もみじ|あざみ|一麦|社会福祉法人 大木会|福祉施設|滋賀県湖南市|

 

SEEDS column

 

更新は1日と15日

更新は1日と15日
 
ブログ内の文章、写真は無断でコピー、転載、アップロードしないでください。
 
フォーム
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第20回 代用教員(4)-2
2025-06-15
 代用教員である私には担任学級はなく、誰か欠勤した先生があると、その学級へ補欠として教えに行くのが仕事であった。だから、欠勤の先生のない日には職員室でぽかんと椅子に腰を下ろしているということになる。そこで、よく給仕と間違えられた。
 十八才の若造で、頭は丸刈り、紺がすりに小倉の袴、入口をはいったところの机で、その上には何にも載っていないとなると、給仕と間違える方があたり前である。
 外来者で私を給仕と間違える人があっても、これは致し方がないが、内部の者で、私の身分をはっきりと知っていて、ぶべつした者があったので、遂に一寸痩せ腕を振った事件があった。
  高等科二年の先生が休んだので私はその補欠に出ることになった。
始業の鐘がなったので私は直ぐ職員室を出て、教えられた高等科二年の教室へ急いだ。生徒達もぞろぞろと教室へはいっていた。私より体の大きいのが沢山いる。
 階段を上っていると、その連中が私をかこむように近づいて来て、そのうちの一人がどんと私にぶつかって来た。はじめは誤ってぶつかって来たのかなと思ったが、そうではなかった。再び別の奴が肩をぐんとぶちあてて来た。私はよろよろとした。
 「へえ、これでも先生か」
 「ひょろひょろやんけえ」
 「洋服ももっとらへん」
 「こんなもん先生やあるけえ」
 「給仕じゃ」
 「給仕々々」
 「給仕が教えるなて生意気やぞ」
 こういった悪罵がとんで来た。そしてもう一人どんとぶつかって来た。
 私は全身がかっと熱くなり、次の瞬間、しーんと青ざめた冷たさがとってかわったのを感じた。私は黙って教室にはいって。
 「今、階段で僕にぶつかって来たやつ、これでも先生かとか、給仕だとかいった奴、手をあげろ」
 私は教壇から睨みまわした。彼等は互いに顔を見合せてにやりとしたり、窓の外を見てうそぶくようなかっこうをしていた。
 「外へ出ろッ」
 はずみというか、調子がよかったのであろうか、はつとみんな腰をうかすとぞろぞろと出て来た。
 「なんや、なんや」
 「外へ出て、どないしよういうね」
 「行ったれ、行ったれ」
 そんな声が背後からがやがや聞えたが、それはもう先程の悪罵程の強さはなかった。私は後ろを振り向きもせず、どんどん階段を下りていった。運動場へ出ると、はだしのまゝ砂場へ進んだ。彼等はやや困惑したような顔をしてぞろぞろとついて来た。
 「大きい奴から順に一列にならべッ」
 私の大喝にふくれっつらをしながらもごそごそと一列にならんだ。
 「一番、前へ出ろッ」
 私よりずっと体の大きい一番のやつが、なんでいというように肩をそびやかして一歩前へ出た。
 「たッ」私の足払いがきれいにはいった。ずしんと地ひびきを打って相手はぶっ倒れた。そいつには目もくれず、
 「次ッ」ちょっと尻ごみをする二番を、つつと進むと胸ぐらをとってぐいとひいた。ひょろひょろと前のめり出てくるところを「えいッ」
 腰投げでぶっとばした。丁度一番が立上ったその足もとへどしんと二番がころげてへたばった。
 もうこうなると完全にこちらの優勢である。残りの連中は全く気をのまれてただ蒼くなってぼんやりしたまま、次々と、私の足払いと腰投げにぶっ倒されていった。途中二三人少し抵抗した者もいたが、勢にのった私には物の数でもなかった。
 それでも全部で三十人余り投げとばした時には、流石に、肩も腹も大きな波を打っていた。
 「教室にはいれッ」
 彼等はしおしおとうなだれて階段を上っていった。気がつくと袴のすそが少し裂け、着物の左の袖が半分ちぎれてぶら下がっていた。私は腕まくりをして教室へはいっていった。
 「お前達は、服装だとか容貌だとか外形で人を判断するとあやまるぞッ」
 私の一喝にみんな神妙な顔をして頭を下げた。
 「わかったかッ」
 「はい」大部分の子供が返事をした。
 「よし、勉強だ、本を出せ」
 丁度国語の時間であったが、国語なら、少々はやれる、どんどん質問々々で攻めたてゝ、ぎゅうぎゅういわせてやった。授業終りの鐘がなって、本をしまわせると、級長が大きな声で
 「起立、礼ッ」
と号令をかけた。軽く答礼をすると、私はさっと教室を出た。後から連中もぞろぞろ出た来たが、くすッともいう者はなかった。職員室に帰ると、出目金先生に、袖のほころびをなおしてもらった。私はただ子供達と一寸、角力をとったんだといっておいた。
 放課後まっ先に足払いでぶっ倒された一番が職員室にはいって来た。私の机の横に立つと直立不動の姿勢をとった。
 「何だ」
 「掃除、出来ましたッ」
 「後の始末をちゃんとしたか」
 「はいッ」
 「よし、帰れ」
 「はッ」彼は兵隊のようなおじぎをして出ていった。その辺にいた先生方があきれたような顔で、彼と私をみくらべた。
 「へえー、あきれた、あの子がねえ」
 出目金先生が例の近眼鏡をくっつけて、しげしげと私の顔をみた。
 「小杉先生、一体どうしたの」「何がですか」
 「何がって、あの子が、あんな神妙な態度で来るなんて、今までに一ぺんもなかったのよ」
 「へえ、そうですか」
 「えらい落着いてんのね、あんた、ね、何かあったんでしょ」
 「いや、別に」
 「へえー、不思議だわ」
 翌朝、出目金先生は又おどろいた。それは、朝礼の時に、私が彼等の組の前に立つと、連中が一せいに直立不動の姿勢をとったからである。放課後、彼女は職員室にはいって来て隣に坐るなり
 「小杉先生、あんた、やったのね」とささやくようにいった。私は黙って笑った。彼女は机の引出しから飴玉の袋を出すと、黙って私の前に置いた。
 
         (月刊『SANA』(サーナ)第57号(1954(S29).3.1、真生活協会)より)
 
 
 
『勿忘草』第2号、もう一つのつながり
2025-06-01

 昨年の8月にこのコラムにて、田村一二が京都の滋野小学校在職中に事務局を務めていた京都市特別児童教育研究会が発行していた「勿忘草」という雑誌(編集者は田村一二)があったことを紹介しました。
 一碧文庫では第1号と第2号を所蔵していますが、第2号には田村が担任をしていた特別学級での日常を描いた9篇エピソードを集めた「覚書帳より」という記事が掲載されています。
 このエピソードのうち、いくつかが戦後の著書『百二十三本目の草』のエピソードの元ネタになっていることもあわせて紹介しました。
 今回は、『勿忘草』第2号が実は『手をつなぐ子等』ともつながりがあるよということを紹介したいと思います。
 まずは、時系列的に整理してみましょう。
 
①『勿忘草』第2号
 1943(昭和18)年9月15日 京都市特殊教育研究会 
 田村著のエピソード集「覚書帳より」を掲載。
   ↓
②『手をつなぐ子等』
 1944(昭和19)年1月20日 大雅堂より初版発行
 
となります。「勿忘草」第2号発行の約4ヶ月後に『手をつなぐ子等』が発行されています。
 
さて第2号には、先に紹介したように「覚書帳より」と題して9篇のエピソードが収録されていますが、このうち冒頭の「戦争」というエピソードは他の8篇とはおもむきが違います。
 他のエピソードは、田村と障害児たちとの学校での出来事が綴られているのに対して、このエピソードは保護者から担任教師に宛てた手紙について書かれています。
 
 まずは翻刻したものをお読みください。
 
「戦 争」
 最近こんな話をきいた。
 たった一人の子供が低能である。父はその子供のことで頭を悩ましていた。
 どの学校へ行っても断られる。やっとどこかの学校へ入れて貰ったと思うと、直ぐ「あの子は出来ないから、どこか適当な施設へ入れたらいいでしょう」と追い出される。適当な施設へ入れるだけの資力が自分にはない。
 途方に暮れていた時、召集令状が来た。
 父は悩みを押しかくして決然と出征して行った。
 しかし、父の頭に浮かぶものは、常に故郷に残して来た低能のわが子の姿である。
 近所の子供達から、又いぢめられて泣いていることであろう。その子の母も泣く子を抱きしめて歯を食いしばっていることであろう。
 学校へうまく入れて貰えたかしら、入れて貰えても、放ったらかしかもしれない。
 腹がへって、塵箱を探す様な浅間しい真似はしていないだろうか。
 戦いに疲れた体を露営の草枕に横たえている時、不憫なわが子の姿を思い出しては、流石の勇士も、人知れず不覚の涙に軍服の袖を濡らすのであった。
 ところが、この事をきいたある特別学級の担任が、進んでその子を自分の学級に入れ、親切に面倒をみることになった。
 やがて戦地から、担任にあてた長い手紙が来た。
 その中の一節に、
 「……これで自分も思い残すことはありません。晴々とした気持ちでご奉公が出来ます。立派に戦って死ねます…」
と書いてあった。
                       【原文の旧字体は新字体に改めています。】
 
 戦地に出征した父親が、障害のある我が子を特別学級に迎えてくれた担任へ感謝を伝える内容です。昨年8月のコラムで紹介した「方便」「混同」など他の8篇で感じられる特別学級のユーモラスで楽し気な雰囲気とは、書き方も文の調子も明らかに違いますよね。
 どことなく小説っぽい感じがしませんか?
 すでに『手をつなぐ子等』を読んだことのある方ならピンと来たのではないでしょうか。
 「戦争」というエピソードは、『手をつなぐ子等』本編冒頭、第1章にあたる「出征」と第3章にあたる「手紙」と内容がよく似ています。
 むしろ取り入れられているといってもいいぐらいです。
 
 「出征」は、主人公の寛太が障害がある故に学校でいじめに合い、教師からも見放されて、いくつもの学校から断られるなか、父親が出征し、途方に暮れる母親が最後の望みにと尋ねた小学校の校長と教師にこれまでの顛末を訴えて受け入れられるという物語の幕開けとなる部分です。
 約17ページに渡る、この小説としては比較的長い文章のなかで最後の部分の1ページ分に「戦争」の前半部「軍服の袖を濡らすのであった。」までの部分が使われています。
 その翻刻がこれです。
「出征」(抜粋)
 …………
 中には、こんな子供は特殊な施設へ入れた方がいいだろうと言って、いろいろ調べてくれる先生もあったが、そのような施設は、大てい月に三十円から五十円の経費がかかるのである。
 月に三十円以上の費用を出して、寛太を特殊な施設へ入れてやることは、今の父親としては、とても経済的に堪えられない。
 全く夫婦は途方に暮れてしまっていた。丁度、その時父親に召集令状が来た。
父親は決然として出征して行った。
 後に残った母親は、どうせ学校を変わるならと思って、店をたたんで、寛太をつれ、実家のあるこの町へ帰って来た。
 その後、たった一度だけ戦線の父親から便りがあったが、その中には、寛太のこと以外何も書いてなかった。
 戦闘に疲れた体を、露営の草枕に横たえる時も、ただ、寛太が友達にいぢめられてはいないか、学校で放ったらかしになっているのではないだろうかと、そればかり心配していると書いてあった。
 …………
【原文の旧字体は新字体に改めています。】
 
 『勿忘草』第2号では、父親からの手紙の内容について、そんなに詳しくはないですが、『手をつなぐ子等』では、かなり詳しく書かれています。
「手 紙」(抜粋)
 …………
 この変化、母親によって、戦線の父に、大きな喜びとして報ぜられた。
 その手紙の中には、「寛太は全く生まれかわりました」とも「私は毎朝学校の方を向いて、手を合わせて拝んでいます」とも書いてあった。
 それに対する父親からの返事は、だいぶたってから、母親と同時に松村先生へも届いた。
 
 …………
 
 そこには、こんなことが書いてあった。
 …………身はもとより 大元帥陛下に捧げ奉ったものに有之(これあり)、生に対する執着、死に対する恐れは微塵も御座無く候(ござなくそうろう)、さりながら、ただ一つ寛太のことのみは、拭いても拭いても拭い切れぬ悩みにて、戦友にも打ち明けられず、ただひとり露営の夢にも、軍服の袖濡らすことしばにしばに有之候(これありそうろう)、愚かなる親とお笑い被下度候(くだされたくそうろう)
 さりながら、唯今は、既に胸中一点の曇りもなく、ただただ全身一杯の歓喜に御座候(ござそうろう)
 必ず必ず立派に戦死可仕候(つかまつるべくそうろう)………
 
…………
【原文の旧字体は新字体に改めています。】
【(  )内、よみがなは筆者挿入】
 
 両書の発行時期から考えると、『手をつなぐ子等』に取り入れているというよりも、「勿忘草」第2号の文章を元に物語のイメージを大きく膨らませ、前後に文章を添えながら小説として完成させていったといえるかもしれません。
 逆に「勿忘草」第2号の前に既に『手をつなぐ子等』の原稿はできていて、要約したものを第2号に載せたのでしょうか。
 この間、わずか4カ月ですが、原稿の執筆、それから推敲や校正など、発行するまでにどれくらいの時間がかかるのか筆者はまったくわからないので、ただただ想像するしかありません。
 
 
『手をつなぐ子等』…筆者のウンチク

 北大路書房などから発行された『手をつなぐ子等』をお読みになった方は、冒頭の章のタイトルは「出発」じゃないの?と思われたのではないでしょうか? 
 本コラム2025年2月1日号でも紹介していますが、『手をつなぐ子等』は戦中に大雅堂より初版が発行されましたが、戦後になって一部内容を改訂し、大雅堂、北大路書房などから発行されました。
 「出征」というタイトルも、改訂の際におそらく戦時色が強いという理由だとおもいますが、「出発」に改められています。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第19回 代用教員(4)-1
2025-05-15
挿絵
 
 今回から、「代用教員」の第4回に入ります。この回は案外と短い章なので2回に分けました。
 
 着任早々、新任校長の歓迎会に誘われもせず、逆に宿直を押しつけられてしまった「小杉先生」、小使室で住み込みの用務員夫婦と出会い、お酒のはいった小使いのおじさんに絡まれかけて・・・。
 

 
 「おじさん、ねる前に一度校舎、見廻っておくんだろ」
 「えゝ、だけど、先生はまだはじめてだし、あっしが廻っときますよ」
 「なに、僕が廻るよ」
 私は立上がった。
 「それじゃ、提燈に火をつけますから」
 「そんなものいらないよ」
 小使室を出た私は、渡り廊下を渡って校舎にはいっていった。
 校舎にはいってみると案外に暗かった。これはやっぱり提燈を持って来たらよかったと思ったが、一旦いらないといい切って来た以上引返すわけにもいかんと、意地を張ってそのまま歩いていった。
 階段の踊り場で、何やらむこうから動いてくるものがいるので、ぎょっとして目をこらしてみると、大きな鏡に写っている自分の姿であることがわかったが、しばらくは胸がどきどきとしていた。
 長い廊下をすたすたと歩いて行く私の草履の音だけが聞える。だいぶいった頃、すうっと両側が壁になって真暗になったと思ったとたん
 ぐわーん
と音がして、私は大きな鉄板にぶつかった。全く予期していなかったのと、大きな音がしたのにびっくりして、危く後ろにひっくりかえるところであった。
 手探りでなでてみると、防火扉であることがわかった。更になでまわしていると、ハンドルがわかった。それをまわして、やっと向うに出た。後をしめると急にこわくなって大急ぎで歩いた。廊下を左に廻ると、民家からのあかりでやや明るくなっていたので、ほっとした。
 小使室に帰って来て明るい電燈の下に腰をおろしたらやれやれと思った。
 「やあ、先生、廻って来ましたね、えらいもんだ、若い人で一人で廻るせんせいってめったにありませんぜ、大抵、おじさん一しょに廻ってくれだ、先生は若いけどえれえや、おまけに提燈もなしでよ」
 「その提燈を持っていきやよかったよ」
 額のあたりがひりひりするので指でおさえてみると少し血がにじんでいた。
 「おや、先生、どうしました、そこ」
 「だから、提燈を持って行けばよかったんだ、防火扉にぶつかったよ」
 「うわつはゝゝゝ」
 虎が手を打って笑った。
 「こいつあ、いいや、防火扉に正面衝突するなんて、勇敢だ、先生はいいとこあるね」
 「おとつゝあん、何をいらんこというてはんね、まあまあ、先生、危うおしたなあ、あそこは暗いとこやさかいな」
 「あそこに、まさか防火扉があるとは思わなかったよ」
 「そうどすとも、はじめての先生にわかるもんどすかいな、でも先生、若いのに、しっかりしといやすなあ、感心どすわ」
 そして、おばさんは何だか油薬のようなものを塗ってくれた。
 それから、宿直室へつれていってくれたが、そこは丁度小使室の二階で六畳敷ばかりの部屋に床、押入れがつき、窓よりにベットが一つ、別の窓のところに机が一つ、その横に碁盤が一面、座蒲団が二三枚ある。ベットの蒲団には洗いたての敷布がしいてあって気持がよかった。枕は脂でよごれていたので、放り出して、座蒲団に手拭いをまいた。着物、袴をぬぐと、シャツのままもぐりこんだ。
 ところが、ベットは藤で張ってあるらしく、それが古くなってゆるんでしまって、丁度、体の下のところがへこんで、特に尻の下はそのへこみがきつく、まるで、ふとんの溝の中にねている感じであった。それでもいつの間にかぐっすりとねむってしまったが、明け方にえらく寒いので目が覚めてみると掛ぶとんがベットの下に落ちてしまって、私はふとんの溝の中にまるくなってねていた。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第57号(1954(S29).3.1、真生活協会)より)
 

 
 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第18回 代用教員(3)-3
2025-04-15
 「どうかよろしく」
と私も頭を下げて炉のそばにあった椅子に腰をかけた。おばさんがすぐ茶を入れて持って来てくれた。
 「いや、一寸、一つぱい、やっとりますんで、へつへゝゝゝ」
とおやじは左手で首の後ろをかいた。骨組はがっしりして、色は黒く、ひげが濃く、鼻は低く、それに目がやぶにらみだ。その目がどちらの方向からみても、こっちを見ているように見える。そこでさっそく「八方睨みの虎」と綽名をつけた。藪にらみの虎かと心の中でくりかえしてみたら、その符号がおかしくて思わずにやにやと笑ってしまった。
 「どうです、一杯」と相手は盃を出して来た。
 「いや、僕はまだ早いよ」
 「あ、なあるほど、先生はまだ二十才になってないんですってね、若えもんだなあ、まあ、こんなもなあ飲まなきあ飲まねえ方がいいんだ、あっしなんざ、先生位の年にはけっこう飲んだがねえ」
 おやじは首を大きく左右に振った。いよいよ虎だ。
 「おやじさんは関東かい」
 「いや、あっしや生れは北海道でさあ、若い時にや、東京にも横浜にもいたこたあありますがね、まあ、やくざ道楽の末が、流れ流れて、こんなところで、御覧の如く、小使稼業でさあ、はつはゝゝゝ」
 前歯の一本抜けている口と、やぶにらみの目が、自嘲の口振りに一入の淋しさをそえていた。私はふと、夜店のしんこ細工屋のじいさんを思い出した。
 「おばさんは?」
 「なあに、こいつあ、こちらの田舎のやつでさあ」
 虎はおばさんをあごでしゃくって肩をそびやかした。おばさんは知らん顔をして針を動かしていた。どうやら、おばさんの方が人間は一枚上のようだ。
 「先生方は、今日はどこへ行ったんだろう」
 「へん」虎は又肩をそびやかした。
 「飲みにいったんですよ、今日は新任校長の歓迎会でさあ、それあいいんだ、それはわかっている、だが俺にわからねえのはあんただ」虎は八方睨みの目で私をにらみすえた。
 「僕が何かしたのかい」
 「いや、あんたは何もしやしないさ、ね、あんたは若い、若いがだ、やっぱり先生にちがいはねえだろう、え?」私は黙ってうなづいてやった。
 「そうだろう、先生にやちがいねえんだ、しかも、今日来た新任の先生だ、校長も今日来た新任の先生だ、あんたも先生、校長も先生、同じ新任の先生じゃねえか、どこがどう違うんでえ、新任の歓迎会なら、あんたもよびやいいじゃねえか、え、そ、そこがどうも気に食わねえ」
だいぶ首を振り出して来た。どうもこのおやじは虎である。
 「あんたはにやにや笑ってるがね、俺あ笑えねえ、あん畜生のすることはこれだ、相手が若えと思いやがって、え、三十銭の弁当をあてがとっといてさ、はじめての者に宿直までさせやがって、畜生め、え、小杉さん、あんたしっかりしねえと駄目じゃねえか、なぜ、断らねえんだ、え、おい、小杉さん」
 「おとっつあんッ」その時、奥から一声とんで来た。
 「う、うん」
 虎は一も二もなくへたばってしまった。正に鶴の一声である。ここでは虎よりも鶴の方が強いらしい。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第56号(1954(S29).2.1、真生活協会)より)
 
「南郷」と俳句
2025-04-01
 先月の通常コラムは筆者の都合によりお休みさせていただきました。
 とうとう来たか?、ネタが尽きたか?、果ては休載か?と、多大なるご心配をいただいたのではないかと、案じておる次第です。ハイ。
 しかしながら、ネタが尽きたかというとそうではなく、相変わらずひっ迫した状態は変わらないなりに書けないことはなく、今しばらくは続けられそうな「ネタのタネ」はあるのです。
 ただ、あくまで「タネ」なんですけど…
 
 じゃぁ、書けばいいじゃん、って話ですよね。そう、書けばよかったのです。しかし書けなかった。
 途中までは、あれやこれやと調子よく書いていたのですが、結局、どうにもまとめきれなかったのです。
 …というゴタクを書き連ねておりますが…さて今回のコラムは、なぜそのようになってしまったかのご報告。
 
 実は前回、取り上げようとしていたのは初期近江学園の「俳句」でした。
 ご存じの方も多いと思いますが、初期の近江学園では、文芸活動がたいへん盛んだったようで、職員が書いた論文やエッセイ、詩などを集めた同人誌「南郷」が発行されていました。
 当時の職員が詠んだ俳句も毎号たくさん掲載されています。
 1号あたり大体10数句、多い時には百数十句掲載された号もありました。
 これらの俳句について、どれぐらいの職員さんが、どれぐらいの俳句を詠んだのかを、統計的にまとめてみると、第1号(1947年2月)から第16号(1955年11月)までで合計453句もあり、詠んだ人は50名に上ります。三分の二くらいの詠み人が1句か2句のみですが、句数のダントツ1位は糸賀で104句、次いで田村の81句、糸賀の妻、房さんが44句、池田太郎(29句)、岡崎英彦(21句)と続きます。近江学園創立メンバーがトップ5です。
 スゴイでしょう。453句ですよ。しかも糸賀、田村の句数。学園の運営に日夜奔走する日々の中で、これだけの数を詠んでいたのですからね。
 ただ、ここまでなら、コラムをお休みしなくても、糸賀、田村の作品をいくつか挙げて、スゴイ数だねぇと紹介して終わりにできたのですが、話はこれだけではないのです。
 実は、同人誌「南郷」の俳句は、ここだけにとどまらないのです。
 というのも「南郷」の俳句の掲載されたページをよく見ると「どんぐり句会抄」と印刷されています。
 「抄」とは、「抄本」、「抄録」など要するに「抜き書き」のことですから、「ここに載せたのは、ほんの一部ですよ」、「他にもあるけど、紙面の関係でこれだけです」ってことなんですね。
 ですから「どんぐり句会」という近江学園職員の句会、本格的な俳句の会があって、「南郷」だけにとどまらない活動がされていたということなんです。
 そして、一碧文庫にはその句会の活動を示す資料として「かやの」、「鶴翼」、「どんぐり」という3種の俳句雑誌と「どんぐり句集1」という句集があります。
 そうなんです。資料もあるんです。
 それで、筆者も統計的には調べていて、詠み人合計68人、ダブりを除く俳句数合計1321句、句数トップは糸賀238句、2位田村180句、3位房夫人155句というように、単純に数字として挙げることはできます。
 「南郷」とそれぞれの紙誌との時期的な関係性なども併せて紹介しようとしたのですが・・・。
「南郷」だけではなぁ・・・「かやの」や「どんぐり」もあるぞ、「どんぐり」は近江学園職員が編集しているけど、「かやの」の発行者は日野町のお寺になってるし、そこに選者として浜中柑児って名前も出てくるし・・・と、筆者の頭のなかは、あれも、これもと考えるうち、サクサクどころか、どうにもうまくまとまりがつかぬままタイムアウトとなってしまったという訳なのです。
もう一度しきり直しです。乞うご期待。
 
「南郷」と俳句 資料写真

 
「かやの」、「鶴翼」、「どんぐり」のデータだけ、最後に紹介しておきます。
 
・俳句雑誌「かやの」
 発行所は、かやの発行所またはかやの句会。編集人代表は、山上荷亭。
 発行所の住所は、滋賀県日野町の誓敬寺となっていて、筆者が調べたところ編集人代表の山上荷亭はこのお寺の住職だった人で、俳句界では有名な俳人でもあり、日野町内には句碑もあるようです。
 かやの句会という一般の句会が発行する俳句雑誌に糸賀をはじめ近江学園の職員関係者が投句していたようです。
 近江学園の職員の詠み人計15人、句数合計313句でした。
 一碧文庫には、1947(昭22)年2月発行の2月号(第3巻2号)から1951(昭26)年3月発行の2月号(第7巻2号)までの計45冊がボール紙の表紙に綴じひもで綴じた状態で保管されています。おそらく糸賀か房夫人が綴じたものと思われます。
 
・俳句雑誌「鶴翼」
 発行所は、敷島紡績株式会社八幡工場俳句部。近江八幡にあった紡績会社社員のクラブ活動ですね。
 近江学園関係者の詠み人は計13人、句数合計20句。
 一碧文庫には、1951年発行の9月と10月の2号が「かやの」と同じ綴りに綴られていました。
 発行時期から見ると「かやの」と「どんぐり」の間に位置していて、なんらかの理由で「かやの」の発行が滞り、続く「どんぐり」までのつなぎとなったのではないかと思われます。
 
・俳句雑誌「どんぐり」
 県立近江学園の所蔵です。
 近江学園には1952(昭27)年3月発行の第1号から1955(昭30)年2月発行の第34号のうち32冊(第16号と第31号が欠)が保管されています。
 発行は近江学園で、編集者も近江学園の職員でしたが、学園の職員だけでなく一般の方の投句もありました。
 投句者の住所をみると粟津、八幡、京都、岡山などと記されています。
 
 これら3誌と「南郷」の俳句に共通しているのは、選者が「浜中柑児」であるということです。浜中柑児という人は、当時、大津市の三井寺近くに住んでいたホトトギスの同人です。つまりプロの俳人ですね。三井寺近くですので、旧あざみ寮の近所なので、その関係で糸賀と知り合いになったのかもしれません。浜中氏は、当時選者として複数の句会の指導をしていたようです。その関係で近江学園以外の詠み人の句が「かやの」や「どんぐり」に載せられていたと思われます。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第17回 代用教員(3)-2
2025-03-15
 おひるはうどんをとって貰ってすませた。金は月給日でいいそうだから安心だ。おひるがすむと皆がざわざわしはじめた。机の上を片づける男の先生や、コンパクトで鼻の先をたたく女の先生、そこへ教頭がやって来た。妙に物腰がていねいである。
 「小杉先生、今日ははじめてでお疲れでしょう」
 「いや、別に」
 「今夜、何かお差支がありますか」
 「いや、別に」
 「あ、そうですか、それは有難い」
 私はどこかへ招待されるのかと思った。
 「実はお願いなんですが、今夜、一つ、学校に泊って頂きたいので」
 「はあ?」
 「みんなこれからでかけますので、まことに新任早々の先生にこういうことは相すまんのですが」
 「わかりました。宿直ですね」
 「そうです そうです」「むつかしいのですか」
 「いや、もう泊ってくださればよいので、小使が万事心得おりますから」
 「やりましょう」
 「どうもすみません、その代わり、夕食はお弁当をいうておきますから」
 教頭はぺこぺこと頭を下げると大急ぎでいってしまった。私は運動場へ散歩に出た。講堂の横に小さな池が一つあって、鮒が五六匹はいっていた。私はしばらくそばに立ってみていたが、こういうとりとめのない気持でいる時には、こんな魚でも、何となく心を楽しませてくれるものであることを知った。私は父が破産した時に、毎日金魚を眺め暮していた気持がわかるような気がした。
 職員室に帰ってくると、もう誰もいなかった。
 それは本当にガランとした感じであった。昼の間が騒がしいだけに余計にその感じが強かった。この広い建物の中に私と小使夫婦と三人しかいないのだと思うと急に心細くなって来た。書棚に現代日本文学全集が揃っていたので、二、三冊ひっぱり出して来て読んだ。読んでいるうちに時間がいつの間にたっていた。
 「先生、まあ、電気もつけんと」
 角力とりのように肥ったおばさんが、盆の上に朱塗りの三つ重ね弁当と湯呑をのせてはいって来た小使のおばさんだろう。おばさんは天井から下がっている紐をひいて電気をつけた。びっくりするぐらい明るくて、疲れた目にまぶしかった。
 「ありがとう」
 おばさんを見上げて笑うと、おばさんも人の好さそうな顔をくずして笑った。まっ黒なおはぐろが珍しかった。
 「お腹すきましたやろ、お弁当きましたでな、さ、おあがりやす」
 おばさんは弁当を私の前にすすめて、熱いお茶をついでくれた。
 「ありがとう」
 「先生 あんた、お若いらしいけど おいくつどす」
 「十八」
 「へえ、十八、高等科の生徒とあんまりかえあらんがな、若い先生やなあ、はッはゝ」
 おばさんは太い腹をゆすって男のように笑った。目がつやつやと陽にやけた頬の奥で細くやさしかった。私も愉快になって声を出して笑った。
 食後しばらく又本を読んでいたが、それにもあきたので、弁当の箱と湯呑をもって小使室にいってみた。土間の真ん中に炉があって茶釜がかけてあり、湯がたぎっていた。その奥に畳敷の部屋が一つあって、おばさんが針箱をひきよせてつぎものをしていた。おやじさんは上がりかまちのところであぐらをかいて酒をのんでいた。
 「まあまあ先生、放っといてくれやしたらよいのに、わざわざ」
とおばさんがとんで出て来て弁当箱を受けとってくれた。酒をのんでいたおやじは膝小僧を揃えると
 「これは小杉先生ですかい、あっしは××と申しやすここの小使でやす、どうかまあ、よろしくおねがい申しやす」
といって、ていねいに頭をさげた。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第56号(1954(S29).2.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第16回 代用教員(3)-1
2025-03-01
 筆者の都合により、通常のコラムはお休みして、「屑屋先生」を繰り上げて掲載します。
 
 「屑屋先生」は、今回から「代用教員」の第3回に入ります。
 新任式で、校長と壇上に上がったものの、着任の挨拶もしなくていいと言われ、校長の長話しに退屈した「私」でしたが・・・。
 

 
 職員室に帰ってくると、入口に一番近いところの机が一つあけてあって、教頭がそこへ坐れといった。ここが私の席らしい。
 椅子にかけてはみたものの何をするということもなく、ただぼんやりしていた。先生連中はみんなで三十人位もいたろうか。たばこをすったり、雑談したり、本を読んだりしていた。授業はないが、といって帰るでもなく、まだこれから何かがあるらしかった。若い男職員の連中が何か楽しみごとがあるらしくひどくわいわいいってはしゃいでいた。教頭は全然顔を見せなかった。
 校長室にはいったきりで校長と話しているらしかった。
 「先生、先生」
誰かがそういったようだったが、私のことではないと思ったので知らん顔をしていた。
 「小杉先生」
あ、私のことだ。私はどぎまぎした。生れて先生と呼びかけられたことが最初である。
 「は、僕ですか」
 「はゝゝゝゝゝゝゝ」
隣の女の先生は、びっくりしたような私の顔をみておかしくってたまらないように机の上に体を折り曲げて笑った。
 「何がおかしいのですか」
むっとした心がそのまま口調に出てしまった。相手はびっくりして顔を上げたが
 「すみません」と素直にあやまった。余り素直なので
 「いや 別に その」と私は又あわてた。
 「先生はどちらの学校出られましたの」
 「大阪のI中学です」
 「まあ、I中学ですの。野球とっても強いんですってね」
 「えゝ」
私は流石に嬉しくてにこにこした。
 「僕、野球大好きです」
 「まあ、それぢや野球お上手でしょうね」
 「いや、ちっとも出来ません」
 「あら、選手じゃないんですか」
 「いえ、応援団です」
 「まあ、団長さん?」
 「いえ、ひらです」
 「はゝゝゝゝゝ」
相手は又笑いかけたが、さっきの事を思い出したらしく、途中で我慢して笑いを押さえた。そして、いかにも感心したように私の顔をつくづくと眺めた。何に感心したのかはわからなかった。
 その時、私もはじめて相手の顔をよく見た。年は二十三四かと思ったが、あとになって二十九才だとわかった時にはびっくりした。女なんて化物みたいなものだと思った。色の白い下ぶくれの顔で、丸い花の頭だけお白粉がすっかりとれていた。特徴は猛烈にひどい近眼で年輪の様に沢山な輪の見える分厚い近眼鏡の奥で目玉が眼鏡ぐらいでおっつくものかというようにとび出していた。私はこの女の先生に「出目金」という綽名をつけた。「出目金」の言葉づかいのていねいだったのははじめの二三日で、後は
「ふん ふん そうや そうや」
にかわってしまった。やっぱり出目金は出目金であった。
 私の真向いにいるのは男の先生で、年の頃は五十才位か、特徴は夏目漱石に似て大きなお椀を伏せたようなひげを持っていた。目の下のたるみや左右不揃いの眉毛など漱石そっくりだった。これは文句なしに「漱石」とつけた。漱石は絶対に喜怒哀楽を顔に表さない。出目金がどんなに笑っても、にっこりともしない。といって苦虫をかみつぶしているのでもない。要するに知らん顔をしているのだ。「どこ吹く風」という文句はこの顔のためにつくった言葉かと思われるぐらいだ。物いうでなし本読むでなし、ただひっきりなしに長煙管で吐月峯(はいふき)をひっぱたいている。まるで月給貰って、学校へ煙草をすいに来ているような男だ。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第56号(1954(S29).2.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第15回 代用教員(2)-3
2025-02-15
 翌朝、いよいよ学校へ新しく赴任するわけであるが、別に今の私としてはどうといってふだんと変わりようもなく、いつもの通り古沢庵に茶漬で朝飯をすまし、例の如く紺がすりに小倉の袴で外へ出た。ただいつもと違うところは帽子だけである。夫婦喧嘩を起しそうにしてまで貸してくれた帽子であるから、少なくとも見ているところだけでもかぶらないと悪いと思ったので、頭にのせて出たが横町にまがったとたん脱いでしまった。しばらく行くと大きなショーウインドがあったので、帽子をかぶって姿をうつしてみた。
 「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ」
 あたりには人通りがなかつたので、私はそり身になって、ウインドの中のこっけいな私の姿を思いきり嗤ってやった。それから帽子をぶらさげて大股に歩き出した。鳥打帽だとこういうときふところの中にはいって都合がいいのだが、中折帽となるとそうはいかない。特にこのカンカンのかたいやつは何ともしようがない。明日から断然かぶらないと決心した。鳥打帽がいけなければ無帽でいいだろう。まさか帽子不着用願を出せとはいうまい。
 学校はK市の西南のはずれ、場末で、近くに汽車の機関庫があり、その辺一帯がすすけてごみごみしていた。尋常高等小学校で、生徒は千人位いた。丁度その日は新しい校長がやって来た日で、これからその校長の新任式が行われるというところであった。そこで私もついでに新任式をされることになった。校長と私と応接室に待っていた。校長は確かに二十二三貫はありそうな巨漢であった。身動きするたびに椅子がぎしぎしと鳴った。私もそっと身動きしてみたが椅子はきしともいわなかった。私は当時十一貫位で、ミスター・ホネと綽名された位にやせていた。
 手など、野球のグローブとまではいかないが確かに私の二倍は優にある位大きかった。私の手はよく女のようだといわれる位にほっそりとしていた。私はそっと手をテーブルの下に入れた。校長はぎょろりとした血走ったような目玉を開いたり閉じたりしていた。私など眼中にないように見向きもしなかった。新任の挨拶でも考えているのだろう。やがて教頭がやって来た、式場に案内しますという。これも私などには目もくれない。校長にばかり話しかけている。なるほど代用教員とはかかるものかと思った。校長が、講堂にはいる前にちょっと振り返った。
 「君は挨拶せんでもええ、わしが一しょにやっとくで」
 人を馬鹿にした話だとは思ったが、結局めんどうでなくていいと横着な気持になって
 「どうぞ」
 と返事をした。講堂にはいると、女の子の髪のにおい、体臭、汗のにおい、そんなものが体温と一しょになってむっと鼻をおおった。教頭の紹介の後で、校長と二人壇上に上った。校長は正面、私はその横、しゃべるのは校長だけ、私はつんと立っているだけである。校長は長々としゃべっていた。抑揚をつけて、身振りを入れて、懸命になってしゃべっていた。時々笑わせようとしておかしな事をいったが、子供達はぽかんとしてちっとも笑わなかった。仕方なしに自分だけが笑っていた。
 私はだんだん退屈になって来た。子供達の顔はただ目鼻のないしゃもじがずらりとならんでいるようにしか見えない、そのしゃもじの大集団の後の壁に大きな字で「質実剛健」と書いた横額がかかっていた。やけに元気よく墨をはねとばして書いてあった。その字を目でたどって何度もくり返して見ている中に、段々妙な気になって来た。一体全体、岡という字の横に刂(りっとう)を書いて何故ごうと読まなければならないのだろうか。これをごうと読ませる理由はどこにあるのだろう。果してこれは、ごうという字なのか、あやしいものだ。誰かが嘘をついているのではないか、それをみんながだまされてそう読んでいるのではないか……… その時、目の下のしゃもじがさあーと黒く変った。はっとしてみるとみんなおじぎをしている。校長の話がすんだらしい。ほっとして、私もぺこんとおじぎをし校長の後から壇をおりた。
 
  (月刊『SANA』(サーナ)第55号(1954(S29).1.1、真生活協会)より)
法​人​本​部​・​も​み​じ​・​あ​ざ​み​
一​ ​麦​
お​お​き​な​木​・​碧​天​・​相​談​支​援​事​業​所​
社会福祉法人 大木会(法人本部)
〒520-3194
滋賀県湖南市石部が丘2丁目1-1
TEL:0748-77-2532
FAX:0748-77-4437
E-mail:momiji-azami
@cronos.ocn.ne.jp
 
もみじ あざみ
〒520-3194
滋賀県湖南市石部が丘2丁目1-1
TEL:0748-77-2532
FAX:0748-77-4437
E-mail:momiji-azami
@cronos.ocn.ne.jp
 
一麦
〒520-3111
滋賀県湖南市東寺2丁目2-1
TEL:0748-77-3029
FAX:0748-77-2380
E-mail:ichibakuryou-1961.4
@poem.ocn.ne.jp
 
 
------------------------------
<<社会福祉法人 大木会>> 〒520-3194 滋賀県湖南市石部が丘2丁目1-1 TEL:0748-77-2532 FAX:0748-77-4437