前回(6月1日)、紹介しました4本の田村一二が出演したラジオ番組のうち、今回はいちばん古い録音であるNHKラジオ第1「朝の訪問」について、その内容をお伝えします。
録音テープは、おおむね15分で、音もクリア。おそらく田村が放送局からもらったものだろうと思われます。
テープ自体もキレイに巻かれていて、どこも伸びていたり、縮れていたりする個所はなく良好な保存状態でした。
写真のように、紙製のケースに入れられていて裏面のインデックスの部分に「36.6.30」「「朝の訪問」」「N.H.K.」とマジックで手書きされていました。
一麦寮三十年誌の年譜を見てみると、確かに昭和36年のページに「6月 NHKラジオ番組『朝の訪問』用に田村寮長を取材・録音」とあり、番組名は間違いないようでしたが、放送日については確証がありませんでした。
そこで、実はこちらも滋賀県立図書館の「朝日クロスサーチ」のお世話になったのでした。
確かに当日のラジオ欄(写真)に載っていて、午前7時40分から15分の放送だったようです。
インタビュアーが「南原」というアナウンサーだったことも判明しました。
1961(昭36)年6月といえば、大津の南郷に(旧)一麦寮が開設されてまだ3カ月ほどです。
テープからは、インタビューの後ろで、ざわざわと寮生さんたちの声や寮内の物音が聞こえてきます。
聞き手が「(寮生さんが)部屋の外をずいぶん待ちかねているように歩き回っていますけれども・・・」と言っています。
おそらく寮長室での録音だったのでしょう「普段だったら(来客がなければ)部屋が(寮生で)いっぱいになる(カッコ内、筆者補足)」、「寝そべっているものやら、本を読んでいるものやら、私の肩を叩くものやら、もうぎっしりいっぱいになる」と田村は答えていて、開設間もない寮の空気感が伝わってきます。
インタビューでは、以下のようなことが語られています。
・特別学級を初めて受持った時の体験や想い
・幼少期から青年期、代用教員になるまでのこと
・画家になろうと思ったこと
・一麦寮の命名や近江学園のこと などです。
・特別学級の担任時代のことは、著書「忘れられた子等」にも書かれている内容で、校長に押しつけられ、最初はイヤイヤながら担任をしていたが、「徐々にこっち(障害児教育)へ、こっちへ引っ張られ」、腹いせに生徒をポカリとやってしまう田村を「根気よく、やんわりと怒りもしないで、泣きながら受け入れてくれ」て、「教師として開眼させてくれたのが」特別学級の生徒たちだったと語っています。
・幼少期から代用教員までのことを話していますが、多少の脚色はあるかもしれませんが、現在このコラムで連載している小説「屑屋先生」のエピソードそのものですので、再読してみてください。
・画家になりたかったことについては、「学校の先生になってからも腹の底では、こんなものは腰掛けでいつか飛び出す、絵描きになるんだ」と思っていたこと。「5、6回入選し」たことがあったが、描いた絵は全部、戦時中に「カンバスだけ取れるので、水に漬けておくとニカワが剥げて麻布だけが取れ」るので「シャツを作った」と言っています。
・一麦寮という名前については、「実は近江学園の糸賀園長先生の命名だと思いますがね」、「聖書にある『一粒の麦が死なずば』という。そこから出たのだと思います」と答えていて、命名については、あまり主体的に関わっていなかったような言い方をしています。
また、近江学園との関係については、「まぁ本店と支店のような関係」で、一麦寮は「義務教育をだいたい終わった」年長の男子を収容していると言っています。
インタビューの最期には、知的障害児との「付き合いをはじめる」と世の中が「上っ面のキレイごと」に見えてきて「私はここ(障害児教育)の世界で安心しますね」、「人間というものの値打ちというものは良くわかります」、「何を基準に人間の値打ちを決めているか」と語り、教員時代も含めたそれまでの30年間が「実に愉快」だったと締めくくっています。
知的障害児に関わり、生活をともにし、教育者として歩んできた田村の確信と自信が感じられるインタビューになっていると思います。
今回、サブタイトルを「田村一二 ラジオ番組出演 その1」としました。
「その1」ということは続きもありうるということです。
ネタ増やしもあってシリーズ化しようかと・・・。でも、次回はいつになるかはわかりません。
糸賀のラジオ番組出演のテープもあるので、そちらもお楽しみに・・・