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SEEDS column シーズ・コラム

 

更新は1日と15日

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『屑屋先生』(田村一二:著) 第30回 本科正教員(2)-2
2026-01-15
 二学期、三学期もすんで、新しい年度が来た。私は五年男子を受持つことになり、私の持っていた三年男女組は、新任の町野という女の先生がもつことになった。
 町野さんは今度師範学校を出たばかり、校長につれられて職員室に挨拶に来た時も、まだ、学生のままのような感じであった。何か運動をやっていた人らしく、学校時代水泳の選手だったということが後でわかった。体ががっちりとして均整がとれていた。
 頬も陽にやけて健康そうだし、切れ長の目がやさしかった。私は感じのいい女の先生に私の後をやって貰うことを喜んだ。
島田も、同学年に町野さんを迎えたことは喜んでいたが、私が五年男子の担任になったことは不思議だといって首をひねっていた。
 大体五六年はいつも校長一派にもたせるので、小杉なんかに持たせる筈がないというのである。ひょっとすると、まだ小杉が法本、島田たちの仲間でないと思ってるのかも知れないともいった。ともかく、どういう理由で校長が私に五年男子を受持たせたか、わからなかったが私は約六十名の男の子を相手に張切った。放課後も子供達と一緒に理科の実験をやり、又その準備をととのえ、一緒に絵をかき、額縁をつくり、古新聞でパルプをこしらえて地理の模型をつくったり、空かんを利用して家庭で使う灰皿をつくったり、植木鉢に草花を植えたり水槽に魚を飼って観察したり、又一緒にフットベースボールや、ドッヂボールをやって遊んだり、毎日子供達はふうふういうくらい学習して本当にたんのうして家に帰っていった。
 勉強の出来ない子も二三人いたが、私は彼等が、学科学習の時には青葉に塩の如く元気がないのに、いざ、図画、工作、体操となると、人がちがうようにいきいきとしてくるのをみて驚いた。更に、額縁つくりやパルプつくりをやらせてみて、その根気のよさ、熱心さにびっくりした。彼等の目はきらきらと輝いているではないか。これが、出来ん坊、劣等生、低能児であろうかと思われるほどであった。私は彼等を教科書、活字から解放した。勿論、学科学習を全然放棄したわけではないが、分量をうんとへらして、体を通した作業学習に重点をおいた。彼等は旱天に雨を得たものの如く、見る見る生き生きとしてきた。朝も一番早く教室に来て、掃除をしたり、エナメルや筆の段取りをちゃんとしておくのも彼等であった。
 私は、こういう出来ん坊の教育の一つの鍵を手に入れたような気がした。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第61号(1954(S29).7.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第29回 本科正教員(2)-1
2025-12-16
挿絵
 さて、シーズコラムですが、しばらくの間充電期間を取らせていただきます。
 これまで、不問庵・一碧文庫にある資料をもとに、筆者が集めたり、調べてきたことを拙い文章でお伝えして来たのですが、一旦整理をしてみようと思い立ちました。
 昨年の糸賀生誕110年、今年の田村没後30年があり、そのお陰かどうか糸賀、田村に関する新たな資料もいくつか発見されました。ですので、ネタが尽きたというよりも、これらをこのコラムでも紹介できるよう一碧文庫の資料として整理作業をすすめたいと思っています。
 お読みいただいている皆さまには、申し訳ないですが、再開の日を楽しみにお待ちいただきたいと思います。
 屑屋先生については、これまでどおり月1回ペース15日に更新していく予定です。
 

 
 養成所の卒業の時、私は、本科正教員になったら、第一にポマードを買って、塗ってやるぞ頭の毛にいいきかせたのに、いざ月給を貰ってみると、まっ先に買ったのが、油絵のセットで、ポマードなどすっかり忘れてしまっていた。したがって頭髪は相変らずぼさばさで、服は黒のサージの詰襟、靴はぶかぶかの兵隊靴、ただ肩からぶら下っているスケッチ箱だけが、真新しい。
 第一番に描いたのが、こわれた数個の素焼の植木鉢で妙に古びた素焼の鉢の色にひかれた。
 古いかけた素焼の鉢が五つ六つ横隊に一列に並んだ絵をみて、島田が顔をしかめた。
 「おい、これは池の横にころがっていたやつだろ」
 「そうだよ」
 「又、変なものを描くやつだなぁ、これは捨ててある鉢だぜ」
 「だって、美しいじゃないか」
 「ふーん、そうかなぁ」
 法本が横から絵をのぞきこんだ。
 「小杉が描いたのか、なかなかいいじゃないか。面白いよ、この絵で見ると、案外小杉という男は、特殊な教育の方にとびこむかもしれないぜ」
と、云って笑った。
 「こういうこわれたものや、捨てられたものに美を感じるやつだから、人間の屑に興味を持つようになるかもしれんなぁ」
と、島田もいった。
 私はそんなことを今までに考えたこともなかったのに、こう云われると、何か、かくしていることを、いい当てられたような気がして、黙り込んでしまった。
 そして俺は、そんなことを考えたことがあっただろうかといろいろ反省してみた。
 その時ふと思い出したのが、この学校へ赴任して来る前の日のこと、用事で学校の裏通りを通った。ははん、この学校だな、今度来る学校はと思いながら歩いていると板塀のところに五六年の男の子三人がしゃがみこんで、何か眺めていた。何気なしに後からのぞきこんでみると蟻が穴から出たりはいったりしているところであった。それを実に熱心にながめているのだ。九月のはじめで、まだ残暑にきびしかった。
 三人共鼻の頭に汗をうかべている。
 「面白いか」
と聞くと三人共私を振り仰いでにやりと笑った。どれも余りかしこそうな顔ではない。
 「君たち、S校の生徒さん?」
 中の一人が「うん」と答えた。
 「もう学校すんだの」
 実は、まだ短縮授業中だから、午前中に授業はすむ筈だが、それにしても、この子供は早い、まだ午になっていない。それに鞄を下げてこんなところで蟻を見ている。一寸、疑問に思ったのだ。ところが、この私の問いに対して、彼等は俄然、不機嫌になった。ぷいと立上ると、おこった様な顔付で、草履袋を振り廻しながら行ってしまった。その後姿は不貞腐れているようでもあったし、やけくそみたいな感じもあった。
 その時は妙だなと思っただけであったが、赴任してしばらくすると、この問題はわかった。
 又、別のそういった子供達と、近くの神社の境内で出会った。彼等は池の亀に石を投げて遊んでいた。
 「君たち、六年生だろ、今頃、こんなところにいるなんて、どうしたの」
と聞いてみると、今度は、よくしゃべるのがいた。
 「わいらなぁ、勉強出来へんさかい、早うかえるねん」
 「どうして」
 「先生なぁ、お前らじゃまになるさかい、早う帰れいわはんね」
 「……でも、みんな遅くまで勉強してるじゃないか」
 「ああ、あらなぁ、よう出けるやつばっかり残っとんね、わいらあかへんのじゃい」
 その子は怒ったように、池の亀をめがけて、石を投げた。
 
  (月刊『SANA』(サーナ)第61号(1954(S29).7.1、真生活協会)より)
 
田村一二没後30年記念事業『田村一二の思想と実践を今に』を開催しました
2025-12-01
 11月16日(日)の午後、湖南市甲西文化ホールにて田村一二没後30年記念事業「田村一二の思想と実践を今に」を開催しました。
 心地よい秋晴れの一日、ほくほくと暖かく運営スタッフの中には屋外でお昼弁当を食べる人もいるほどでした。
 そんな行楽日和の、しかも何かと行事ごとが多いこの時節にもかかわらず、選んでこの催しにご来場いただきました皆様には、本当にありがとうございました。
 田村一二先生と親交のあった方、一麦寮の旧職員の方、福祉施設関係者の方、障害児・者福祉・教育の研究者の方などなど幅広い層の皆様がお集まりくださいました。
 前半は導入として、青山塾で田村一二先生の講義をお願いしている京都女子大学教授の玉村公二彦さんに田村先生の生涯を振り返っていただきました。戦前の教師時代から戦後の一麦寮までを中心に貴重な写真や資料のスライド、映像を披露していただき、その時々の田村先生の活動をお話しいただきました。
 特に田村先生のラジオ出演時の音声は、民謡を歌う場面もあり、懐かしく思い出した方、初めて聞く方様々だったと思いますが、貴重な経験だったと思います。
 後半は日本社会事業大学准教授の冨永健太郎さん(青山塾では池田太郎先生担当)を進行役に、元一麦寮寮長の吉永太市先生、法人顧問で田村先生の次男でもある田村俊樹さん、そしてひきつづき玉村さんにも登壇いただき、トークセッションをしていただきました。
 93歳とご高齢ながらお元気な吉永先生には、田村先生との出会いや一麦寮での実践の姿、また田村先生から受けた教えについて、田村さんからは石山学園、近江学園、びわこ学園で幼少期から青年期まで家族として暮らし、育った経験から現在の障害者入所施設の在り方に対する思いを、そして玉村さんからは障害児者福祉・教育史の研究者としての田村一二論を語っていただきました。
 手前ミソなお話ではありますが、実はこの日を迎えるまでには都合7回の実行委員会をもち、別に旧職員の同窓会やミニ&プレ対談をやったりしながら、四人の登壇者には打ち合わせを重ねていただきました。(本当にお疲れさまでした。)
 その甲斐あって田村一二の思想と実践が決して過去の遺物などではなく、今へとつながり、現在の実践の場で働く人の精神的な指針になり得ることが実感していただける催しになったのではないかと思います。こうした動きがより拡がっていけばと願っています。
 
田村一二没後30年記念事業第2弾。資料展開催中
 さて、ここでお知らせを一つ
 田村一二没後30年記念事業は、これで終わりではありません。
 第2弾として資料展『田村一二と石山学園・近江学園・一麦寮』を開催しています。
 会場は、田村先生が実際にお住まいになっていたお家です。(湖南市東寺三丁目3-7)
 永らく無住になっていましたが、この資料展のために少し改装もして展示会場となっています。
 水曜日~金曜日(午前10時から午後5時30分)、土曜日(午前10時から午後4時)に開館しています。日曜、月曜、火曜はお休みです。期間は来年3月14日(土)まで。
 年末年始(12月28日(日)~1月6日(火))は休館です。
 
 石山学園の昭和20年度日誌や田村先生が著書「茗荷村見聞記」の構想意図を綴った次男田村俊樹さん宛の直筆の手紙など初公開の資料も数点ある資料展です。
 また田村先生の筆になる絵画や一麦利用者の作品も展示しています。
 何より先生が実際に絵を描いておられたアトリエをご覧いただくことができます。
 ご興味、お時間のある方はぜひお立ち寄りください。
 
 どうしても開館日に都合が合わないという方は、ご相談に応じますのでお気軽にご連絡ください。
 (社会福祉法人大木会 一麦 事務室(℡0748-77-3029))
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第28回 本科正教員(1)-3
2025-11-15
 今度来た学校は、以前のにくらべると半分位の小さい学校だが、きれいにこじんまりとしていた。運動場も前の学校の四分の一位で、ぐるりがすっかり校舎にかこまれていて、どちらをむいてもガラス窓ばかり、まるで金魚鉢の中へはいったような気がした。それで、新任式の時にこんなことをいってしまった。
 「この学校の運動場はぐるりがガラスでかこまれて、まるで金魚鉢のようですね、その中で遊んでいるみなさんは金魚や鮒のように見えます。女の子は金魚で男の子は鮒ですか」
 子供達が顔見合せてにやにやと笑った。
 「でも、私は暴れん坊ですから、ひょっとすると、金魚鉢をこわすかもしれません、こわすと、校長先生に叱られますか」
 こゝまでいうと子供達がうわーと云って校長の方を見た。これはよほどふだんからガラスをこわすなといわれており、こわれた時はひどくしかられるんだなと感じた。壇上から校長の方を見ると、なるほど、澁い顔をしていた。
 その後、私は子供達と運動場でボール遊びをやっていて、二回にわたって三枚ばかりガラスをこわした。先生がガラスをこわしたので、その度にもう子供達は、喜んでしまって、ころげまわるようにして笑った。
 その度に又、校長が校長室の窓を開けて顔を出したが私がこわしたと知ると、苦い顔をして何もいわず窓をしめてしまった。
 教頭にあやまりに行ったら、
 「先生からそういう悪い手本を見せて貰っては困りますねえ」と云って、じろりと白い目でにらんだ。
 「すみません」
と頭を下げたが、好かねえ野郎だと思った。自分の机に帰ってくると向いにいる同学年である三年担任の島田君が、僕の顔をみてにやにやと笑った。彼は私より一つ年上で血色のいゝ丸顔をいつもにこにこさせている陽気な青年で、気持は呑気でおっとりしていた。
 私とは直ぐ仲よしになった。
 彼はあの挨拶が気に入った。久し振りですっとしたといった。
 「小杉君だんだん面白くなるぜ」
 「何が」
 「今にわかるよ、とに角、君はやるから面白いよ」
 私はさっぱり訳がわからなかった。その日の放課後に島田に誘われてコーヒをのみに行った。島田は私の他にもう一人先生をつれて来ていた。これが高等科女子担任の法本であつた。彼は私より三つ程年上だがみたところ十才も上のように老けてみえた。日蓮宗の寺の息子で、頭も丸刈り、顔もそういえば俗人ばなれをしていたが、利かぬ気の青年らしかった。しゃべっているのは殆ど島田で、法本の方は大体に於て黙っていた。しかし気持は両方とも全く通じでいるようであった。
 こゝできいたのが、校長と教頭を中心とする一派と、法本、島田その他二三人でかためている反対派との対立である。その他の先生方は、表面は校長一派で腹の中では法本一派に好意を持っている連中だということであった。
 その校長派の背後には学務委員の沼田というのがいて、これが学校内のボスで、校長は全く沼田のかいらいに過ぎないとか、教頭が沼田のきんちゃくで、むしろ教頭の方が校長より人間が悪いとか、職員同志の、或は区内のあつれき、その他いろいろ複雑な事情がこんがらがっているようであったが、新米の私にはよくのみこめなかった。
 たゞ、校長や、教頭が、余りいい人間ではなさそうだ。そして、この沼田や法本は、いゝ人間のようだということはわかった。従って、今後、校長達のやり方を見て、それによって法本の方に味方をしてやろうと思った。
とに角、私がガラスを割ってから、運動場の周囲に金網がはられ、子供達は遠慮気兼ねなくボール遊びが出来るようになった。
 島田が私の肩をたゝいて、
 「小杉、君のてがらだぞ。」
 
  (月刊『SANA』(サーナ)第60号(1954(S29).6.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第27回 本科正教員(1)-2
2025-11-01
 今回も屑屋先生をお楽しみください。
 

 
 本科正教員になると同時に、私は転任させられた。今度は市の中央部の学校である。
 簡単な送別式だけで、送別会もない。挨拶をすませて門のところまでくると、焼芋を分けてたべた連中が数人待っていた。相変らず、縄帯にはだしの子もいる。ひとりごう然とうそぶいていた子もいる。
 私は立止って、黙って彼等の顔を見渡した。彼等も黙ってニヤーッと笑った。私は急に彼等がいとしくなった
 「こらッ、お前たち、焼芋の味を忘れるな」
 「うん」
と、皆が一せいにうなずいた。
 「どんなことがあっても、へたばるなよ、わかったか」
 「うん」と又、皆一せいにうなずいた。
 「よし」
 私は拳固をかためて、一人づゝ彼等の頭をコツンコツンとたゝいて廻った。
 彼等は真白な歯をみせて、実にうれしそうにニャーッと笑った。私は涙が出そうになったので、そのまゝ振り返りもせず、どんどんと校門を出ていってしまった。
 
 本科正教員になると同時に、月給も七十五円にはね上った。
 それを機会に〇市の裏長屋にいる両親を引取って臨済宗の禅寺D寺のすぐ横に小さな家を一軒かりてはいった。
 久しぶりで、奉公にいっている兄も来て、親子四人が水入らずで、夕飯を共にした。
 冷奴で盃をかたむけた父が、僅かに五六杯で真赤になった。昔はビールなど徹夜でのんで一ダース位のビンをならべた人であったが全く別人のように弱くなった。
 酒も弱くなったが、気も弱くなって、兄や私を眺め、
 「俺が意気地がないばっかりに、お前達に苦労をかけてすまんなあ」と云って目をしばたゝく。
 「お父さん、何いっているんだよ。これから大いにやろうという今晩はめでたい出発の日だぜ」
と、私がわざと元気よくいうと、
 「うむ、うむ」
と嬉しそうにうなづく。
 「いくらせまくっても、こうして親子が一しょに暮せるんだから私しゃ、とても嬉しいよ。」
と涙もろい母は袖を目にあてる。父も母も嬉しいんだなぁと思うと、私も胸が熱くなった。
 一軒家を持つと月給だけでは少しつらいので、知人の紹介で家庭教師を一つ世話して貰った。中学の入学試験準備というのでなくて、学校の成績の悪い子、いわゆる出来ん坊だが来てくれるかという遠慮がちな話であった。間接な話であったが、私はその子が哀れに思えて即座に行くことを承知した。
 その晩、紹介状を持って、その家をたづねた。古めかしいつくりの旧家であった。家の中は昼でも電灯がつけてあった。
 その子の父も母も祖母も出て来て、実に遠慮勝に頼むということをくどくどといった。
 こういう出来の悪い子は家庭教師もなかなか来てくれないということが、この人達の話でわかった。やはり可なり出来る子を教えて、中学に入れて、御礼をたんまり貰って、そしてそれが又自分の経歴になるということらしい。
 気の弱そうな家族の人たちの同じような話をながながときき、さて帰ろうとして、立上つたとたんに、すとんと仰向けにひっくり返ってしまった。しびれが切れたのである。
 家族の人達は、見てはならぬものを見たように、はっとして、皆が目を伏せた。
 「はっはゝゝゝゝ」
 と私が笑ったものだから、やっと気の毒そうに目をあげて私を観た。私は苦笑いをしながら、しきりに足をさすった。主人は挨拶に困って、
 「どうも、どうも」
ばっかりくりかえしていた。
 翌日、教えに行くと、ちゃんと、椅子とテーブルが畳の上にそなえてあったのには恐縮した。
 
 その後間もなく、ある人の紹介で、D寺の老師と近づきになった。老師は八十三才と聞いたが、かくしゃくとしていた。どういうわけか私が気に入って、小杉君、小杉君とかわいがってくれた。
 私も寺のふんいきが好きで、よく遊びに出かけた。日曜日などは、大てい、例の小倉の袴をはいて寺へ遊びに行った。そして老師のたてる茶をよばれた。
 「どうだ、小杉君、これは石州流だが、教えてやろうか。」
 「真っ平です」
 「にべもない奴じゃな。はっはゝゝゝゝ」
 老師は歯の抜けた口を開けて笑った。当時の私は茶など習う気は毛頭なかったが、今頃になって、あの時に習っておけばよかった、惜しいことをしたと思っている。
 そのかわり、老師の作務はよく手伝った。
 「小杉君、庭の手入れじゃ」
 「かしこまりました」
 私はくるくると着物をぬぐとシャツにさる又、はだしといういでたちでしたがう、ならんで庭の草を抜いているが、老師も無言私も無言、たゞせっせと草を抜く。この間別に何を教えられたというでなく、又何をきいたというでなく、茶をよばれたり、作務を手伝ったりして、三年間老師のもとへ通った。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第60号(1954(S29).6.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第26回 本科正教員(1)-1
2025-10-15
挿絵
 
 さて、今回から「本科正教員」の章に入ります。
 現在でいうと非常勤講師から、いよいよ教諭に任用されたことになります。当時は、教諭のことを訓導(くんどう)と呼んでいました。
 この小説を田村の自伝的小説と捉えるなら、1930(昭和5)年、京都市植柳尋常高等小学校にいた頃のお話ということになります。
 滋野尋常小学校で特別学級の担任になるのは、この約3年後となります。
 
 
 養成所の方の夜学は大体に於て、三分の一は居眠りをしていたが、どうやら卒業も間近に迫って来た。
 その頃になると、研究授業が廻ってくる。これは、なんでも好きな科目を選んで、それで公開授業をして、養成所の先生方や同期生で近くの学校の連中がやって来て参観して、後で批評会をやるという段取である。私の学校にもその通知が来た。私は校長室に呼ばれた。
 「小杉君、君は、今度の研究授業に何をやる積りかね」
 「はあ、図画をやろうかと考えていますが」
 「図画?」
 校長は苦り切った顔をした。
 「図画なんちゅうものはつまらん、理科をやりたまえ理科を」
 「理科ですか、でもいろんな実験道具がそろっていませんよ」
 「道具なんか買えばよい、いくらでも買いなさい。」
 「買ってよろしいか」
 「あゝ、よろしい。貧弱な授業をしては〇校の名折れじゃ、この際、思い切って実験道具を揃え給え」
 占めた。全くありがたいことになったものだ。今まで若い職員達がいつもこぼしていたのは、理科の実験道具がないこと、しかも、なかなかそれが買ってもらえないことであった。
 実は、今度の研究授業を機会に理科の実験道具を少しでも揃える方法はないものかと、おりおり密議をこらして来たので、実のところ、理科はあまり自信がないのだが、そいつをやらないと道具が買ってもらえないから、理科をやることにしていたのだ。しかし、本当は図画をやりたいと思っていたので、校長にきかれた時は思わず、本心を言ってしまったわけだ。ところが、それが校長の図画ぎらいを刺戟して、反動的に校長の好きな理科に力こぶを入れさせてしまった。そして、どんどん道具は買い給えと来たのだから、これは全くわれわれの思う壺であった。
 若い連中は喜んで、私をたすけてくれた。授業は「水素」で、発生させて爆発させる実験をやることになった。みんな実験道具をどんどん取りよせて揃えてくれた。
 この際とばかり、「水素」に便乗して他の実験道具まで買いこんだりした。
 いよいよ晴の「研究授業」当日となった。
 理科教室の広い教卓の上には、実験装置が、整然とおかれている。みな、真新しいやつばかりだ。子供達は度肝をぬかれてぽかんとしている。
 覗学、覗学委員、校長連中、同期生たち、うちの職員たちがぞろぞろと四十人近くもはいってきた。参観に馴れない場末の学校の子供達はきよろきよろとしておちつかないことおびただしい。
 いや、実はこちらも先程から足下の教壇がどこかへいってしまって、まるで雲の上にのっているような気持なのである。
 下っ腹にうんと力を入れて――そのために妙な浪花節めいた声になったが――授業をすすめていった。
 いよいよ亜鉛に稀硫酸をそゝぎこんだ。水素がプクプクと発生しはじめた。こちらのガラス管の先にゴム風船をもっていったが一向にふくれない。昨日、下実験をやったときには、たしかに、ふくれたのだが。私はあわてた。ただ実験が、失敗したというだけではない。相手は水素である。爆発したら事だ。子供達がけがをしたという新聞記事を読んだことを思い出した。腋の下にたらたらと汗が流れて来た。いろいろと機械をいじってみるがどうしても外へ水素が出て来ない。教室中が無気味にしーんとして来た。
 もう駄目だ。子供達に万一のことがあってはいけない。私は教壇の上から、後の方にならんでいる参観者達によびかけた。
 「どなたか、恐れ入りますが、この故障をなおして下さる方はありませんか」
 理科の指導委員が悲壮な顔をして教壇にかけ上がって来た。しばらくして、しゅうと水素が出て来て、風船がプウーとふくれはじめた。参観者の溜息と子供の歓声が一度に起こった。
 水素でふくれた風船は、いくつもいくつも舞い上がって天井にくつついてゆれていた。授業の最後に、長い竹の先にローソクをつけて、風船を焼いた。風船はポカンと爆発音をたてゝけしとんだ。子供達は大喜びでポカンポカンと割っていった。
 後の批評会では、さんざんに叩かれたのと、ほめられたのとが半々で、まるで水と湯を同時にぶっかけられたようで、妙ちきりんな気持になつた。
叩かれたのは、大体その場になってガスが出んというようなことではいかんではないか、もっと事前準備を入念にしておくべきだという意見。至極もっともで一言もない。
 ほめられたのは、あの場合、自分の恥も忘れて、子供の安全のために、教壇から救いを求めた素直さはなかなかよいというのである。
 研究授業も、学校に実験道具をいろいろ増したという功績だけを残してすんだ。
 一年半の代用教員時代もすんで、養成所の卒業式が来た。この卒業式の後で本科正教員の免許状が貰えるのである。
 式は、入学試験のあった女学校の講堂をかりて行われた。
 式場にはいる前に、私が水道で頭をぬらしていると、岡崎の男が近づいて来た。
 「小杉、何しとんな」
 「毛をぬらしているんだよ」
 「毛をぬらして、どうするんだ」
 私は黙つてポケットから櫛を出して、そばの窓ガラスを鏡に髪をなでつけた。水でぬれた毛はつやつやとしておとなしく寝てしまった。これでのばしはじめてから四ケ月位、油をつけないので、いつもはばさばさ、今日は一生一度の卒業式なので、せめても水をつけてばさばさの毛をねさせておこうというわけである。
 「これが本当の水油さ」
 私が笑うと、彼もにやりとしながら、
 「相変らずお前の貧乏は徹底しとるのう」
と感心したようにいう。
 「願わくば、式のすむまでこの水がかわかざることを」
 私はなるべく頭を動かさないようにそろそろと式場にはいった。式の様子は一切忘れて覚えがないが、たゞ頭髪の中から、しずくがつつうつつうと背中や胸へ流れこむ、そのこそばゆさ、気持の悪さ、しかも手拭を出して式の最中に拭くわけにもいかず、これには参った。
 そちらへ気がうばわれて式のことは何にも覚えなかったのかも知れない。
 本科正教員の免許状を貰って、月給が上ったら、まっ先に、ポマードを買ってやるぞと、所長の長たらしい式辞をききながら、わが頭にいゝきかせていた。。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第60号(1954(S29).6.1、真生活協会)より)
 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第25回 代用教員(6)-2
2025-10-01
 またもや筆者都合により「屑屋先生」を繰り上げ掲載します。
 ここのところ自転車操業的にコラムをあげてきましたが、いよいよそれもままならなくなってきました。
 というのも、このホームページにも案内掲載しています「田村一二没後30年記念事業」の開催日が迫ってきて、いろいろと忙しくもなってきたからです。(言い訳ですが・・・)
 
 田村一二は、戦前の特別学級担任から始まり、石山学園、戦後になって近江学園、一麦寮、茗荷会運動とその時、その時代の第一線にあって先進的に障害児者教育を進め「ともに生き、ともに育つ」ことを自ら実践してきた人でした。
 筆者は田村本人に直接会ったことはありませんが、多くの著書や残された資料に触れることで、その考えや実践は決して古いものではなく、今だからこそそれぞれが心にとめて実践すべきことなのだと実感しています。
 没後30年を経て、その実践を振り返る中から今一度その思想を確かめあい、今日の施設福祉にどのように受け継ぎ、活かしていくのかをともに考える機会になればと思っています。
 多くの方々にご参加いただければと願っています。
 案内掲載ページ(http://ookikai.or.jp/publics/index/51/
 (筆者、初めての経験・・・Googleフォームで申込フォームを作りました。)
 
 ということで、そんな田村の未刊行小説「屑屋先生」です。
 

 
 日曜日というと大ていの勤人は朝寝坊をするものだが、私の場合は逆であった。但しそれは晴天の日に限って、雨の日は、午近くまでねて、朝食を節約した。天気がいいとわかるとがばとばかりはねおきて、そっと階下におり、洗濯場にいって、パンツとシャツをぬぎ、腰にはタオルを巻きつけ、その家の石鹸をこっそりと借用して――まだ誰も起きていない――手早く洗って、屋上の物干台にいってそれを干す、時々ねまきと靴下がその横にぶらさがる。大てい、それがかわくのを待っている間は洋服のズボンをぢかにはいて知らん顔をしているのだが、一度あたたかくて爽快で余り気持がよかったので、タオルを腰にないたまゝ、物干台にいたところを、通りから子供たちにみつけられた。
 子供たちはきゃっきゃっといって手をたたいて喜んだ。今さら逃げかくれしても仕方がないので、上から手を振ってやった。
 子供たちは、うわっと歓声をあげた。先生のこんな姿はよっぽど珍しかったらしい。
秋になった。紅葉狩をかねて職員旅行が催された。今度は私もつれていってもらうことになった。誰かが何かの都合で留守番をしたいといったのかもしれない。
 ところが、出発の前日、教頭からみんなにいろいろの注意があった、出発時間だとか、集合場所だとか、それは別に何でもない。
 その後で妙なことをいった。
 「さて最後に、一こと御注意申し上げますが、途中汽車の中でも、向うへついてからも、お互いに、絶対に先生といわないこと」
 それでは何と呼べばよいのかと思ったので、訊いてみた。
 「それでは、何と呼ぶのですか」
 皆がげらげら笑った。
 「何々さんと、名を呼べばよろしい」
 教頭はわざと笑わないで答えた。
 「では校長先生も、Uさんといえばいいのですか」
 皆がどっと笑った。
 「いや、校長先生は社長と呼ぶのです」
 「社長?」
 「そうです」
 「なぜそんな妙なことをするんですか」
 今度は皆笑わなかった。教頭は苦い顔をして答えなかった。
 「今度は何会社だ」
 と誰かが訊いた。
 「洗濯会社です」
 と、教頭は答えた。
 「洗濯会社? はゝゝゝ そいつは、いいや」
 「意味深だね」
 「そうすると、教頭さんは会計課長とでもよぶか」
等と口々にいった。教頭はにやにやと笑った。そして先生といったものは一円の罰金だといって注意を終った。
 結局、私の質問は無視されてしまった。私はどうしても腑におちないので、出目金さんにきいてみた。彼女はじゃまくさそうにいった。
 「そら、小杉先生、あんたなんかまだ若いから、わからへん」
 「だが、先生がお互いに先生と呼んでいけないというのは、何故だろう。それを知りたい。先生、あなたはそういうことに賛成なんですか」
 彼女は当惑したような表情を浮かべた。それからやゝ投げやりな口調でいった。
 「賛成なんかしてへんけど。しょうがないのやわ」
 「どうしてです」
 「あのね」
 彼女は首を振って、それから姉が弟にいいきかせるような口調で話した。
 「あのね、結局のところ、みんな先生とみられたくないの、汽車の中でお酒のんだりむこうでしようもない歌うとうたりしたいし、そうするには会社員に化けてした方が気が楽なのよ、先生がお酒のんだり、歌ったりしたらかっこうが悪いと思ってんのね」
 「なんだ、そんなことか、くだらない」
 「そうよ、だけど、人間の弱さでしょうね」
 出目金先生にしては珍しく深刻な顔をして溜息をついた。
 彼女の顔をみたら、それ以上もう聞けなかったから、私は黙ってしまったが、腹の中では先生だって人間だから酒ものもうし、歌もうたおうし、踊りもするだろう、それを一体、何故かくれてこそこそやろうとするのだろうか、どうしてそんなに卑屈なのだろう、堂々とやればいいではないか。それをやっぱり体裁をつくってうわべは聖人のようにみせたいところが、やはり出目金さんのいう人間の弱さかも知れない。しかし、自分の仕事を卑下しているような人に、本当に人を教育することができるだろうかと思った。
 
    (月刊『SANA』(サーナ)第59号(1954(S29).5.1、真生活協会)より)
 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第24回 代用教員(6)-1
2025-09-15
 
 
 今回から、「代用教員」の第6回です。
 第6回では、欠食児童と教員旅行についてのエピソードが出てきます。
 教員旅行のエピソードは、戦前、田村が京都日出新聞に連載していた「両刃斬撃(もろはざんげき)」の第1回「社員は旅行する」(1941(昭16)年2月9日掲載)として紹介されています。
 ちなみに京都日出新聞は、後に京都日日新聞と合併して現在の京都新聞になります。
 

 
 大体この学校は場末にあって、貧乏な子供がおおいようであった。現に私が補欠にいっている組にも、履物がなくてはだしで来ている子供が数人いた。中には垢だらけの着物に縄のおびという子もいた。そういう子供の中に今いったお弁当を持って来ないのが二三いる。どうして弁当持って来ないのだときくと、食べたくないとか、弁当なんかいらんと答える。そうかなあと思っていたが後で他の子供が教えてくれたところによると、「先生、あいつら、お弁当いらんてうそでっせ、貧乏で、弁当持って来られへんね」
 これをきいて私は俄然、彼等の欠食児童に同情した。同病相憐むといった気持である。
 しかし、驚いたのは、この何人かの欠食児童の中で一人だけ食事中いつも教室の自席で、ごう然と腕組をしている子供がいた事である。他の子供は大てい運動場の片隅でこそこそ遊んでいるか、教室にいてもうなだれたりしていたのに、この子供だけはびくともせずに胸をはっていた。豪い奴だと思った。
 いろいろ訊いてみると、やはり家が貧乏で弁当が持って来られないのだ。
 「つらいか」
 ときいてみると
 「つらいけど、一ぺんぐらい食わんでも死なへんわい」
 と昂然と答えた。
 「先生は貧乏で弁当の代りに焼芋を食ってるんだが、お前にわけてやったら食べるかい」
 「うん」
 案外あっさりとうなづいた。
 「おいで」
 彼は教卓のところへついて来た。新聞紙の上にいくつかの焼芋がころがっていた。彼はいきなり一番大きいのをむずとつかんだ。
 「待て」
 私は彼の手を握った。
 「それは僕が食う、体が大きいからな」
 彼は実に愉快そうに、にやりと笑うとそのいもをはなした。
 「先生、俺の他にも、弁当のないやつ、いるんやで」
 「よし、運動場のすみっこにいる連中、つれて来い」
 運動場へとんでいった彼はすぐ三人の子供をつれて来た
 「今日は俺とも四人や」
 「よーし」
 一番大きいのは私の分にとっておいて、小さいいもを子供四人に分けてやった。子供達は嬉しそうに自席にかえると、そろそろといもの皮をむきはじめた。皮をむいた上等の焼いもなどぜいたくで、その頃はもっぱら皮のまゝ丸焼しか私の口にははいらなかった。
 私は教壇の上からそれをみながら、
 ――畜生、貧乏人のくせに、ぜいたくな奴だ――と思った。そこで、私はこれみよがしに皮のまゝ、むしゃむしゃと食べた。ところが彼等はていねいに皮をむき終ると、中の黄色い美しいいもはそっと横において、皮を一枚一枚たべはじめた。皮をすっかりたべ終ると、残してあった美しい皮のない芋をとりあげ、お互にうなずきあい、私の方をむいて、一寸乾盃する時のようなかっこうで、そのいもをさし上げてみせてから、さも、うまそうに、いとおしむように食べた。
 ――えゝい、いじらしい事をしやがる――
 私は眼が涙でかすんで、いもがのどにつかえてしまった。
 爾来、貧乏なる教師と子供らは、まず焼いもの皮をむいて先にたべてしまい、残る皮のない黄色く美わしい芋を、お互いにちょっとさしあげうなずき合って食べる習慣になった。
 月給日には、私は彼等欠食児童に一杯づつのうどんをおごってやった。勿論私もその日はうどんである。
 眼を輝かしてちゅうちゅうと賑やかな音をたてゝたべる彼等に他の弁当組の子供達が逆に圧倒されるかっこうになった。
 アルミの弁当を手にもったまゝ、うどんを高くはさみ上げて食べている子供の方をうらやましそうに見ている子供が出来て来た。
 中には休み時間に、
 「先生、僕もうどんたべたい、弁当持って来んさかい、うどんたべさしてんか」
 と単刀直入に申込んでくる子供もいた。どうもこれには参った。そこで、全体の子供に貧乏談議を一席やって実はやむを得ず、こういうことをやっているのだということを了解して貰った。その間中、あの腕を組んでごう然とうそぶいていた子や、いつもはしょんぼりしている縄おびの子らが、実に嬉しそうに、にやりにやりと笑いながら弁当組の子供達を見返っていた。
 
              (月刊『SANA』(サーナ)第59号(1954(S29).5.1、真生活協会)より)
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