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SEEDS column シーズ・コラム

 

更新は1日と15日

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『屑屋先生』(田村一二:著) 第37回 本科正教員(4)-3 最終回
2026-08-15
 とうとう最終回となりました。
 主人公小杉先生は、恋人?町野先生に知的障害者教育の教師になると決意表明をします。
 そして、その実践の場となる理想の学園像を熱く語ります。
 
 小説「屑屋先生」は、月刊「サーナ」に掲載されたものとしては今回が最終回です。
 サーナ版は終わりましたが、でもまだ近江学園の同人誌「南郷」版があったり、なんと新発見の雑誌連載も見つかりました。
 なので、まだまだ「屑屋先生」は終わりません。
 次回は、サーナ版の最終回について、ご報告したいと思っています。
 お楽しみに
 

 
 校門を出て、電車通りに出ると、二人は顔を見合せて笑った。
 ならんで歩き出すと、自然、私が町野先生を送って行くようなかたちになった。彼女の家は学校から遠くない。何だか私は余り近すぎて、あっけないような、苦しいような気がして出来るだけゆっくり歩いた。
 職員会などではあれだけしゃべれるのに、こういう具合になると何も云うことがなかった。映画などでは、こういう時にはなんとか、かんとかうまいことをいうもんだが、さて、私には、それがどうしてもいえない。あきらめて、黙って歩いた。彼女も黙っていた。
 あんまりどうも曲がないので思い切って、それも、二三べん口の中で練習してみてから、
 「お茶をのみませんか」
と、いってみた。
 「ええ、まだ時間も少し早いし、」
 彼女はちょっと腕時計をすかしてみた。
 「のみましょうか」
 こうなると、どうも女の方が、しゃべり方から身のこなしが、うまいように思う。
 静かな喫茶店をみつけてはいった。他に誰も客はいなかった。入口から一寸かげになる席に向い合ってかけた。飲むものなんかどうでもいいんで、コーヒーを二つ注文した。コーヒーが来る間、なるべく正面をみないように、横やうしろの壁面の絵を眺めていた。コーヒーが来るとそれを一心にすすった。
 「小杉先生は絵がお好きなのね」
 「ええ」
 「絵かきさんになられるおつもり?」
 「いや、そんなことを思ったこともありますがね、今ではやはり、教育の方をやりたいと思います」
 「屑屋先生?」そういって、町野先生は、ふふふふといたづらっ子のような目をして笑った。
 「ええ、なるべくなら、その方に行きたいですなぁ、何だか、普通の小学校は余り面白くありませんね」
 「小学校がおいやなら、どこへいらっしゃるおつもり」
 「そうですねえ、どこか、田舎の広々としたところへ家を立てて低能児たちと一しょに畑を作ったり、家畜を飼ったり、農産や畜産の加工品をつくったり、例えば、小麦を製粉して菓子やパン、畜産からはバター、チーズ、ハム、ソーセージ、それから綿羊もかってホームスパンもやりたいな、染物、織物、その他土地によっては陶器もやきたい、木工もやりたい、金工もやりたい、あの連中、喜んで、夢中になって、鼻の頭に汗をうかべて、ふうふういってやるだろうなぁ、そして、とても面白いものを、普通の人間の思いもかけないようなものをつくりだすだろうな、馬をかって、馬車をつくって、その馬車に低能児のつくった陶器や、額縁や、椅子や、火箸や、おもちゃや、それから、ハム、ソーセージ、バター、それにきれいな花を一ぱいつんで、町へ売りに行くのだ。そして帰りには農具や材料や、きれいな本を買って帰ってくる、だんだんお金がたまってきたら、ピアノ、電蓄を買う、ブラスバンドもつくりたい、額に汗して、泥んこになって昼は働くのだ。そして夜は、きれいな絵本をみたり、静かに織物や編物をしたり、ブラスバンドをやったりするのだ。夏は冷え冷えとした星空の下で、冬はあかあかともえる暖爐のそばで」
 いつの間にか私はひとりごとをいっていた。
 ふと気がつくと、彼女がうっとりとして私の顔をみている。私ははっとした。
 「町野先生、出ましょう」
 「ええ」外は星がきれいだった。
 「まぁ、きれい、小杉先生のお話の空のようだわ」
 「僕のは空想ですよ、そんな学園がいつになったら出来るかなぁ」
 「小杉先生、それは単なる空想ではありませんわ、きっと出来ます。きっと出来ますとも。正しい祈りは必ずききとどけられます。私たちは懸命に祈りましょう。そして準備をすすめましょう。私たちの学園のために」
 「私たちの学園?」
 「あら」
 彼女は、はっとしたように風呂敷で口をおおった。
 突然、「おやすみなさい」
 というと、ばたばたと駈けだした。すぐ向うに彼女の家の玄関が見えた。その前で、こちらを振りむいた彼女は、にっこり笑うと、一寸、手をあげた。
 私はそこから引き返して、又、暗い道を歩いていった。何だかまだ体がふわふわしているようで、どこをどう歩いているのかははっきりしない、とても電車にのる気になんかなれない。
 ええい、こういう晩は歩いて帰ってやれ、
 私は胸をぐっと張って大股に兵隊靴をがっさがっさとならして歩き出した。
 どこからか木犀の香が強く流れて来た。
 
 (月刊『SANA』(サーナ)第63号(1954(S29).9.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第36回 本科正教員(4)-2
2026-07-15
 ラスト2回となりました。
 いよいよ次回、大団円。
 おたのしみに!
 

 
 運動会の後、裁縫室で慰労会があった。すきやきだ。沼田も他の学区の役員連中と来ていた。彼等は校長や教頭と鍋をかこんでいた。私は法本や島田たちと鍋をつついていた。
 だいぶ酒もまわって、歌も出つくした頃、沼田が真っ赤な顔をしてやって来た。どしんとわれわれのそばにあぐら(・・・)をかくと、ぐっと私をにらみつけた。濁ったきたない眼だ。
 「こら、小杉、貴様、若僧のくせに、大体、生意気だぞ」
 こんなやつに敬称や敬語をつかうのは勿体ないと思った。
 「何が生意気だ」
 「な、な、なにッ」
 「落着いて物をいえ」
 「く、くそッ」
 いきなり、拳固をかためて、横面をなぐって来た。私がぐっと後へ顔をそらすと、拳固が流れて、彼は前へつんのめりそうになった。
 「止めなさい、沼田さん」
 法本が彼の腕を押えた。そうなると彼はよけいに猛り立った。
 「な、何をッ」
 彼は立上った。向うの方から区内の役員連中が、ばらばらと走ってきた。
 「沼田さん、いかん、やめなさい、沼田さん」
 彼等は左右から彼を抱きとめた。
 「くそッ、この、小僧めッ」
 彼は怒りに赤黒くなった顔を激しく横にふると、役員連中の手をふり切って、だっと前に出て来た。もういかん。逃げるわけにもいかん。彼の左手が、私の左袖をつかむが早いか、右足で彼の足を払った。足払いである。これが見事にきまった。
 づしーんと物凄い音を立て、彼の巨体は横倒しにぶっ倒れた。頭がくらくらしたのか、しばらく彼は動かなかったが、やがて
 「お、お、おのれっ」
と、手をついて立とうとした。それを又、役員連中や男の職員達が押えつけた。今度は連中も真剣になって押えたので流石の彼も立上れない。その間に、法本や島田や、その他の男の職員が、
 「小杉、これ以上やってはいかん、とに角、後は引受けた。外へ出ろ、外へ」
といってくれるので、私は外へ出た。
 階下におりて、便所へ行って、出てくると運動場の空気が冷え冷えとして、気持がよかった。ぶらぶらと池のふちに行って立っていると誰かがそっと近づいて来た。
 「小杉先生」
 「あ、町野先生」
 「大丈夫ですの、おけがはありませんでした?」
 「大丈夫です、けがはありませんよ」
 「まぁ、よかった、ほんとに、どうなることかと思って心配しましたわ」
 「すみません」
 「沼田さん、もう大分静かになってましたけど、又、二階にお上がりになってはうるさいし、このままお帰りになったら?」
 「そうですね、帰りましょう」
 私は職員室の方へ歩きかけた。
 「私も帰ろうかしら」
 一寸いたづらっぽく町野先生がいった。
 「あなたもですか、二階の方はいいんですか」
 「ええ、学年主任は島田先生でしょう」
 「うん、島田君なら、うまくやっといてくれるでしょう、じゃ、帰りましょうか」
 「ええ」
 町野先生はいそいそと私の後について来た。
 職員室には誰もいなかった。私は例の兵隊靴をはくだけ、町野先生も靴をはいて風呂敷包みを一つ持つだけ、二人は足音をしのばせるようにして外へ出た。
 
 (月刊『SANA』(サーナ)第63号(1954(S29).9.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第35回 本科正教員(4) その前に
2026-06-15
 とうとう出ましたね。前回の「屑屋先生」で。タイトルの由来が。
 何故に「屑屋先生」なのか。その真相が明らかになりました。
 学校の評価を上げるために優等生ばかりを特別扱いし、成績の劣る生徒たちを「屑」と呼んで憚らない校長や教頭への怒り心頭の言葉だったのですね。
 「屑というなら、屑といえ」、「僕は屑屋先生になりたい」
 ん~ん。カッコイイ。カッコイイなぁ。
 
 戦前、ことに戦時中は、世の役に立たない者として知的障害のある人たちへの偏見は相当なものだったでしょう。
 そんな時勢の中にあって、田村は滋野小学校や石山学園で子どもたちとともに暮らし、知的障害児教育の理想を追っていたのではないでしょうか。
 
 さて、小説『屑屋先生』は「本科正教員」の(4)に入ります。
 2023(令和5)年12月に第1回が始まって2年と6ヶ月、いよいよこれが最終章です。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第35回 本科正教員(4)-1
挿絵
 その晩、○○屋には、七、八名の者が集まった。全職員の三分の一だ。私は法本と島田と、それにひょっとすると町野先生が来てくれたらなぁ位にしか思っていなかった。
 それがこんなに大勢だとは意外であった。更に意外だったのはあの老先生、坂本先生が来ていたことだった。
 先生はしょぼしょぼした目に涙をためて長い教員生活の間に今日程困ったことはなく、又、今日程、胸のすーとしたことはなかったといって、若い連中を肯づかせたり、笑わせたりした。
 それに町野先生が来てくれていたことは、私にとって一番うれしかった。島田が、
 「小杉というやつは、何かやる、今に何かやるぞと思っていたら、案の条やりよった。俺の予想は適中したよ愉快々々」
と大はしゃぎであった。
 その晩はみんなで、大いに教育について語り合って気持よく解散した。その後、校長も教頭も何事もなかったように知らん顔をしていた。ただ職員の中に出来ん坊に関心を持ちはじめて、彼等に語りかけたり運動場の隅にじっとしている彼等と遊んでやる人達が増えて来たのを見て私は涙の出る程嬉しかった。
 秋の運動会が近づいて、校内が賑やかにあわただしくなって来た。その頃に学務委員の沼田がよく学校へやって来た。
 体重二十三貫ということだが、でぶでぶに肥って、手の指まで太い毛が生えていた。顔はいつも脂ぎって、血ばしった不潔な眼が、ぎょろりと光っていた。いつもズボンのポケットに手を入れて、校長室のドアーなどは足の先で開けてはいっていた。
 職員室へも黙ってはいって来て、誰かが会釈しても、あごをちょっとしゃくる位で、ろくすっぽ顔も動かさずに行ってしまう。横暴きわまるやつだった。
 こいつの息子は六年生だがそれは教頭が受持っていた。
 ある日、何かの簿冊をとりにいく用があって校長室にはいった時この沼田が来ていた。応接の椅子に体をうずめて、足は靴のままテーブルの上に投げ上げている。
 それだけでも無礼な奴だのに、丁度、お茶を持って来たのであろう。中年の女の先生の手を握っているのだ。その女の先生は憤りと恥しさとで真っ赤になっていた。
 流石に私がはいって来たものだから、彼も手をはなしたので、女の先生はやれやれというように出ていった。
 ところが、あきれた事には校長がちゃんと自分の机にいるのだ。この野郎、沼田の無礼を見て見ぬふりをしていたらしい。
 私はむかむかとした。いきなりどんどん校長の机の方へ進んで行って、
 「邪魔だ」
といって、机の上の足を払いおとしてやった。
 「な、何を、」
 彼はあわてて吃った。今まで、この学校でこんなあつかいを受けたのは初めてなんだろう、態あみろ。
 「何が、何だ。女の先生の手を握ったりしやがって、無礼な奴だ、文句があるなら運動場に出ろ」
 私は戸棚から簿冊を出すと、さっさと校長室を出て来た。しばらく職員室で待っていたが、沼田はとうとう出て来なかった。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第63号(1954(S29).9.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第34回 本科正教員(3)-3
2026-05-15
 
 教頭は、びくっとして椅子から立上ろうとして、うまく椅子が後に引けず、よろよろとした。
 「あわてるなッ、教頭だと思って、おとなしくいっていれぁ、いい気になりやがって、何んだと、君には教育者としての愛がないのかだと、へん、君のいうような教育愛は、はばかりながら持ち合わせはないんだ。君らは、出来ん坊と呼ばれる子供達が、他の出来る子供達の予習の邪魔になるからといって早く帰されていくあの姿をみたか。君らは、あの子供達が、何といっているか、聞いたことがあるのか」
 私は、かつて、池のふちでかんじたあのどうにもならぬ腹立たしさを再びここに感じた。そいつを思い切り、教頭に校長にたたきつけてやった。
 「あの子供達のあわれな姿がみえず、その子供達の淋しいつぶやきが聞えずに、一体全体、それで教育者だと云えるのか、何が教育者だ、何が教育者としての間、嗤わせるな。」
 校長も教頭もまっ蒼になっていた。坂本先生がしきりに私の上衣のすそをひっぱる。
 「坂本先生、先生にはまことにすみません、だがお願いです。今日はいわせて下さい」
 「はッ」
といって、坂本先生はあわてて手をひっこめた。私はこの老先生が気の毒になって、成る可く早くやめようと思った。
 「僕は何も子供達が中学に入ることを喜ばぬわけではない。だがあなた方のいう、屑をほったらかしておいての予習教育など断然反対だ。僕達は優等生も、劣等生も生かさなければならぬ。こんなことはわかりきった話だ。現在では、優等生の方は至れりつくせりだから、むしろ僕達は、これら屑といわれている出来ん坊、低能児の面倒を大いにみてやる必要がある。
 頭のいい人間が、愚直な素朴な人間よりえらいなんて一体誰がきめたのだ。よくみればなずな花さくかきねかなで、牡丹も美しい、だが野菊にも美はある。低能児のなかに、如何に美しいものがあるか、純一無雑な美しさがあるか、僕は短い体験だが自分のクラスにいる子供達で知ったのだ。何が屑だ。なまじ、頭が少々位よくっても強いものにおべっかして、弱いものをいじめたり、法律の反を強制したりする奴よりいくらましかも知れんぞ」
 島田がパチパチと手をたたいた。私はそちらをみて、にやりと笑った。みんな、私の方に顔をむけて熱心にきいていた。まるで私の講演会のようだった。
 「そんなやつにくらべたら、彼等の方が宝石だ。それをしも、屑というなら、屑といえ、その屑どもを集めて僕は教育したい。屑屋先生、そうだ、僕は屑屋先生になりたい」
 「はゝゝゝゝ、屑屋先生はよかった。」
 法本が手をうって笑った。
 「屑屋先生、もう座れよ」
と島田がいった。もう嬉しくてたまらんといった声だ
 「よし」私は座った。
 「これで、本日の会を終ります。」
 校長は苦り切って、それだけ云うと、さっさと校長室へはいってしまった。その後を追っかけるように教頭がついていった。
 「おい、今夜は屑屋先生のために乾盃しよう。六時に○○屋に集合だ。愉快々々」
 誰にいうともなく、それだけ云うと、島田は踊るように出ていった。私もその後から立ったとたん、ふと町野先生の方をみた。上気したような顔で、涙ぐんだ目がじっと私をみていた。私はどきんとして、あわてて島田の後を追った。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第62号(1954(S29).8.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第33回 本科正教員(3)-2
2026-04-15
 九月になって早々、職員会が開かれた。いろいろ新学期の予定などが打合わされた後で、校長が
 「坂本君」とわが五学年の学生主任の坂本先生をよんだ。
 「はい」坂本先生は五十才に近いおとなしい先生である。
 「又、例によって二学期から五年生の予習教育をはじめてもらわにゃならんですな」
 「はい」坂本先生は丸刈のゴマ塩頭を下げた。
 「予習教育って何ですか」
 私は小声で隣席の坂本先生にたずねた。先生はひどく狼狽したようで私を抑えるような手つきをして、
 「そ、それは、その」
と吃った。すると向う側にいた教頭がひきとった。
 「中学の入学試験の予習ですよ」
 彼は、今更何を云うんだというような顔で、煙草の煙を輪に吹いた。
 「それなら法律で、禁止されている筈です」
 私のこの一言は効果的であった。一瞬全体がしーんとしてしまった。教頭と校長は苦い顔を見合せた。大部分の人がうつむいてしまい、法本と島田と、町野先生だけが顔を上げていた。法本は眉をぐっとよせて、校長や教頭の方をみていた。島田はやったぞ、やったぞというような顔をして、目を輝かせて校長と私とを見くらべていた。町野先生は私はよく見られなかったが、何か懸命な視線を私の片頬にかんじた。
 「だがね、小杉君」
 校長は両手をテーブルの上で組み合わせた。
 「予習教育は、今では公然の秘密だよ」
 「だが、正しいことではありません」
 「でも、中学が競争ではいる以上、自分の教え子が一人でも多くはいってくれるように、特別に勉強をみてやることは教師としての情ではないだろうかね」
 「それで、放課後特別に残して勉強させるわけですね」
 「そうなんだよ」
 校長は、形勢が逆転したと思ったのか、機嫌がよかった。
 「それでは伺いますが、中学へ行けない子供は勉強をみてもらえずに早く帰されていますが、あれはどうなんでしょうか」
 「…………」
 「ああいう子供は、放っておいてもいいのですか」
 校長は苦り切った顔をした。島田がますます嬉しそうな顔をして私を見ている。この頃になると、大部分の者が顔を上げて興味ありげに校長と私とを見くらべはじめた。唯、坂本先生だけは、学年主任として自分の責任とでも考えているのか、非常に恐縮して頭を下げたきりであった。
 「それぁ、君、あんなもの教えたって、無駄だよ」
と、教頭が校長の方をちょいちょい見ながら云った。校長に助け舟を出しているつもりなのだろう。
 この馬鹿野郎と思った。
 「あんなものとは何ですか」
 「あんなものとはあんなものだよ。人間の屑みたいなもんさ、教えてみたってどうにもならんさ」
 彼は、また煙をふうーと吹くと、椅子にそり返った。
 「それで早く返してしまうんですか」
 「その方があの連中も喜んでるだろう」
 「喜んでいると、直接子供から、或は子供の親たちからきかれましたか」
 「そんなこと聞いてないよ」
 「それでは、本当のことはわかりませんね」
 島田がくすくすと笑った。
 「うるさいな、君は」
 教頭は蒼ざめた顔で私をにらんだ。煙草をもった手がふるえている。
 「一体全体、予習教育はやるのか、やらんのか」
 彼はおどかすように大声を出した。もうこちらの勝である。私は静かに答えた。
 「やりませんよ」
 「う、う」
 教頭は唸って、ふるえる手で煙草を灰皿にぐっぐっと押しつけた。
 「大体、君、先程も校長先生がおっしゃった様に、一人でも多く中学にはいれば、子供もよろこぶ、学校の名誉にもなる。元来、この学校の入学率は本市でも十指の中にはいっているのだ。君は子供が中学にはいることを喜ばぬのか、君には教育者としての愛がないのか」
 「やかましいッ」
 私はいきなり椅子を後にひいて立上った。全員がギョッとして私をみた。法本でさえ、はっとしたようであった。私は割に頭の方は冷静であった。ただ体の方が全体かっかっと燃えるようであった。
 
 (月刊『SANA』(サーナ)第62号(1954(S29).8.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第32回 本科正教員(3)-1
2026-03-15
挿絵
 屑屋先生 本科正教員の章。今回から(3)に入ります。
 今回の職員室で「花を食べる」という同僚の町野先生との「恋ばな」の場面は、田村自身の半生を編集者に語った回顧録的著書「ちえおくれと歩く男」(1974(昭和49)年10月5日、柏樹社)にも、Ⅱ章(2)掃除結婚として載っています。
 このエピソード、田村と夫人の結婚にいたる実際のなれそめだったようで、夫人の手記として紹介されています。
 残念ながら、本書は絶版状態で、出版社自体がなくなっているので、古本の他は入手困難です。
 (国会図書館でアカウントをお持ちなら、インターネットで読むことができます。
 

 
 その頃になって、私は毎朝、私の机の上がきれいに拭かれていることに気がついた。そういえばこれはもうだいぶ前から続けられている。時々はきれいな花がコップにいけられてあることもあった。誰がそんなことをするのか、わからなかった。
 ただ、子供がするのではないことはわかっていた。掃除の手口がどうみても子供でない。大人だ。すると誰だろう。
 考えているうちは、私は、私の心の中に何か、コツンとぶつかるものがあったのではっとした。いつもの私なら、向いの島田に、「おい、いつも俺の知らない間に、机の上がきれいふいてあったり、花がいけてあったりするのは一体誰がするんだろう。」
 とあっさり訊いている筈だ。それを、今度に限って、私は、何故島田にも、誰にも訊かなかったのだろう。私は何故、このことだけは、皆にだまったいたのだろう。私は何かに思い当ったように、どきんとして、きれいな机の上に、新聞をぱっとひろげてしまった。
 それから、二三日たって、私は宿直にあたった。翌朝珍しく早く眼が覚めて、下シャツのまま洗面所へ行こうとして、ふと職員室をのぞいた。そして、はっとした。町野先生だ。町野先生が誰もいない職員室で、いかにも楽しそうに私の机をふいている。
 私はカーと顔がほてってきた。何か悪いものでも見たように、足音をしのばせて、職員室の横を廻り抜けた。洗面所で、私は、いきなり頭からジャージャーと水をぶっかけた。それから、立てつづけに深呼吸をした。鏡にうつっている顔をみたら、何だかよその人の顔のように見えた。それを見たら、急におかしくなってやっと気持が落着いた。
 ぬれ手拭を首にひっかけたままわざと勢よく職員室の戸をあけた。
 「やあ、早いですなぁ」
 私はびっくりしたような顔をした。
 「お早うございます」
 もう、自分の席で本を読んでいた町野先生は立上って、にこにこと挨拶をした。私はどうも、まぶしくて彼女の顔が正面からみられなかった。
 私は自分の席に腰をおろすと、引出しから煙草を出して火をつけた。机もきれい、花も何という花かしらぬが白いかわいい花で新しい水のはいったコップも新鮮で美しかった。
 だが私は、それのお礼をいうことが出来なかった。どうも何んだか工合が悪い。私は花に手をのばした。
 「ふうむ、かわいい、いい花だなぁ」
 斜め前にいる町野先生の顔が、ちらとこちらに動いたように思った。私は、においをかいでみた。さわやかな芳香をはなっていた。
 「ふーむ、いい匂いだ」
私は口に入れてちょっとかんでみた。ぱせりのような味がした。ぱせりは私の好物である。私は、むしゃむしゃとその花を食ってしまった。そして、ひょいと、町野先生の顔をみた。彼女は目をまるくして、私をみつめていた。私は弱った。がりがりと頭をかくと、
 「町野先生、ダリという男を知っていますか」
 「存じませんわ」
 「絵かきです。シュールリアリストです。その男が、いいました。美は可食的なりと」
 「美はなんですって」
 「カショクテキナリ」
 「それ、どういうことですの」
 「美しいものは、食いたくなるということです」
 「まぁ」
 「日本にだって、食ってしまいたいほどかわいいと云う言葉があるでしょう」
 町野先生の顔がぽうっと赤くなった。
 「僕、シャツを着てきます」
 私は職員室の外へとんで出た。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第62号(1954(S29).8.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第31回 本科正教員(2)-3
2026-02-15
 毎日の休憩時間は運動場で子供達と遊んだ。
 子供達はよく私をみこしのようにかつぎ上げ、わっしょいわっしょいと胴上げをした。いつもあげられているというので、天ぷら先生というあだ名までつけられた。
 私は組の男の子たちにかつぎ上げられて、わっしょいわっしょいと運動場をねり歩きながら、運動場の隅からうらやましそうに、指をくわえて私たちをみつめている、他の組の出来ん坊の淋しい目を痛いほど感じた。
 朝礼のたんびに叱られているよその組の出来ん坊。みんなの前で情ようしゃもなく叱りつけている担任の声をきいていると腹がにえるような気がした。叱りつけられて、おどおどしている彼等の哀れな顔。
 教頭のクラスの出来ん坊は、職員室の机の下に何時間も押しこめられていた。
 彼はその子供の上に足をのせてチョビひげをなで、パイプを掃除していた。又ある時は、その教頭の席のすぐ後のカーテンに通りすがりの私が何気なくふれた時、そのカーテンがまるで、人肌にさわったようなやわらかさをしていたので、ギョッとしてさわりなおしてみると、明らかに人間が中にはいっている。おどろいて巻き直してみると、中から、出来ん坊の男の子が、あらわれた。あわれや、彼の泣きつかれた頬には、はっきりと涙のあとが見えた。彼は私を見上げてニーと力無く笑った。
 私は彼をその場から帰らしてやった。放課後、教頭と大激論をやった。よっぽど殴ってしまおうかと思ったが法本や島田にとめられて、その場は一応おさまった。
 ある日放課になって間なしに、私は校庭の池のよこで植木鉢をならべて、手入れをしていた。すると、うしろへ誰かすっとよって来て立ったけはいなので、振り返ってみると六年の男の子が三人かばんをさげて立っていた。
 三人とも朝礼でいつも叱られている出来ん坊である。
 「いよー君たちどうした」
 彼等は恥しそうに顔見合せて笑うと、黙ってしゃがみこんだ。私はせっせと鉢のよごれを洗ったり、水を如露でやったりした。
 「先生とこ、ええなぁ」
とその中の一人がつぶやくようにいった。
 「何が」
 「先生とこ、みな、一しょにかえらはるんやろ」
 「そうだよ、みんな、教室で、いろんなものをつくっているよ」
 「ええなぁ」
 三人とも一せいにいった。
 「君たちは、どうなんだ」
 「わいら、先生が、先に帰らさはんね」
 「どうして」
 私は知っていたけれどもきいた。腹が立って来て、いじわるになったせいだろう。
 「…………」
 子供たちは黙ってしまった。私はどうにもならん憤りを感じてむっとしてしまった。子供達はおびえたように、そっと立上って行ってしまった。
 ちえっー あの子供達を放っておいて何が教育だ。教育とは何だ、養成所での講義の中にもなかった。本にもかいてなかった。しかも、現実にみる、このあわれを、低能児たちの姿、この子供達のことを教えずに、何が一体教員養成所だ。馬鹿々々しい。
 何が師範学校だ。何が先生だ。
 私はもうどうにもならぬ程、腹が立って来た。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第61号(1954(S29).7.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第30回 本科正教員(2)-2
2026-01-15
 二学期、三学期もすんで、新しい年度が来た。私は五年男子を受持つことになり、私の持っていた三年男女組は、新任の町野という女の先生がもつことになった。
 町野さんは今度師範学校を出たばかり、校長につれられて職員室に挨拶に来た時も、まだ、学生のままのような感じであった。何か運動をやっていた人らしく、学校時代水泳の選手だったということが後でわかった。体ががっちりとして均整がとれていた。
 頬も陽にやけて健康そうだし、切れ長の目がやさしかった。私は感じのいい女の先生に私の後をやって貰うことを喜んだ。
島田も、同学年に町野さんを迎えたことは喜んでいたが、私が五年男子の担任になったことは不思議だといって首をひねっていた。
 大体五六年はいつも校長一派にもたせるので、小杉なんかに持たせる筈がないというのである。ひょっとすると、まだ小杉が法本、島田たちの仲間でないと思ってるのかも知れないともいった。ともかく、どういう理由で校長が私に五年男子を受持たせたか、わからなかったが私は約六十名の男の子を相手に張切った。放課後も子供達と一緒に理科の実験をやり、又その準備をととのえ、一緒に絵をかき、額縁をつくり、古新聞でパルプをこしらえて地理の模型をつくったり、空かんを利用して家庭で使う灰皿をつくったり、植木鉢に草花を植えたり水槽に魚を飼って観察したり、又一緒にフットベースボールや、ドッヂボールをやって遊んだり、毎日子供達はふうふういうくらい学習して本当にたんのうして家に帰っていった。
 勉強の出来ない子も二三人いたが、私は彼等が、学科学習の時には青葉に塩の如く元気がないのに、いざ、図画、工作、体操となると、人がちがうようにいきいきとしてくるのをみて驚いた。更に、額縁つくりやパルプつくりをやらせてみて、その根気のよさ、熱心さにびっくりした。彼等の目はきらきらと輝いているではないか。これが、出来ん坊、劣等生、低能児であろうかと思われるほどであった。私は彼等を教科書、活字から解放した。勿論、学科学習を全然放棄したわけではないが、分量をうんとへらして、体を通した作業学習に重点をおいた。彼等は旱天に雨を得たものの如く、見る見る生き生きとしてきた。朝も一番早く教室に来て、掃除をしたり、エナメルや筆の段取りをちゃんとしておくのも彼等であった。
 私は、こういう出来ん坊の教育の一つの鍵を手に入れたような気がした。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第61号(1954(S29).7.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第29回 本科正教員(2)-1
2025-12-16
挿絵
 さて、シーズコラムですが、しばらくの間充電期間を取らせていただきます。
 これまで、不問庵・一碧文庫にある資料をもとに、筆者が集めたり、調べてきたことを拙い文章でお伝えして来たのですが、一旦整理をしてみようと思い立ちました。
 昨年の糸賀生誕110年、今年の田村没後30年があり、そのお陰かどうか糸賀、田村に関する新たな資料もいくつか発見されました。ですので、ネタが尽きたというよりも、これらをこのコラムでも紹介できるよう一碧文庫の資料として整理作業をすすめたいと思っています。
 お読みいただいている皆さまには、申し訳ないですが、再開の日を楽しみにお待ちいただきたいと思います。
 屑屋先生については、これまでどおり月1回ペース15日に更新していく予定です。
 

 
 養成所の卒業の時、私は、本科正教員になったら、第一にポマードを買って、塗ってやるぞ頭の毛にいいきかせたのに、いざ月給を貰ってみると、まっ先に買ったのが、油絵のセットで、ポマードなどすっかり忘れてしまっていた。したがって頭髪は相変らずぼさばさで、服は黒のサージの詰襟、靴はぶかぶかの兵隊靴、ただ肩からぶら下っているスケッチ箱だけが、真新しい。
 第一番に描いたのが、こわれた数個の素焼の植木鉢で妙に古びた素焼の鉢の色にひかれた。
 古いかけた素焼の鉢が五つ六つ横隊に一列に並んだ絵をみて、島田が顔をしかめた。
 「おい、これは池の横にころがっていたやつだろ」
 「そうだよ」
 「又、変なものを描くやつだなぁ、これは捨ててある鉢だぜ」
 「だって、美しいじゃないか」
 「ふーん、そうかなぁ」
 法本が横から絵をのぞきこんだ。
 「小杉が描いたのか、なかなかいいじゃないか。面白いよ、この絵で見ると、案外小杉という男は、特殊な教育の方にとびこむかもしれないぜ」
と、云って笑った。
 「こういうこわれたものや、捨てられたものに美を感じるやつだから、人間の屑に興味を持つようになるかもしれんなぁ」
と、島田もいった。
 私はそんなことを今までに考えたこともなかったのに、こう云われると、何か、かくしていることを、いい当てられたような気がして、黙り込んでしまった。
 そして俺は、そんなことを考えたことがあっただろうかといろいろ反省してみた。
 その時ふと思い出したのが、この学校へ赴任して来る前の日のこと、用事で学校の裏通りを通った。ははん、この学校だな、今度来る学校はと思いながら歩いていると板塀のところに五六年の男の子三人がしゃがみこんで、何か眺めていた。何気なしに後からのぞきこんでみると蟻が穴から出たりはいったりしているところであった。それを実に熱心にながめているのだ。九月のはじめで、まだ残暑にきびしかった。
 三人共鼻の頭に汗をうかべている。
 「面白いか」
と聞くと三人共私を振り仰いでにやりと笑った。どれも余りかしこそうな顔ではない。
 「君たち、S校の生徒さん?」
 中の一人が「うん」と答えた。
 「もう学校すんだの」
 実は、まだ短縮授業中だから、午前中に授業はすむ筈だが、それにしても、この子供は早い、まだ午になっていない。それに鞄を下げてこんなところで蟻を見ている。一寸、疑問に思ったのだ。ところが、この私の問いに対して、彼等は俄然、不機嫌になった。ぷいと立上ると、おこった様な顔付で、草履袋を振り廻しながら行ってしまった。その後姿は不貞腐れているようでもあったし、やけくそみたいな感じもあった。
 その時は妙だなと思っただけであったが、赴任してしばらくすると、この問題はわかった。
 又、別のそういった子供達と、近くの神社の境内で出会った。彼等は池の亀に石を投げて遊んでいた。
 「君たち、六年生だろ、今頃、こんなところにいるなんて、どうしたの」
と聞いてみると、今度は、よくしゃべるのがいた。
 「わいらなぁ、勉強出来へんさかい、早うかえるねん」
 「どうして」
 「先生なぁ、お前らじゃまになるさかい、早う帰れいわはんね」
 「……でも、みんな遅くまで勉強してるじゃないか」
 「ああ、あらなぁ、よう出けるやつばっかり残っとんね、わいらあかへんのじゃい」
 その子は怒ったように、池の亀をめがけて、石を投げた。
 
  (月刊『SANA』(サーナ)第61号(1954(S29).7.1、真生活協会)より)
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