さて、シーズコラムですが、しばらくの間充電期間を取らせていただきます。
これまで、不問庵・一碧文庫にある資料をもとに、筆者が集めたり、調べてきたことを拙い文章でお伝えして来たのですが、一旦整理をしてみようと思い立ちました。
昨年の糸賀生誕110年、今年の田村没後30年があり、そのお陰かどうか糸賀、田村に関する新たな資料もいくつか発見されました。ですので、ネタが尽きたというよりも、これらをこのコラムでも紹介できるよう一碧文庫の資料として整理作業をすすめたいと思っています。
お読みいただいている皆さまには、申し訳ないですが、再開の日を楽しみにお待ちいただきたいと思います。
屑屋先生については、これまでどおり月1回ペース15日に更新していく予定です。
養成所の卒業の時、私は、本科正教員になったら、第一にポマードを買って、塗ってやるぞ頭の毛にいいきかせたのに、いざ月給を貰ってみると、まっ先に買ったのが、油絵のセットで、ポマードなどすっかり忘れてしまっていた。したがって頭髪は相変らずぼさばさで、服は黒のサージの詰襟、靴はぶかぶかの兵隊靴、ただ肩からぶら下っているスケッチ箱だけが、真新しい。
第一番に描いたのが、こわれた数個の素焼の植木鉢で妙に古びた素焼の鉢の色にひかれた。
古いかけた素焼の鉢が五つ六つ横隊に一列に並んだ絵をみて、島田が顔をしかめた。
「おい、これは池の横にころがっていたやつだろ」
「そうだよ」
「又、変なものを描くやつだなぁ、これは捨ててある鉢だぜ」
「だって、美しいじゃないか」
「ふーん、そうかなぁ」
法本が横から絵をのぞきこんだ。
「小杉が描いたのか、なかなかいいじゃないか。面白いよ、この絵で見ると、案外小杉という男は、特殊な教育の方にとびこむかもしれないぜ」
と、云って笑った。
「こういうこわれたものや、捨てられたものに美を感じるやつだから、人間の屑に興味を持つようになるかもしれんなぁ」
と、島田もいった。
私はそんなことを今までに考えたこともなかったのに、こう云われると、何か、かくしていることを、いい当てられたような気がして、黙り込んでしまった。
そして俺は、そんなことを考えたことがあっただろうかといろいろ反省してみた。
その時ふと思い出したのが、この学校へ赴任して来る前の日のこと、用事で学校の裏通りを通った。ははん、この学校だな、今度来る学校はと思いながら歩いていると板塀のところに五六年の男の子三人がしゃがみこんで、何か眺めていた。何気なしに後からのぞきこんでみると蟻が穴から出たりはいったりしているところであった。それを実に熱心にながめているのだ。九月のはじめで、まだ残暑にきびしかった。
三人共鼻の頭に汗をうかべている。
「面白いか」
と聞くと三人共私を振り仰いでにやりと笑った。どれも余りかしこそうな顔ではない。
「君たち、S校の生徒さん?」
中の一人が「うん」と答えた。
「もう学校すんだの」
実は、まだ短縮授業中だから、午前中に授業はすむ筈だが、それにしても、この子供は早い、まだ午になっていない。それに鞄を下げてこんなところで蟻を見ている。一寸、疑問に思ったのだ。ところが、この私の問いに対して、彼等は俄然、不機嫌になった。ぷいと立上ると、おこった様な顔付で、草履袋を振り廻しながら行ってしまった。その後姿は不貞腐れているようでもあったし、やけくそみたいな感じもあった。
その時は妙だなと思っただけであったが、赴任してしばらくすると、この問題はわかった。
又、別のそういった子供達と、近くの神社の境内で出会った。彼等は池の亀に石を投げて遊んでいた。
「君たち、六年生だろ、今頃、こんなところにいるなんて、どうしたの」
と聞いてみると、今度は、よくしゃべるのがいた。
「わいらなぁ、勉強出来へんさかい、早うかえるねん」
「どうして」
「先生なぁ、お前らじゃまになるさかい、早う帰れいわはんね」
「……でも、みんな遅くまで勉強してるじゃないか」
「ああ、あらなぁ、よう出けるやつばっかり残っとんね、わいらあかへんのじゃい」
その子は怒ったように、池の亀をめがけて、石を投げた。
(月刊『SANA』(サーナ)第61号(1954(S29).7.1、真生活協会)より)