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田村一二 ラジオ番組出演 その2 「忘れられた人生」
2024-10-01
 このコラムを初めて1年が経ちました。
 これまであまり知られていないであろう資料を紹介して、糸賀思想、田村思想の魅力を伝えてみたいという思いから、なかば見切り発車でスタートしてようやく1年です。
 月2回ペースでやってこられたのも、半分が田村一二の著作「屑屋先生」の連載があったからです。
 依然「ネタが尽きて挫折するかもしれない」不安をぬぐい切れないままですが、続けていけたらと思っています。
 みなさまのご意見、ご感想をお聞かせください。
 今後とも、どうぞよろしくお願いします。              筆者
 

 
 さて、今回は7月に紹介しました田村一二が出演したラジオ番組についての第2弾。NHKラジオ第1「人生読本」より「忘れられた人生」の録音テープについてお伝えします。
 
 6月の本コラム「放送日はいつ?」で紹介しましたが、放送日については録音の内容から滋賀県立図書館のオンラインデータベース「朝日クロスサーチ」で検索して、1966年9月8日~10日であったことは突き止めることができました。
 当時の「人生読本」は、1回10分の放送で3回(連続3日)で出演者1人1テーマ(今回の場合、出演者は田村一二、テーマは「忘れられた人生」)を語る(インタビューではない)という内容でした。
 
 一碧文庫に残されている録音テープには、その3日分が1本にまとめて収録されていました。
 これはあくまで筆者の想像ですが、おそらく放送局が3日分3本の放送用テープを1本のテープにコピー(いわゆるダビング)して出演記念か記録用として出演者である田村に手渡したのではないかと思います。
 そのため、録音されている音はとてもクリアでした。
 
 ただ、テープ自体の後半部分は経年劣化が相当進んでいて、よれたり縮れたりしていて、無理にプレーヤーにかけて再生しようとすると、ローラーに絡まって止まったり、酷い時には切れてしまうことがあり、まともに音を聞くことができませんでした。
 
 しかし、どうしてもその劣化した部分の内容も知りたい筆者としては、何とか聞ける状態にできないものかと思案しました。
 少しずつ手作業で伸ばしてみるのはどうかとか、お湯に漬けて温めてみるとか、いろいろ考えてみましたが、どれもあまり効果的ではないように思われました。
 そして、最終的に思いついたのが洗濯物のシワを伸ばす「電気アイロン」でした。
 
 テープの劣化した部分を日本手ぬぐいで挟み、軽くアイロンで押さえながら、手前にテープを引っ張っていきます。
 温度が上がりすぎないように、時々アイロンを離しながら、ゆっくりゆっくりテープを引っ張って、よれて縮れた部分を修復していきます。
 荒療治ですが、何とか平らに伸ばすことはできました。
 
 問題は音です。
 ローラーに絡んで切れてしまったところをセロテープ(これも荒療治。あとで調べてみると本当は専用のテープつなぎ材がある。)でつないで、プレーヤーにかけてみました。
 なんと、ローラーに絡まることなくスムーズに巻き取られていきます。
 音の方はというと、これも見事再生されています。
 ところどころ、音がこもり気味になったり、のびたりしているところはありましたが、内容を聞き取ることができ、音源としてパソコンに取り込むことができました。
 
 ただ、今回はイチかバチかの賭けに出て結果オーライで済みましたが、こんなことは本当は前代未聞。
 熱でテープが溶けてしまうかもしれません。
 アイロンから出る電磁波で録音自体が消去されてしまうかもしれません。
 二つとない貴重な資料の扱い方としては、決して良いやり方ではなかったと思います。
 皆さんは決してマネしないでくださいネ。
 
 今回はここまで。
 マニアックに過ぎるお話になってしまいましたネ。
 「忘れられた人生」で田村が何を語っているか?については、すみません、また後日。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第10回 代用教員(1)-1
2024-09-15
 今回から、いよいよ「代用教員」の第1回に入ります。
 恩師山本先生の誘いで教員になる決心をした「私」。お世話になった夜店の人たちに別れを告げてK市へと向います。
 

 
 翌日、山本先生の手紙を懐中にしてK市行の汽車に乗った。紺がすりに小倉の袴、それに鳥打帽といういでたちである。この小倉の袴は父と二人で古着屋へ行って買ったものだが、一着八十銭であった。あまり安いので二着買った。その一着は戦時中母のモンペに化けたが、残りの一着はいまだに私の手もとにある。
 今でもこの袴を見ると、懐かしい代用教員時代の思い出がはっきりと浮かんで来る。
 K市につくと、先ず伯母の家に身を落着けた。伯母の家は饅頭屋をしていた。家族は伯父と伯母とその息子の、私にとっては従兄にあたる政男との三人だけであった。
 夜になると、政男は二階に上がって、好きな機械の本を読むし、伯母は古びた、裁縫箱を持ち出してつぎ物などをするのがまるではんこでおしたようにきまっていた。
 そして、伯母は、二針三針縫いはじめると、きまって、こくりこくりと居眠りをはじめる。それを伯父が眼鏡ごしに睨んで伯母の名を呼んで叱りつけ、伯母がびっくりして目をさまし、二針三針縫ったかと思うと、又こくりこくりと居眠りはじめる。それを伯父が叱りつける、これを何回も何回も繰返すことも毎晩きまっていた。
 これが一しきりつゞくと閉店である。伯父が昔かた気で十時にはきちんと戸を閉めてしまう。近所では一番早い。それから伯父が古風な鋲や金具の一ぱい打ってある大きな硯箱と大福帳を持出して、その日の売り上げを、貸し、買いものなどをつけるのである。
「それからツ?」
 伯父がいらいらしたように訊く。伯母がその前にきちんと坐って両手を膝において答えている。
「あぶらげ 一枚」
「なんぼや」
「……銭」
「なに? 何銭やて」
「……銭」
 伯母の両眼は病犬のようにとろんとして、開いたり閉ぢたりしている。体がふらふらと前後にゆれている。
「何銭やツ しっかりいわんかい」
 伯父が叱りつけると、伯母はびくっとして眼を開く。
「何でしたいなあ」
「油揚ぢや、油揚一枚、何んぼうや」
「あゝ、油揚どすか、五銭どすわ」
「ちえツ」
 伯父はいまいましそうに舌打ちをする。
 これがすむといよいよ寝る段取りとなる。
 その前に仏壇の前にぬかづいて今日一日無事に暮させて貰ったことをとても有難そうに、落涙せんばかりの口調でいう。私はそれをいつも感心してきいていた。よく、照れ臭くもなくあんなことがあんな有難そうに云えたもんだと感心していたのである。
 それから、伯母は皿に米を盛って、上りかまちの上に置く。そして
「さあさあ、娘さんたちや、今晩も御馳走おいといたげるさかいな、おいたせんときやすや」
と真面目くさっていう。鼠たちにいっているのだ。これは毎回、噴き出しそうになって困った。
 それから私は二階に上がって寝るのだが、表の間で政男はとうに寝ている。私は足音を忍ばせて裏の部屋にはいる。六畳程の広さはあるのだが、饅頭を包む竹の皮がぎっしりと詰めこまれ積み上げられていて、畳の見えているところは真ん中の二畳位しかない。そこに伯母が蒲団を敷いてくれている。
 電灯はついていないので、ガラス戸越しに来る表の間からの明りで着物をぬいで蒲団の中にもぐり込む。しばらくすると、鼠が天井や竹の皮の上で暴れはじめた。小声でしっといってみるが全然こたえもしない。
 折角伯母が米をやって暴れるなといっておいたのにと思ったが、どうせ、そんな事をしたって駄目な事はわかり切っているのだから、鼠に腹を立てるよりも、そんな馬鹿げた事を毎日繰返している伯母の方に腹が立って来た。
 くらやみでじっと目を開けてみるが鼠の姿は見えない。しかし、積み上げてある竹の皮の上のあちこちから、あの円らな黒い眼をきらきらさせて、私を見下しているにきまっている。時々、き、きと、鳴く。闇の中に、白い小さな牙がちらちら見えるような気がする。生憎なことに松風堂時代に使っていた丁稚たちが、よく、鼠にうなされた話をしていたのを思い出した。
 体中大きな岩でおさえつけられているようで苦しくてたまらないので目がさめる。動こうとしても動けず、声を立てようとして声も出ず、ふと透してみると、蒲団の丁度胸の上に鼠が一匹乗っていて、さも嘲り笑うように白い牙をむき出して、ききと鳴くのだそうである。その鼠がどこかへ行くととたんに体も動き、声も出るようになるということである。
 私は心細くなって、かけ蒲団を鼻のへんまで引き上げた。かび臭いにおいが鼻につんとしみこみ、手織木綿のごつごつした感触が頬をおして来た。とたん、がさがさっと大きな音を立てゝ枕元を一匹の鼠が走った。はっとして、顔を蒲団の中に埋めた。
 そのまゝじっとしていたら、父や母の顔が思い出されて来て、鼻の奥がきゅうとしめつけられるような気がしたかと思ったら、ぽろっと涙が出た。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第52号(1953(S28).10.1、真生活協会)より)
 
柏樹社刊「愛と共感の教育」(増補版)から
2024-09-01
「私はあんな経験は初めてでした。十五歳になる男の子が、寝たっきりの子どもが真剣になって、私がおしめを替えようとするとお尻を持ち上げる。それしかできない。しかしその子がいっしょうけんめいやってくれていたのを感じましたときに、私はこの仕事をやっているのに意義があると思いました」
 
 
 糸賀一雄は、1968(昭和43)年9月17日、滋賀県大津市での県新入職員のための講演中に倒れ、翌日死去しました。
 糸賀は会場から担ぎ出される間際まで「もう少しだったのに、もう少しだからやりましょう。大丈夫、大丈夫、…この子らを世の光に…」と話していたと言います。
 この日の講演の模様は糸賀自らが持ち込んだ録音機材で記録されており、一碧文庫にも複製されたカセットテープが収蔵されています。
 「施設における人間関係」と題されたこの講演は、糸賀の死の4ヶ月後(1969(昭和44)年1月15日)には、柏樹社より「愛と共感の教育(まみず新書19)」(写真左、青色の表紙)としてまとめられ発行されました。
 そしてその4年後、糸賀の他の講演や論文のいくつかを追加し「愛と共感の教育 増補版(柏樹新書11)」(1972(昭和47)年12月25日、柏樹社)(写真中央が初版)が、糸賀一雄講話集として新たに発行されています。
 写真の右は装丁が違う第18刷ですが、1994(平成6)年5月の発行で初版発行から実に22年が経っています。
 劇的な糸賀、最期の講演ということもあったかもしれませんが、今にも通ずる内容であったからこそ、それほどまでに読み継がれてきたのではないでしょうか?・・・
 

 
 ずいぶん前置きが長くなりましたが、冒頭に紹介したのは増補版 糸賀一雄講話集に収録されている一文です。
 説明では1967(昭和42)年9月17日、兵庫県農業会館で開かれた「第三回誕生日ありがとう運動のつどい」での記念講演の記録となっています。
 この「おむつ交換の際に利用者が腰を浮かすことに保母さんが感動した」というエピソードは、この本の中で他に2ヶ所も出てきます。
 残念ながら「最後の講義」の文中には、出てこないのですが・・・
 一つは、1967(昭和42)年2月6~8日にNHKラジオで放送された「人生読本」でのもの。
 もう一つは「自己実現の教育」と題して雑誌「まみず」の1967(昭和42)年1月号に掲載された論文です。
 また、まったく別の本になりますが主著である「この子らを世の光に-近江学園二十年の願い-」のあとがきにも出てきます。
 つまり晩年となるこの時期の糸賀は、行く先々の講演会などで好んでこのエピソードを紹介していたのだろうと思われます。
 おそらくびわこ学園の当時の保母さんが書いた療育日誌か何かを読んで、痛く気に入ったのではないでしょうか。このエピソードの数行後に糸賀はこう語っています。
 
「働いている人と世話されている人とが、共感の世界を持っているのですね。感じあっている。育ちあっているということ、子どもが育つだけじゃなくて、それを世話している親ごさんが育ち、世話している先生が育ち、そして隣近所の人たちまでもが、地域社会の人たちが、やはりこういう人たちを中核として育っていくのであります。」
 
「子どもをどうしようかということよりも、私たちが育つことの方が大事なんではないかというふうな感じを受けさせられたのであります。」
 
 共感の世界。ともに育つという感覚。
 糸賀にとっては、自分が近江学園・びわこ学園の実践から感じ取った「共感する」という抽象的な感覚の世界を説明するのに、実に好都合の事例だったのでしょう。そして、何より講演を聞いている聴衆に、何としてもわかってもらいたかったのではないでしょうか。支援者こそが実感し育たなければならないことを。
 
 

 
 3月にこのコラムの第12回で田村一二の言葉、「教育とは教育されること」を紹介しましたが、それとも通じることではないでしょうか。
 
 利用者さんと「あぁ、なんとなく通じあえたな」と思える瞬間があります。
 ほんとに深いところまで解かりあえたかといえば違うかもしれません。
 ほんとうはまだまだなのだろうとも思います。
 でも「通じあえた」と思えたその感覚をまた味わいたいために、この仕事を続けているのかも知れません。
 ゴールなんてないでしょう。
 利用者さん一人ひとり、個性的でそれぞれが違うのですから。
 だからこそ、糸賀、田村の言う「共感の世界」、ともに育つ、育てられるという「共育」の感覚は、現在(いま)にも通じる目指すべきことなのだと思います。
 
 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第9回 夜店(3)-3
2024-08-16
 1日遅れの更新になりました。お待たせしました。
 今回で「夜店」の部は最終回になります。次回よりは「代用教員」の部です。
 

 
 いよいよ、この夜店ともお別れだ。私はぶらぶらと歩いて植木屋ばかりならんでいるずっとはしの方まで行った。このへんは電燈線をひいていないので、強いアセチレンのにおいがただよっていた。
 そこから引返して、私は清七の店へ足を向けた。清七というのは、小学校の時の同級生で、彼は小学校を卒業するとすぐ親父さんと一緒に夜店に出て、八幡巻とばいのてり焼を売っていた。この頃ではもう結構一人で店をやっていた。体も私よりずっと大きく、年も三つ四つふけて見えた。
 彼のえらいところは、決して自分の仕事を卑下していない点であった。全く彼は誇りを持って堂々たる態度で商売をしていた。同級生に会っても、明朗そのもので、顔つきにも体にも、いささかの曇りもかげりも見出されなかった。私が夜店をやってみようと思いついたのも、一つにはこの清七に心が惹かれたためもあった。
 彼は今夜も向う鉢巻をきりりとしめて、渋うちわで、八幡巻やばいのてり焼をばたばたやっていた。近づいていくと、彼の方から先に見つけた。
「いよう、小杉、なんや、着物なんか着くさって、店休みか」
「うん」
「どや」
 彼はばいのてり焼きを一串私の手に持たせた。こういうことも同い年の者のすることとは思われなかった。どうしても私の方が三つ四つ下である。
「夜店やめて、明日、K市に行く」
「ふーん、なんど、ええ口、あったんか」
「小学校の先生だ」
「ほーん、そら、ええわ、お前に持って来いや、チッチパッパチッパッパか、はっはははは」
 彼はいとも朗らかに笑った。私もつりこまれて思わず笑ってしまった。
「小杉、お祝いや、八幡巻おごったる」彼は皿に一本のせようとした。
「いや、俺は、ばいの方がいい、ばいをくれ」
「ばいの方がええ? けったいな奴やなあ」
 彼は笑いながら、ばいを一本とってくれた。ばいというのは、どういう貝かしらないが、たにしのみのようにも思われるのだが、竹串に六つ程さして、照り焼にしてある。こりこりして一寸うまいものである。
「まあ、体に気をつけて、たっしゃでくらせよ」
という彼の大人のような声を後にして清七の店をはなれた。
 清七の店でばいをたべたためか、今まで抱いていたてんやもんに対する禁止感が解けてしまって、のびのびした気持になった。
 私は勢よく串カツ屋ののれんを頭で分けて首をつっこんだ。のれんは油でべとべとしていた。まな板の上に大きな肉の切り身がまっ赤に見えた。それを薄く切って、客の目の前で揚げる。揚げたての熱いやつを食うのだから、少々肉や油がまずくても、うまい。
 しかし、何しろ、鍋は勿論まな板から、屋台から、のれんから、どこもかしこも油だらけ、屋台など何かで絞ったら、ぼとぼとと油がしみこんでいる。この油くささに辟易して、三本程食べたら店をとび出した。
 夜店をはじめた頃、あれ程、たべたいと思っていた串カツも、こうして食べてみると十本はとても食べられなかった。
 もう帰ろうと思って、しんこ細工の爺さんのところへ寄ってみた。
「あゝ、来た、来た、待ってたよ」
 爺さんは私をみると嬉しそうにいって、屋台の下の方に体をかがめた。何か下から出すらしい。
「これだ、これをあんたにあげたいんだ」爺さんはにこにこしながら私の前にさし出した。大きなへぎの上に、てのひら位の鯛がぴんと尾をはね上げていた。いつも、爺さんが子供達に売っているものの十倍位はある。
「へええ、これあ、素晴らしいなあ」
「これは、あんたの新しい就職のお祝いだ、本当の鯛はやれねえから、しんこ細工でがまんしてくんな、はっはははは」
「有難う、いただきます」私はその鯛をおし頂いた。
「おっと、蜜もたっぷりかけてやろう」
 爺さんは、鯛の上からたっぷりと蜜をかけてくれた。
 鯛は大皿に入れてあって、笹の葉まで添えてあった。みなしんこ細工だ。
 私はそれを捧げ持つようにして、夜店の雑とうを離れた。町を出はずれると、蒼い月の光が、蜜にこぼれて、きらきらと光った。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第50号(1953(S28).8.1、真生活協会)より)
 
田村一二「百二十三本目の草」、元ネタ探しの一件
2024-08-01
 
 田村一二の著書「百二十三本目の草」の初版は1951(昭26)年4月1日に発行されています。
 この頃、近江学園は創立5年目に入り、園児も150名を超えて、対外的に多忙な糸賀園長に代わって、田村は大所帯になった学園の教育部長として現場の先頭に立っていた時期にあたります。
 「百二十三本目の草」は、そんな田村にとって戦後になって初めての単行本となりますが、園児も職員も職員の家族も一緒の共同生活で、夜も昼もないような多忙な中で、ここまで精力的に執筆活動をこなせたものだと思います。
 さて、写真のように初版本には帯が付いています。そこには「映画で有名な『忘れられた子等』の続編です」との紹介文のほかに「朝日新聞で人気を博した評判の名篇」とあり、さらにあとがきには、冒頭に「これは、ここ二年ばかりの間に、新聞や雑誌に書いたものを集めたものである」と田村自身がしたためていて、所収されている各エピソードには元ネタ、つまり初出記事があることがわかります。
 筆者は一碧文庫にある近江学園職員同人誌『南郷』やその他の雑誌などで田村が寄稿していた記事を先に読んでいたので、あとからこの本を読んだときに、よく似た(中にはそっくりな)文章がいくつかあることに気がつきました。
 そこで「そんなことは先達の誰かがすでにやっているだろうな」と思いつつも、初出一覧表でもつくってみようかと思い立ち、一碧文庫にある資料やお得意の「朝日新聞クロスサーチ」で調べてみることにしました。
 そして所収されている29編のうち22編まではなんとか元ネタがわかりました。
 しかし、まだまだ現在進行中、調査中の段階ですので、詳報については、後日にするとして、今回は、その調査の中でなんと田村の京都時代、滋野小学校で教鞭をとっていた頃まで遡ってしまう元ネタがあったというご報告です。
 

 
 それは、「コンジ水」というエピソード。
 まずは『百二十三本目の草』本編をお読みください。
 
 
   コンジ水
 
 トミちゃんが滑り台の上から足を踏みはずして落ちた。
 どしんと地面に落ちた時、そこに安子が立っていた。とたんに、落ちたことと安子が結びついてしまった。
「安ちゃんが落としたああ、うわーん」
 これには安子も目をぱちくりさせるより仕様がなかった。
 虫歯が三本折れたので、衛生室にかつぎこまれた。
「いたいわい、いたいわい」
と泣いていたが、看護婦が手当にかかろうとすると、
「コンジ水をつけてくれ、コンジ水をつけてくれ」
と言い出した。
 トミちゃんはかつて歯がいたくて、家庭でコンジ水をつけてもらったことがあるらしく、歯痛にはコンジ水ということが頭にしみこんでいるのだ。
 どうしても口を開けないので、仕方なく、僕は、
「さあ、トミちゃん、これはコンジ水だよ」
と言った。
 看護婦がオキシフルで唇の裏の切れているところを拭いた。
 コンジ水と違った味がしたのだろう、変な顔をしながらトミちゃんが横目で僕を睨んだ。僕はなんだかすまんような気持ちになった。
 
 
 現在なら「安全管理体制」はどうなっているのか?と大問題になりそうなエピソードですね。
 
 本書には、初出がどの新聞や雑誌に載っていたのかについて詳しく書かれていませんので、そのまま本編を読めば、誰しも園児がケガをして治療をしている看護師や先生とのやりとりなどほのぼのとした近江学園の日常のイメージが浮かんできますよね。
 しかしこのお話し、田村が戦前、教鞭をとっていた京都市立滋野国民学校での出来事だったようです。
 

 
 田村の教師時代に関連する資料で「勿忘草(わすれなぐさ)」という雑誌があります。
 これは京都市特別児童教育研究会が発行していたもので、要するに当時の京都市内の特別学級担当者の集まりが出していた会報誌です。
 一碧文庫にはその創刊号と第2号があって、両号ともに編集人は「田村一二」となっています。
 田村が当時の京都市内の特別学級や障害児教育の中心的存在になっていたことがわかる貴重な資料のひとつです。
 元ネタといっているのは、1943(昭18)年9月15日発行の第2号に掲載された「覚書帳より」と題された田村の投稿で、いくつかあるうちの「方便」と「混同」という2つエピソードがそれです。
 
 
  方 便
 
 トミちゃんが滑り台から落ちた時のことである。虫歯が三本折れてしまった。
 衛生室へ担ぎ込まれたトミちゃんが
「痛いわい痛いわい」
と泣いていたが、看護婦が手当にかかろうとすると
「今治水をつけてくれ、今治水をつけてくれ。」
と言いだした。
 -なる程、歯痛には今治水か-
 妙なところで私は感心したが、トミちゃんが口を開かないので
「ああ、今治水だよ。」
と言った。
 看護婦がオキシフルで唇の裏の切れているところを拭いた。今治水と違った味がしてのであろう。変な顔をしながらトミちゃんが横目で私の顔をみた。
 私はなんだか済まん様な気持になった。
 
 
 
  混 同
 
 トミ子が校庭の大きな滑り台の上から、足を踏み外して落ちた。
 どしんと地面に落ちた時、傍らに安子が立っていた。とたんに落ちたことと安子が結びついてしまった。
「安ちゃんが落としたあー、うわーん」
 これには、流石の安子も目をぱちくりさせるより仕様がなかった。
 
 
 「私はなんだか済まん様な気持になった。」・・・いいですよね。
 田村がよく言っていた「水平な関係性」がよく現れている一文ではないかと思います。
 
 「覚書帳より」には、全部で九つのエピソードがありますが、「方便」は4番目、「混同」は8番目です。
 つまり「コンジ水」では、この2つの順番を入れ替えて合体させていることになりますね。
 短文ではありますが、障害児がもつ感性の豊かさや面白さ、そしてその子らとやり取りをする教師や支援者の気づきなどをよく表している、田村にとってはお気に入りのエピソードだったのかもしれません。
 時節をこえて戦後になっても発表したいと思ったのではないでしょうか。
 

 
 今回は、ここまで。
 じつは「覚書帳より」の田村による手書きの原稿も見つかっていますが、そのお話はまた後日。
 お楽しみに。
 
 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第8回 夜店(3)-2
2024-07-15
 それからしばらくして、三月も末に近い頃、小学校時代の恩師山本先生から速達が届いた。K市で代用教員の口があるが来ないか、昼は教員で、夜は夜学に通わせてくれ、一年半で小学校本科正教員の免許状をくれる、ということであった。癖のある右上がりの大きな字が巻紙一杯におどっていた。そのおしまいに拾円さつが一枚巻きこんであった。旅費のつもりでくださったものらしい。懐しい先生の顔が手紙の中から笑っているようであった。
 両親は勿論一も二もなく賛成した。今までは黙っていたが、私を夜店へ出しておくことがどんなに両親にとってはつらいことであったかが、この山本先生の手紙を見せた時の両親の顔付からわかった。二人はほっとして救われたような顔をした。
 翌日、おゆう婆さんにも話した。婆さんは
 「おう、おう」
 といって何度も頷いて喜んでくれた。
 私が帰りかけると
 「そうすると、今晩の聖天さんの夜店にはもう来やせんのやなあ」
 と淋しそうな顔をした。来やせんのやなあといった口が開いたままで私の顔をじっと見つめている。私は顔をふせた。
 「うん、店は出しに行かないけど、僕、行くよ、爺さんにも会いたい」
 そういうとそのまま婆さんの家をとび出した。
 その晩、紺がすりの着物をきると、五十銭銀貨を三つ袂にほうりこんで家を出た。
 夜店は今丁度人の出盛りであった。私はまっ先に婆さんのところへ行った。婆さんはいつもの通り行火の上にうすい蒲団をかけて、その上に二つ折りになっていた。
 「おばあさん」
 「おう、おう、ぼん、来たなあ」
 「おばあさん、これで、何か買って」
 私は五十銭銀貨を一つ、うすい蒲団の上においた。
 「へえ、ぼん、こら、えらいこっちゃなあ」
 婆さんは銀貨と私の顔とを見比べたが、しわだらけの手でその銀貨をとると押し頂いた。
 「おうきに、おうきに、ぼんの折角の志や、いただきまっせ、これで、柳谷の観音さんへまいらせてもらいまっさ」
 婆さんは懐の中から大きな財布をずるずると引ずり出すと、くるくるとほどいて、銀貨を放り込むと又も早くくるくるとまいて、ぐいと懐中に深く押しこんだ。年寄りと思えない程素早い動作であった。私は何がなしに感心した。
しんこ細工屋は子供達にとりかこまれていた。子供達の頭ごしに私は声をかけた。
 「爺さん」
 「おう」
 爺さんは私の声をきくと待っていたように顔を上げた。
 「あんたいい口があったってね、よかったねえ」
 婆さんからきいたらしい。
 「爺さんともお別れだよ」
 「そうだねえ」
 「爺さん、これ」
 私は五十銭銀貨を握って出した。
 「何んだね」
 「これ少ないけれど、煙草でも買って下さい」
 私は握っていた手を開いた。
 「お、そうかね、これあ、どうも」
 爺さんはとまどったように私の顔をみたが、すぐにっこりした。
 「いや、頂きますよ、遠慮なく、」
 爺さんは銀貨を手のひらからつまみ上げると、ひょいと押し頂くようにして、腹がけのどんぶりの中へぽんと放り込んだ。
 「あんた、これから、すぐ帰るかね」
 「いや、すこし、ぶらついて来ます」
 「そうかね、それじゃ、帰りによって下さいよ、いいかね」
 「ああ」
 私は爺さんの屋台をはなれた。
 
 (月刊『SANA』(サーナ)第50号(1953(S28).8.1、真生活協会)より)
 
田村一二 ラジオ番組出演 その1 「朝の訪問」
2024-07-01
 前回(6月1日)、紹介しました4本の田村一二が出演したラジオ番組のうち、今回はいちばん古い録音であるNHKラジオ第1「朝の訪問」について、その内容をお伝えします。
 

 
 録音テープは、おおむね15分で、音もクリア。おそらく田村が放送局からもらったものだろうと思われます。
 テープ自体もキレイに巻かれていて、どこも伸びていたり、縮れていたりする個所はなく良好な保存状態でした。
 写真のように、紙製のケースに入れられていて裏面のインデックスの部分に「36.6.30」「「朝の訪問」」「N.H.K.」とマジックで手書きされていました。
 一麦寮三十年誌の年譜を見てみると、確かに昭和36年のページに「6月 NHKラジオ番組『朝の訪問』用に田村寮長を取材・録音」とあり、番組名は間違いないようでしたが、放送日については確証がありませんでした。
 そこで、実はこちらも滋賀県立図書館の「朝日クロスサーチ」のお世話になったのでした。
 確かに当日のラジオ欄(写真)に載っていて、午前7時40分から15分の放送だったようです。
 インタビュアーが「南原」というアナウンサーだったことも判明しました。
 
 1961(昭36)年6月といえば、大津の南郷に(旧)一麦寮が開設されてまだ3カ月ほどです。
 テープからは、インタビューの後ろで、ざわざわと寮生さんたちの声や寮内の物音が聞こえてきます。
 聞き手が「(寮生さんが)部屋の外をずいぶん待ちかねているように歩き回っていますけれども・・・」と言っています。
 おそらく寮長室での録音だったのでしょう「普段だったら(来客がなければ)部屋が(寮生で)いっぱいになる(カッコ内、筆者補足)」、「寝そべっているものやら、本を読んでいるものやら、私の肩を叩くものやら、もうぎっしりいっぱいになる」と田村は答えていて、開設間もない寮の空気感が伝わってきます。
 
 インタビューでは、以下のようなことが語られています。
  ・特別学級を初めて受持った時の体験や想い
  ・幼少期から青年期、代用教員になるまでのこと
  ・画家になろうと思ったこと
  ・一麦寮の命名や近江学園のこと などです。
 
・特別学級の担任時代のことは、著書「忘れられた子等」にも書かれている内容で、校長に押しつけられ、最初はイヤイヤながら担任をしていたが、「徐々にこっち(障害児教育)へ、こっちへ引っ張られ」、腹いせに生徒をポカリとやってしまう田村を「根気よく、やんわりと怒りもしないで、泣きながら受け入れてくれ」て、「教師として開眼させてくれたのが」特別学級の生徒たちだったと語っています。
 
・幼少期から代用教員までのことを話していますが、多少の脚色はあるかもしれませんが、現在このコラムで連載している小説「屑屋先生」のエピソードそのものですので、再読してみてください。
 
・画家になりたかったことについては、「学校の先生になってからも腹の底では、こんなものは腰掛けでいつか飛び出す、絵描きになるんだ」と思っていたこと。「5、6回入選し」たことがあったが、描いた絵は全部、戦時中に「カンバスだけ取れるので、水に漬けておくとニカワが剥げて麻布だけが取れ」るので「シャツを作った」と言っています。
 
・一麦寮という名前については、「実は近江学園の糸賀園長先生の命名だと思いますがね」、「聖書にある『一粒の麦が死なずば』という。そこから出たのだと思います」と答えていて、命名については、あまり主体的に関わっていなかったような言い方をしています。
また、近江学園との関係については、「まぁ本店と支店のような関係」で、一麦寮は「義務教育をだいたい終わった」年長の男子を収容していると言っています。
 
 インタビューの最期には、知的障害児との「付き合いをはじめる」と世の中が「上っ面のキレイごと」に見えてきて「私はここ(障害児教育)の世界で安心しますね」、「人間というものの値打ちというものは良くわかります」、「何を基準に人間の値打ちを決めているか」と語り、教員時代も含めたそれまでの30年間が「実に愉快」だったと締めくくっています。
 知的障害児に関わり、生活をともにし、教育者として歩んできた田村の確信と自信が感じられるインタビューになっていると思います。
 

 
 今回、サブタイトルを「田村一二 ラジオ番組出演 その1」としました。
 「その1」ということは続きもありうるということです。
 ネタ増やしもあってシリーズ化しようかと・・・。でも、次回はいつになるかはわかりません。
 糸賀のラジオ番組出演のテープもあるので、そちらもお楽しみに・・・
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第7回 夜店(3)-1
2024-06-15
挿絵
 夜店あきんどもかれこれ一ヶ月近くになったが、別にどういうこともなく、はじめて出る前の晩に想像していたようなうまいことはなかった。
 ただ、根が呑気なのか、だんだん馴れるにしたがって、はじめ頃の恥しさもなくなり、むしろに坐って、店の前を右左にゆききしたり、立止ったりする客の足をみていて、これは買う客か買わない客か当る遊びを発見した。
 足だけをみていると、さっさと見向きもせずに行き過ぎてしまうのや、ぶらりぶらりと何を買おうかなと左右を物色しながら歩いてくる足、私の店の菓子をみて、どんなものかなと思って近よって来てみて、なあんだと失望して行き過ぎてしまう足、はじめから買うつもりで近よってくる足、どうしようかなと躊躇している足、行きすぎようとして、思い返して帰って来たが、やっぱり止めにしようというように又行ってしまう足など、実に種々様々で、それが又、その時の気持をそのままにあらわしている。足ばかり見ていると、しまいには、私にとっては、それは顔と同じように思えて来るのであった。これを私は自分で「足の表情」と名づけた。
 「足の表情」を発見したことは、私の夜店に出た間の収穫の一つであった。この表情をみていると大体、この客は買うのか買わないのかが、ほぼ当るようになった。
 この事を、しんこ細工屋の爺さんに話したら、爺さんはしばらく黙って私の顔をみていたが、
 「あんたも、そういうことがわかるようになったかね」
といづて溜息をついた。
 「やっぱり、おゆう婆さんのいうように、あんたは、早く、夜店から足を洗うんだな、その方がいいよ」
 珍らしく爺さんの口調は素っ気なかった。私は急に淋しい気持になって黙ってしまった。
 爺さんはちらりとしんこ細工の手を止めて私の顔をみた。
 「あっしゃ、何も、夜店のあきんどを卑しんじゃないよ、これも立派な職業さ、だけど、人間にゃ、向き不向きがあらあね、あんたにはただ、こういう仕事はふむきだというだけなんだ」
 「……………」
 「まあ、あっしのみるところじゃあ、」
 爺さんは私の顔をのぞきこむようにして、にっこり笑った。
 「まあ、あんたは、教育者か芸術家というところだな」
 「そうかなあ」
 「まず、商売人じゃないな」
 爺さんは、又、せっせとしんこ細工をつくりはじめた。私には、爺さんのいうところが、胸にこたえた。心の中でもやもやとしていたものが、爺さんにはっきりといい当てられたような気がした。
 「うーん」
 私はうなりながら、下っ腹に手をつっこんで空を見上げた。星が一ぱいきらきらと光っていた。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第50号(1953(S28).8.1、真生活協会)より)
 
放送日はいつ?
2024-06-01
 今回は、いつなのかわからなかった資料の日付が特定できたお話です。
 その日付というのは、田村一二が出演したあるラジオ番組の放送日のことなのです。
 

 
 一碧文庫には、田村一二の肉声を記録した録音テープが13本残されていて、そのうち8本がNHKのラジオ番組に出演した際のものです。
 これらは、同一番組で重複しているものもあるので番組としては以下の4つになります。
 放送日順に
 ・NHKラジオ第1「朝の訪問」(1961(昭36)年6月30日放送)
 ・NHKラジオ第1「人生読本『忘れられた人生①~➂』」(1966(昭41)年9月8~10日放送)
 ・NHKラジオ第2「精神薄弱児のために『大臣にきく』」(1972(昭47)年3月19日放送)
 ・NHKラジオ第1「人生読本『賢愚和楽の道①~➂』」(1972(昭47)年5月15~17日放送)
 出演時期としては、南郷の一麦寮開設後すぐと粘土活動が始められた頃、そして石部に移転後の頃と一麦寮の節目となる時期ごとに出演をしていることになりますね。
 
 みなさんは、それぞれの番組の中で田村が何を語っているのか、その内容のほうが気になるところかもしれませんが、それは後日に送るとして、今回は放送日のおはなし一択でいかせていただきます。
 上記の録音テープのうち「忘れられた人生」以外は、入っていた紙ケースにマジックで手書きされていたり、写真のように収録日や収録スタジオ、録音技師の名前まで記入されている「録音テープカード」が貼られていて容易に放送日を知ることができました。
 出演の記念品だったのでしょうか、放送後、ラジオ局から田村に手渡されたものではないかと思います。おそらくはラジオ局が取材し録音した生の音源でしょう、音も非常にクリアです。
 ただ、「忘れられた人生」については、音は同様にクリアなのですが、録音テープ自体は無地の白い紙ケースに入っていて放送日を特定する情報は何も書き込まれていませんでした・・・。
 

 
 ここからが、にわか探偵のはじまりです。
 どうしても放送日が知りたくなった筆者は、なんとか特定できないものかと頭をひねりました。
 まずは、捜査の鉄則「現場に帰れ」ではないですが、テープ起しをしながらじっくり音源を聞いてみることにしました。
 録音テープでは田村は、当時まだよく理解されていなかった知的障害児の心の内側を何とか発露させたい、知りたいと思っていて、その手段として粘土をとり入れ、この放送の前年に運動場の端に粘土活動のための小屋を造ったことを語っていました。
 南郷の一麦寮で粘土室が建てられたのは、1965(昭40)年の春頃なので、このことから放送はその翌年1966(昭41)年のどこかということになります。
 そして録音テープの最後では次回予告で「12日月曜日からは「わたしの描くもの」と題しまして画家の田中忠雄さんにお話をしていただく予定です」と告知されていました。
 大きなヒントです。インターネットで調べてみると、1966(昭41)年中で12日が月曜日になるのは9月と12月であることがわかりました。
 かなり狭まりました。あとは、どちらかを特定するだけです。
 ここで登場するのが滋賀県立図書館です。筆者はよくここを利用しています。というのも、ここには朝日新聞社が提供している図書館限定で利用できるオンラインデータベース「朝日クロスサーチ」があるからです。
 「朝日クロスサーチ」は、朝日新聞の縮刷版を明治・大正の時代から検索、閲覧できるサービスです。マイクロフィルムのインターネット版と思えばわかりやすいですかね。日付を入力するとピンポイントで検索することができます。
 半世紀も前のことですが当時の新聞にもラジオの番組表が載っているはずです。そこでこのデータベースで1966(昭和41)年の9月と12月の12日のラジオ欄を検索してみました。すると、9月のラジオ欄で田中忠雄の名前を見つけました。続いて、その前週9日~10日の同欄を調べるとたしかに田村の名前がありました。
 念のために12月も調べましたが、やはり別の人でした。
 これで「人生読本 忘れられた人生」の放送日を特定することができました。
 
 今回、このプチ調査で、学者や研究者が研究対象の資料の裏付けを取っていく地道な作業の一端を経験することができました。
 以前ならば図書館等に行って、アナログの縮刷版やマイクロフィルムでページをめくりながら、行きつ戻りつコツコツ調べていたことでしょう。そもそも対象となる縮刷版やマイクロフィルムが所蔵されていないことも多々あることです。そこで調査はお手上げ、頓挫してしまいます。
 それを想うと現在はインターネットが普及し、これを使えばかなり詳しいことまで簡単に調べられるようになりました。普及とともに功罪が取り沙汰されるインターネットですが、今回はそのありがたみを実感することができました。
 

 
 ちなみに…
 
 「朝の訪問」は、1949年から1964年まで、およそ15年にわたって放送され、ふだんその声を耳にすることのないさまざまな分野の著名人が、人生観や経験談を語るという内容で、声の随筆と言われた番組でした。(NHKアーカイブスのWebページより)
 
 「人生読本」は、1953年4月から放送されていた番組で、毎回10分間、基本的に3日間を1セットとして月曜から水曜日、木曜から土曜日の週2セット放送されていました。各界の著名人がそれまでの人生の歩みを振り返り、リスナーに人生を生きる上でのアドバイスなどを交えて語っていました。(ウィキペディアより)
 
 「精神薄弱児のために」は、雑誌「手をつなぐ親たち」掲載の番組予告をみると、少なくとも1965年4月には放送されており、「心身障害児とともに」(1980年4月~)、「心身障害者とともに」(1986年11月~)、「ともに生きる」(1994年4月~)、「バリバラR」(2012年4月~)と時代の流れにあわせて番組タイトルを変えながら今に至るまで続いているNHK大阪放送局制作の福祉に関する情報番組です。(雑誌「手をつなぐ親たち」、NHKクロニクルのWebページおよびウィキペディアより)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第6回 夜店(2)-3
2024-05-15
 
 その晩の帰りみち、婆さんはくたびれたような口調でいった。
 「ぼん、あんた早うこんな夜店やめなあかしまへんで、あんたみたような人が、こんなことやってたらどむならん、あんたは早う、よそへ行く人や、今さしあたり困ってはるさかいに、わても助けたけどなあ、こんなこと面白うなったらあきまへん、あんたはどうでも出世して貰わなどむならん、なあ、ぼん、どこぞええ口ないかいなあ、ほんまに」。私はいつまでもこんな夜店をやっていようとは思っていないけれど、どうも、婆さんのいう出世ということばに気持の抵抗を感じてむっとしたように押し黙っていた。私もまだ若かった。婆さんは私の顔をみて、悲しげに首を振つた。まるで本当の自分の孫のように私を可愛がってくれ、私のことを思ってくれるおゆう婆さんも好きだったが、ひょうきんで明るいしんこ細工屋の爺さんも好きだった。
 年は六十を越した位か、小柄で少し痩せ型、実に上品な顔をしていた。特に鼻が、先代の羽左エ門に似ていて立派だった。このままちやんとした着物を着せれば大きな店の大旦那で通るような人柄であつた。いつも紺のはっぴに白のももひき、それはいつもちゃんと洗濯してあった。しんこ細工をする屋台も真っ白に磨きあげてあった。
 大体、夜店に持ちこんで来るような屋台はいずれも手垢でぴかぴかしているような代物が多いのだが、その中でこれだけは変わっていた。如何にこの爺さんがけっぺきなまでにきれい好きであるかがわかる。私もこの爺さんのつくるしんこ細工なら安心してたべられるような気がした。爺さんのつくるものは、鯛、たこ、犬、猫、鶴、にわとり、みかん、もも、なし、ばなゝ、柿、その他、まきずしのような御馳走からひょうたんまであった。
 子供の出さかる宵のうちは、爺さんはすつかり子供達にとりまかれて姿が見えなかった。
 ただ、冗談をいっては子供達を笑わせている明るい声がその中から絶えずきこえていた。
 私も自分の店—といつてもどうせ大して売れるわけでもなし—を横目でちょいちょいみながら、子供達の頭ごしに爺さんの手の動きをのぞいてみた。みかんなど、ひょいとしんこを一つまみとって、くるくるとまるめて、ぐいと上下を押さえ、へらのようなもので、まわりにくいくいと筋をつけるとそれがちゃんとみかんのふくろのあつまりになる。それに白い粉をまぶしておいて、別に黄色いしんこをとって、平べたくのばし、それでくるりと包んで、妻楊子のたばにしたようなものでとんとんと叩くと、みかんの皮の肌になる。それをちょいと指先で黄色い皮をむくと、中から白いふくろが見えて、本当のみかんそっくりである。
 大人の—まだその時は十八才だったが—私が見ても感心するのだから、子供たちは息をつめ目をすえて爺さんの手元をみつめていた。そして一つ出来上がるとみんなほっと溜息をついたり、体をもそもそと動かしたりした。子供達は先を争って、自分の好きなものを注文した。爺さんはそれを適当にさばきながら孫共におもちゃでもつくってやるようにいつもにこにこして手を動かしていた。
 出来上ると、へぎにのせて、上から、ものによっては蜜を、或は白い砂糖をかけてもらう。それを大ていの子供達はその場で食べないで、こぼれないようにそっと大事そうに持って帰る。恐らく直ぐには、あぐっと食いつきかねる気持なのであろう。
 あんまり楽しそうなので、つい
 「僕も、しんこ細工、習おうかなあ」
と笑いながらいうと、「だめだめ」
爺さんは、おゆう婆さんの方へあごをしゃくってみせた。
 「この間、一寸、冗談をいつてもあんな調子だ、あんたを本当に俺の弟子にでもしようものなら、あの婆さんに噛みつかれるよ」
 「まさか」
 「まず、屋台位はひっくりかえされること、確実だな、はゝゝゝゝ」
 この東京弁の上品なしんこ細工屋の爺さんの素性は誰も知らない。
 長いついきあいのおゆう婆さんでさえ、昔は東京で立派に材木屋か何かをやっていた人らしいという程度しか知らなかつた。
 昔の話が出ると、いつも爺さんは話をそらしたり、人にきかれても「忘れちゃった」といって笑って答えないそうである。
 私はこの爺さんの名前も知らずに、その後間もなく別れてしまうことになった。
 
    (月刊『SANA』(サーナ)第49号(1953(S28).7.1、真生活協会)より)
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大​木​会​・​も​み​じ​・​あ​ざ​み​
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