太をクラスの生徒に紹介する場面ですが、削除された2行のマクラになる「紹介終りツ」という部分と「名誉の」という軍国主義を煽るような単語は削られましたが、それ以外は第3版と同じです。
 この部分が「 」で区切られたスピーチだったからできた荒療治だったのではと思います。
 
 DTP(デスクトップ・パブリッシング)と言われ、今ではデジタルで簡単に修正できてしまうようなところですが、そんな現代だからこそ、この手作り感、ブラックボックスになりきらないアナログ感が筆者は好きですし、忘れてはいけないことのような気がしています。
 
活版印刷について 資料写真

 
 いかがだったでしょうか。
 オタクの、オタクによる、マニアックなオタク話になってしまいましたね。
 しかも、字数もいつもより大幅に多い。
 それでも、終戦を乗りこえ発行され続けた「手をつなぐ子等」だからこその新たな楽しみ方を紹介できたのではないかと思います。
 どのような改訂がされたのかについては、当時の出版事情も含めて、京都女子大学教授の玉村公二彦先生の研究論文「田村一二『手をつなぐ子等』の書誌的検討 ― 戦中および戦後占領下における出版事情と検閲・修正」(人間発達研究所紀要第33号所収)に詳述されていますので、興味のある人、興味の湧いた人はそちらを読んでみてください。
 また、国会図書館のデジタルライブラリでは、「手をつなぐ子等」の初版、第6版、第7版のほか大雅堂以外の大阪教育図書、北大路書房から発行されたものもインターネットで閲覧することができます。(閲覧にはユーザー登録が必要です。)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第14回 代用教員(2)-2
2025-01-15
 「おい、どうしたんや、早うせんかいツ」
 叔父はもういらいらして奥にむかってどなりつけた。
 「さあ、それが、早う……ほんまに、どこいったやろなあ、ほんまに……」
 伯母の声は困ったように言ってはいるが調子はのんびりしたものであった。
 「ええい、しんきくさいやっちゃなあ」
とうとう叔父が立って行った。
 「ばかもん、何しとんね、帽子ぐらいに」
 「そやかて、あんた………」
 「そやかてもへったくれもあるかい、第一お前がちゃんとしもとかんさかいじゃ」
 「ちゃんと、しもといたんでっせ、新聞紙につつんで」
 「それをどこにおいたんや」
 「さあ、それがわかったらええのやが、どこえしもたやろなあ」
 「ちぇつ、ほんまに、お前は、あほにどがつくで」
 「あほですんまへんなあ、そんなんやったら、あんたはんがおしまいやしたらよかったんや」
 「なにおっ」
 これはどうもとんだ事になったものだ。私は奥座敷の成り行きが心配になったが、止めにはいるのも照れくさいし、といって、今更、立ち去るわけにもいかず、もじもじして坐っていた。
 「あっ、あった、あった、これや、これや」
 伯母の嬉しそうなすっとんきょうな声が、とんで来た。私もほっとした。
 「かせっ」
 叔父がひったくったらしく、そのまま表の間に出て来た。
 「これやね」
 叔父は坐りながら古新聞をばりばりと開いた。中から出て来たのは古色蒼然たる焦茶の縁のふちがまくれ上った老人向きの中折帽であった。
 「これで、ものはなかなかええのやで」
ものがええも悪いもない、これ程の事のあった後であっさりいりませんとはいかにもいいにくかった。
 「はあ、すんません」
と手にとると、伯父はぽんと手をたたいた。
 「さあ、これで、帽子は出来たと」
 私は膝の上でその帽子をひねくり廻していた。まだ、そうしてもそれをわが頭にのせるだけの決心はついていなかった。奥では伯母が放り出したものを又押入れにいれたり、箪笥の引出しを元に戻したりしているようだった。気の毒になって、一ぺんかぶってみなければ悪いようなきがしたので、そいつを頭にのせてにやーとお愛想笑いをしてみせた、そしたら叔父が苦酢っぱいような顔をした。
 ―ざまあみろ、こんなものをかぶせやがって、これが帽子が出来たもないもんだ、いかになんでも、よく似あうとは言えねえだろう、どんなもんだい―
 変な凱歌をあげて、帽子を頭にのせたまま二階に上ってしまった。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第55号(1954(S29).1.1、真生活協会)より
 
どんぐりメダルのこと
2025-01-01
 みなさん、新年明けましておめでとうございます。
 このコラムも2回目のお正月を迎えることができました。
 今年も、ちょっとしたハナシノタネをお届けできるよう、ネタさがしに頑張りたいと思います。
 「後日に紹介します」と書いて、幾つか宿題になっている話題もありました。
 乞うご期待ということでよろしくお願いします。
 

 
 それでは、新年1本目の話題を始めましょう。
 特に新年にちなんだお話ではありませんが、お許しください。
 「糸賀一雄年譜・著作目録」という冊子があるのは、ご存じのことと思います。
 写真は表紙の色が青いので、筆者は勝手に「青本(あおほん)」(…受験生の友、赤本ならぬ…)と呼んでいますが、この青本は、改訂版のさらに再版で、3代目の目録になります。
 いや、『糸賀一雄著作集』第3巻の巻末に掲載された「年譜・著作目録」を初代とすると、4代目か。
 そうです。この目録はもともと著作集第3巻に収録されていたものが底本となっています。
 これを抜き刷りにしてクリーム色の表紙を付け冊子にしたものが、2代目。
 そして、糸賀の没後40年を機に新たに発掘・整理された資料を加えて加筆・修正され、独立した冊子として2008年に刊行された改訂版が3代目。表紙は薄きみどり色です。
 さらに糸賀生誕100年の翌年、2015年に新たに編んだ論文集等の追加、出版年や所収する書籍の訂正、誤字・脱字の修正が施されて再版されたものが、冒頭の青本というわけです。
 
 この著作目録、筆者はたいへん重宝しています。
 齋藤昭、大木会前顧問が、冊子冒頭の「刊行にあたって」の中で、「一瞥すれば、糸賀先生がどのような時代的位相のもとで、いかなる文章を書かれたかについて、近江学園の発展過程とともに時系列で知ることができる」と書かれているとおり、糸賀の業績や生涯などについて、何か調べたいとなったとき、まずこの目録をあたります。
 近江学園やその関連施設、わが大木会の歴史なども、この目録を出発点にいろいろと調べることができます。
 また一碧文庫に保管されている糸賀資料も年代順に整理されているので、この目録ともリンクし資料索引にもなります。
 
 『糸賀一雄著作集』刊行の副産物といってしまえば、それまでの小さな冊子ですが、何度も見返し、読んでいるうちに、膨大な資料を収集・整理し、それを目録としてまとめ、著作集を編んだ「刊行会」のメンバー(糸賀の同僚や後輩であり私たちの先達の方々)の糸賀の思想や実践を後世に残し伝え、引き継ぎたいという熱い想いがあればこその冊子だと思うと、この原稿を書きながら改めて自覚と責任を持って臨まねばと感じています。
 
どんぐりメダルのこと その2
 「あれ?今回の標題と中身が違うじゃないか!」とみなさん思われていますよね。
 今回は「どんぐりメダル」のことがテーマですもんね。
 
 実は「年譜・著作目録」17ページ、1951(昭和26)年11月の項目に
 「創立五周年記念式で、石田文孝表彰、「どんぐりメダル」を制定、第1号を授与」
 とあります。
 それで、長い前フリでしたけれども「年譜・著作目録」についての経緯を先に紹介したわけです。
 というのも、「どんぐりメダル」の記述があるのは、この「年譜・著作目録」だけなんです。
 著作集などをそんなに深く読み込んでいない浅はかな見識ではありますが、筆者の知る限り他のどこにも「どんぐりメダル」は書かれていないと思います。
 例えば「近江学園年報」第4号の巻末「学園日誌」11月17日の項目には、おなじように
 「創立五周年記念式 祝賀会 第二回保護者会 里子里親会 同窓会 旧職員会 石田文孝表彰式」
 とあるのですが、「どんぐりメダル」の文字はありません。
 しかし「年譜・著作目録」のオリジナル「著作集」第3巻の巻末には「どんぐりメダル」の記述があって、三代目の青本もそれを引き継いでいるわけですが、いったいどこから引用されたのでしょう。
 これは、「糸賀一雄著作集刊行会」の当時の活動に迫るお話しなのかもしれません。
 だって「刊行会」で著作集編集に携わった方々は、南郷の近江学園で糸賀とともに活動し、生活した人たちだったのですから・・・。
 「刊行会」のメンバーが編集作業中、年譜の中に「石田文孝表彰」の記述を見つけたときに「そういえば、この時にメダルを作ったよなぁ」とか、「だったら制定したことを項目に入れておこうか」とかいうような会話があったのかなぁ・・・と想像をふくらませてしまいます。
 これは、あくまで筆者の想像ですがね。筆者にとっては「謎」のひとつなんです。
 
 ただ、実物は一碧文庫に収蔵されていました。写真がそれです。
 不問庵のなかに糸賀の蔵書を収めた書庫がありますが、そこにあった机、以前に紹介した「蔵書印」と同じ引出しにあったものです。
 「どんぐりメダル第四号」と墨書(糸賀の自筆?(未確認))された桐の箱に収められていて、首に下げる白いリボンの先に蝶ネクタイのようなエンジ色のリボンが付き、メダルが付けられています。直径は4センチほどでそんなに大きくありません。「表彰」の文字に挟まれて中央に金色のドングリがあります。裏面は「近江学園」の刻印と数字の「4」が打刻されています。数字はおそらく第4号という意味でしょう。
 糸賀がもらったものなのでしょうか。それとも別に何かの経緯があって不問庵に残されたものなのか。書かれたものがないので詳しい由緒はわかりません。
 筆者は以前、「どんぐりメダル」は、大人も子どもも関係なく授与されていた…と、聞いたか、読んだかしたような記憶があります。
 誰からだったのか? どこでだったのか?
 もしもこの「第4号」が糸賀に授与されたものならば、園児の石田さんが第1号で、2人おいて「大人」の糸賀がもらったことになり、誰かに聞いたのか、何かを読んだのか、定かではないあいまいな記憶も正しかったのかなと思っています。
 
 資料や記録の面でも、実物にしても「謎」の多いメダルです。
 実物があっても、由緒がわからなければ宝の持腐れ。
 「著作集」や「年報」「南郷」などを読み返してみて、じっくり調べてみたいと思います。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第13回 代用教員(2)-1
2024-12-15
 今回から、「代用教員」の第2回に入ります。
 旧制中学の入学試験を受験したときのことを思い出しながら、教員養成所の入所試験会場に向かう「私」。いよいよ試験が始まります。
 

 
それから五年、今、私は又試験を受けようとして歩いている。今度は他人の家ではない。伯母の家だが、やっぱり自分の家ではない。五年前と違うところは、赤飯に鯛のお頭つきが、古沢庵に番茶の茶漬けに変っていることと、かつての可愛い少年の顔が、うすひげの生えた青年の顔に変っていることと、筒袖が袴の袂の着物に変っていることだけだ。
試験場は女学校の校舎をかりて行われた。私は筆頭試験を省いて口頭試問だけの組にはいっていた。中学の卒業成績が十番以内の者は筆頭試験が無いのであった。口頭試問の終りに
「君はこの教員という仕事を生涯つづけますか」ときかれた。
「はあ、やってみて面白そうだったら」
「なるほど、面白そうだったらね」
試験官はにやりと笑った。瞬間、拙いことを言ったと思ったが、もう遅い。だけど正直にいったんだから、それでいいんだ。と自分で自分を慰めた。
合格の発表と同時に代用教員の辞令を貰って赴任校もきまった。そこで全員が集められて、赴任の注意があった。注意をするのは視学で、この養成所の先生は視学が多かった。
「ええ。先ず服装について注意する。和服はいけない」
これはいけない、私は和服しか持っていない。こんなんだったら中学の服を後輩にやったりするんぢゃなかった。どうしようかと思っていたら
「但し」と大きな声でいったので、やれ、何か特例か例外でも認められるかと思って安心した。
「病気その他の理由で和服を着る時は、校長にその理由をかいて、和服着用願を出せばよい」
和服着用願とはどんなものか、どんなに書くのかと思ったが、学校へ行ってからきいてみればわかるだろう、とに角、和服が着られることは有難いことだと思った。
「次に帽子であるがー」私はふところの中の鳥打帽子を一寸おさえてみた。
「鳥打帽子はいけない」おやおやと思った。
「学生帽は勿論いけない。中折帽に限る、その他の帽子は一切いけない」
瞬間、噴き出しそうになった。中折帽をかぶった自分の姿がぽかりと目の前にとび出して来たからだ。浴衣にシルクハットをかぶったよりこっけいであった。他の連中もお互いに顔見合せてにやにやした。その目は、中折帽なんかおかしくってかぶれるかといっていた。だが、そうでないのもいた。ちゃんと背広を着て、中折帽を膝の上においている、中には鼻下にひげをたくわえている年配の男もいた。これらは今まで代用教員をしていて、正教員の免許状をとるために、一年半この養成所にはいって来るのや、田舎に勤務している者で、K市に入り込むためにこの養成所に入って来るのやである。
その他こまごました注意があり、赴任校への地理もそれぞれ教えて貰い、明日から勤務することになって解散した。帰ってこの事を叔父にはなしたら、伯父は
「着物の事は何ともならんさかいに、しょうがないけど、帽子なら、わしのを貸してやろ、一つ使わんのがあるで」
といって、私が断ろうとしている間に伯母に持って来いといいつけた。伯母も叔父の意見に賛成して
「そら、そうおし、何も高いお金出して買わんかて、それでええこっちゃ」
といいながら奥へいって、箪笥の上をごそごそやり出した。がなかなか見つからぬらしい。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第55号(1954(S29).1.1、真生活協会)より)
 
 
穴太衆積みと田村一二
2024-12-01
 障害者支援施設「一麦」の利用者さんの中に、夏の暑い時でも、冬の寒い時でも、いつも寮舎の外にいて、本人なりのルールに従って寮の敷地を見て回り異常がないかを確認している人がいます。
 時々、この利用者さんは、寮内の土手の上でコンクリートの排水桝に腰をかけ、草を引いたり、小石を集めたりもしています。
 
 先日、筆者が「一麦」の玄関を出て一碧文庫に行こうといつものように坂を降りながら、何気なく横の土手を見上げたとき、写真の光景が目に入ってきました。
 小石を積んであります。
 あの利用者さんが積んだ石積みです。
 よく見るとただ積んであるだけではありません。
 それぞれの石を上手く組みあわせて崩れないように積み上げてあるのです。
 これまでは、手前にあるように集めてきた小石を盛ってあるだけだったので、筆者は「この利用者さんは、こんな石積みもするのか!」と驚きました。
 と同時にこの石の積み方を見て「穴太衆積み」か?とも思いました。
 
 「穴太衆積み(あのうしゅうづみ)」とは、石垣を造る時の工法の一つで、「穴太衆」とは滋賀県大津市坂本に居住した石工集団です。
 現在もこの地に継承者が居られますが、その歴史は古く、もともと渡来系の人々だったのですが、延暦寺のある比叡山のふもとという立地もあり、平安の世から寺社仏閣の僧房や社殿の基壇などの石積みでその技術を極め、織田信長の安土城築城によって、全国的に有名になったそうです。安土城以降、各地の武将からオファーが相次いだと言われています。
 
 この利用者さんは「穴太衆積み」なんか意識していないでしょうが、もしかしたら「穴太衆積み」好きの田村一二からなにか話を聞いたのかもしれませんね。
 田村は、この「穴太衆積み」が好きでした。
 穴太衆積みの棟梁に会いに行き、お話を聴いたり、一麦寮寮長を退職後に活動を始めた「茗荷会」の拠点を「穴太衆積み」発祥の地である坂本に置いたりするほどの入れ込みようでした。
 なぜ、それほどまでに好きだったのでしょうか?
 それは、その工法、石の積み方にあります。
 田村は「田村一二と茗荷村~茗荷会の例会~」(2002年10月、大萩茗荷村茗荷村研究所)の中で、「穴太積みの特徴は自然石であるということ、それから積み方ですな。ありとあらゆる形態の石が全部活かされている。これは非常に大切な穴太積みの特徴です。捨てる石は一つもない、全部活かされている。」と語っています。人間の都合に合わせて、石を割ったり、削ったりと加工せずに、あるがままの石をそのまま使うということですね。
 この精神は茗荷村村是の第1条「賢愚和楽(けんぐわらく)」に通ずるとも言っています。
 そして「もしも人間生活にこの穴太衆積みの精神が浸透してきたら、おそらく差別だとか障害のある者が肩身の狭い思いをすることはないでしょう。だからこれは人間世界の理想像だと僕は思います。いかなる人間も、小さいなら小さいなりで、曲がったら曲がったなりで認められて、役に立って活かされているというような姿は人間世界の理想像ですな。」と言っています。
 障害があってもなかっても、いかなる人もその人なりの姿で認められ活きいきと生きていける、そうした人間社会の理想像を「穴太衆積み」の精神の中に、田村は見ていたんですね。
 また「柏樹」第40号(昭和56年8月10日、柏樹社)で田村は、熟練の石工には「石の声」が聞えるのだ、と言っています。いろいろな形、大きさの自然石を使うのですが、石の方から自分の治まるべき場所を主張してくるのだそうです。それを見極める力が熟練の匠には備わるということでしょうか。
 田村は、そのことに対して「長年子どもたちとつき合っている私に、子どもたちの本当の声が聞えているだろうか。」と自省しています。
 「穴太衆積み」をとおして、人間社会の理想像を思い描くと同時に、立ち止まって自分を省みていたのでしょう。
 日々の忙しい仕事の中で、目の前の仕事をこなすことが第一となり、利用者さんたちの声なき声を聞き、感じようとすることが「なおざり」になっていないか。筆者も田村のように「穴太衆積み」の精神を心に置いて、自分の仕事を省みたいと思います。
 ふと気づいて撮ったあの石積みも、もしかしたら利用者さんの声なき声なのかもしれません。
 
 
実際の穴太衆積み
 筆者が撮ってきた穴太衆積みです。
 本当は本家本元の大津市坂本へ行っても良かったのですが、筆者が住んでいる甲賀市に変わり種の「穴太衆積み」があるので紹介します。
 甲賀市内の水口町、信楽町間で、西から信楽高原鐡道、国道307号線、隼人川、東海自然歩道、そして新名神高速道路が幅わずか200mの狭いエリアで並行して走っている区間があります。
 距離にして約1.0㎞。この区間の高速道路の擁壁に「穴太衆積み」が使われています。
 近くで施工された新名神高速道路の甲南トンネルの工事でたくさんの自然石が掘り出されこともあって、擁壁工事にこの石積みが採用されたそうです。
 新名神の土手下ですから高速道路を通っても見ることはできません。国道307号線からは木立の間から隼人川の対岸に垣間見えますが、近くで見るには、信楽高原鐡道の紫香楽宮址駅から東海自然歩道を歩いて行くしかないところです。
 
 ※国道307号線は甲賀市水口町と信楽町を直接結ぶ唯一の幹線道路なので、結構な交通量があります。
      また、路肩も狭く、待避所がないので停車できません。
  交通安全には充分ご注意を。
 
糸賀一雄 生誕110年 記念講演会
2024-11-15
 このホームページでもお知らせしていました「糸賀一雄生誕110年記念講演会」ですが、去る10月26日(土)、約1か月半という短い告知期間にもかかわらず180人の参加を得て無事開催することができました。
 県内や京都だけでなく、北は北海道、西は長崎県、また講師の関係から関東方面の各所からも来訪されました。
 各種の行事やイベントがひしめく今の時季に、選んでこの記念講演会に参加いただいた皆さまには心よりお礼を申し上げます。
 また、この講演会の開催にあたっては、関係の法人、団体の皆さまから協賛・後援・協力・助成をいただき、事前の準備から当日の運営まで、多岐にわたるお力添えをいただいたこと深く感謝申し上げます。
 筆者としてはありがたいことに、参加者の中には、このコラムを読んでるよ、見ているよとお声をかけてくださる方もいらっしゃって、この1年、ネタ探しにあえぎながらも続けてきてよかったなと思うと同時に、このつながりを大事にしていきたいと改めて感じさせてもらいました。
 

 
 さて、11月1日の定期更新に間に合わず、たいへん申し訳ありませんでした。
 実は、記念講演会に絡めての話題を書こうと思って「なんとか間に合うだろう」と高を括っていたら、結局のところ片付けやら整理やらで間に合いませんでした。(言い訳です。)
 
 こんな書き方をすると、講演会の内容についての報告でもするのかと思われるかもしれませんが、それはしません。そこのところは今後、何らかの形でと思っています。
やはり、ここはこのコラムらしい話題にしようと記念講演会前から決めていました。
(「だったら原稿準備できただろう」ってことなんですが、なにせ記念講演会の準備で頭がいっぱいで・・・またもや言い訳です。)
 

 
 ここからが本文です。
 記念講演会に関連したコラムらしい話題とは、今回の講演にご登壇いただいた津曲裕次先生のことです。
 実は筆者にとっては、先生は伝説的な存在で、まさにレジェンド。
 実際にお出会いできるなんて夢にも思っていませんでした。
 先生を初めて知ったのは、数年前、筆者が大木会に来て一碧文庫の資料整理をやり始めた頃のことで、一碧文庫の資料として収蔵されている「精神薄弱問題史研究紀要第2号」を目にした時でした。
この資料は今年5月のコラムでも「糸賀一雄の蔵書印」の紹介のなかで、印影の押されている資料として掲載したものですが、表紙の目次には「精神薄弱史研究(Ⅱ)-「歴史」の構成に関する考察-(一)」と「日本精薄教育史年表(案)その(二)」という先生の論文2本が上がっています。
 この研究紀要が刊行されたのは1965年、今から60年も前のことですが、そこに執筆者として名前があがっている先生は、まだまだ浅はかな知識・経験しかなかった筆者にとっては、まさに伝説の人物になったのです。
今回、実際にお会いすることができると聞いた時は、まさか?という驚きと本当に出会えるのだという興奮でうれしくなってしまいました。
 また、この研究紀要第2号には「近江学園史(一)出会い」という糸賀の文章も掲載されています。今回の講演で、先生はこの原稿の執筆を依頼したのは先生だったこと、しかもそれが後に糸賀の主著となる「この子らを光に」の元になったことを自らお話されていましたが、生前の糸賀とも交流をもち、その頃から知的障害児・者の教育や施設史の研究に邁進され、今日までけん引されて来た先生ならではエピソードだと思いました。
 「精神薄弱問題研究紀要」について、国会図書館の蔵書検索で調べてみると「障害者問題史研究紀要」と名を変え、2005年に刊行された40号まで続いていました。先生はこの間ずっとこの研究紀要に関わりつづけ現在も後進の育成に力を注がれています。
 今回、記念講演会に際して、「糸賀一雄」をキーワードに関西のこの地に再び訪れていただき、お話を聞けたこと、繋がりができたことは本当にありがたいことだと思いますし、このつながりをきっかけに東西の知的障害者教育や施設史についての研究や交流がより深まっていってほしいと思います。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第12回 代用教員(1)-3
2024-11-15
 
 試験の前日、田舎から父がやって来て、私は親類につれて行かれた。こゝは古道具屋できたない家の中に、子供がうじゃうじゃといた。
 その晩、みんなで一しょにすき焼をたべた。かぞえてみたら子供が八人居た。その子供達がみな珍しそうに私を眺めたが、別に悪い気持はしなかった。開けっぱなして隔てのないおじさんやおばさんの態度に気持がのびのびした。私は腹一杯たべた。
 その晩は久し振りに父と一緒に寝た。父の頭のにおいが懐しかった。
 朝は少し早い目におきて、算術の教科書にだけ、さっと目を通した。寺では維持にでも勉強してやらんぞ思っていたのにこゝでは自分から早く起きて勉強しようとするのだから人間の気持というものは妙なものだ。
 父が寝床の中からみつけた。
「はゝゝ、泥縄をやってやがる、今更おそいわい、やめろやめろ」
 私も笑いながらパチンと本を閉ぢて、もう一度父の横へもぐりこんだ。
 朝食は、赤飯に鯛のお頭つきだった。おじさんが妙に改まって何だか言ったので、私も堅くなってしまって、余り沢山御飯がたべられなかった。けれども、おじさんおばさんの好意は子供の私にも充分感じられて嬉しかった。
 父がついてくるというのを私は断った。
「一人で大丈夫やろか」
とおばさんが心配そうに私と父の顔とをかわるがわる見くらべた。
「大丈夫だろう、じゃ、一人で行って来い」
 父はあっさり承知すると、又食卓の前に坐りこんでしまった。おばさんと子供達に見送られて家を出た。おじさんは父と何か話し合っていた。
 試験は別にむつかしいと思わなかった。筆頭試問の後、口頭試問と身体検査があって試験はすんだ。寺の息子は両親と一緒に来ていたが、こちらに気がつかないのをいゝことに知らん顔をしていた。
 二三日して発表があった。その日は私は友達のところへ遊びに行っていて、父だけが見に行った。帰って来た父は私の顔をみると、何でもないように、
「合格だよ」
といった。そして羽織をぬぎながら、
「今日はどうも工合が悪かったよ」
と私の顔をみて苦笑いをした。
「道ちゃん、駄目だったんだね」
「うん」
 道ちゃんというのは寺の息子の名である。
「ごえんさん――住職の事――とはじめ校門のところで会った時は、えらい元気だったんだ、で、二人で一緒にみていった、お前のは直ぐみつかったから、私しゃ安心して、しばらくずっと見ていってから、ひょいと隣をみると、ごえんさんの姿がみえない、おやっと思って、その辺を見廻すと、校門の方へすたすたと歩いていくごえんさんの後姿が見えるのだ。番号表を最後まで見たが道雄君のはなかったよ、気の毒だったなあ」
 そういって父はごえんさんの後姿を見送るような目つきをした。私は道ちゃんが、お母さんにきっと叱られているだろうと思った。あの強い目が眼鏡の奥から道ちゃんを睨みつけているだろうと思った。そしたら急に道ちゃんが可哀そうになって、もっとよく勉強を見てやればよかったと思った。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第52号(1953(S28).10.1、真生活協会)より)
 
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