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『屑屋先生』(田村一二:著) 第19回 代用教員(4)-1
2025-05-15
挿絵
 
 今回から、「代用教員」の第4回に入ります。この回は案外と短い章なので2回に分けました。
 
 着任早々、新任校長の歓迎会に誘われもせず、逆に宿直を押しつけられてしまった「小杉先生」、小使室で住み込みの用務員夫婦と出会い、お酒のはいった小使いのおじさんに絡まれかけて・・・。
 

 
 「おじさん、ねる前に一度校舎、見廻っておくんだろ」
 「えゝ、だけど、先生はまだはじめてだし、あっしが廻っときますよ」
 「なに、僕が廻るよ」
 私は立上がった。
 「それじゃ、提燈に火をつけますから」
 「そんなものいらないよ」
 小使室を出た私は、渡り廊下を渡って校舎にはいっていった。
 校舎にはいってみると案外に暗かった。これはやっぱり提燈を持って来たらよかったと思ったが、一旦いらないといい切って来た以上引返すわけにもいかんと、意地を張ってそのまま歩いていった。
 階段の踊り場で、何やらむこうから動いてくるものがいるので、ぎょっとして目をこらしてみると、大きな鏡に写っている自分の姿であることがわかったが、しばらくは胸がどきどきとしていた。
 長い廊下をすたすたと歩いて行く私の草履の音だけが聞える。だいぶいった頃、すうっと両側が壁になって真暗になったと思ったとたん
 ぐわーん
と音がして、私は大きな鉄板にぶつかった。全く予期していなかったのと、大きな音がしたのにびっくりして、危く後ろにひっくりかえるところであった。
 手探りでなでてみると、防火扉であることがわかった。更になでまわしていると、ハンドルがわかった。それをまわして、やっと向うに出た。後をしめると急にこわくなって大急ぎで歩いた。廊下を左に廻ると、民家からのあかりでやや明るくなっていたので、ほっとした。
 小使室に帰って来て明るい電燈の下に腰をおろしたらやれやれと思った。
 「やあ、先生、廻って来ましたね、えらいもんだ、若い人で一人で廻るせんせいってめったにありませんぜ、大抵、おじさん一しょに廻ってくれだ、先生は若いけどえれえや、おまけに提燈もなしでよ」
 「その提燈を持っていきやよかったよ」
 額のあたりがひりひりするので指でおさえてみると少し血がにじんでいた。
 「おや、先生、どうしました、そこ」
 「だから、提燈を持って行けばよかったんだ、防火扉にぶつかったよ」
 「うわつはゝゝゝ」
 虎が手を打って笑った。
 「こいつあ、いいや、防火扉に正面衝突するなんて、勇敢だ、先生はいいとこあるね」
 「おとつゝあん、何をいらんこというてはんね、まあまあ、先生、危うおしたなあ、あそこは暗いとこやさかいな」
 「あそこに、まさか防火扉があるとは思わなかったよ」
 「そうどすとも、はじめての先生にわかるもんどすかいな、でも先生、若いのに、しっかりしといやすなあ、感心どすわ」
 そして、おばさんは何だか油薬のようなものを塗ってくれた。
 それから、宿直室へつれていってくれたが、そこは丁度小使室の二階で六畳敷ばかりの部屋に床、押入れがつき、窓よりにベットが一つ、別の窓のところに机が一つ、その横に碁盤が一面、座蒲団が二三枚ある。ベットの蒲団には洗いたての敷布がしいてあって気持がよかった。枕は脂でよごれていたので、放り出して、座蒲団に手拭いをまいた。着物、袴をぬぐと、シャツのままもぐりこんだ。
 ところが、ベットは藤で張ってあるらしく、それが古くなってゆるんでしまって、丁度、体の下のところがへこんで、特に尻の下はそのへこみがきつく、まるで、ふとんの溝の中にねている感じであった。それでもいつの間にかぐっすりとねむってしまったが、明け方にえらく寒いので目が覚めてみると掛ぶとんがベットの下に落ちてしまって、私はふとんの溝の中にまるくなってねていた。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第57号(1954(S29).3.1、真生活協会)より)
 

 
 
 
田村一二『百二十三本目の草』の元ネタの…さらに手書き原稿
2025-05-01

 昨年の8月、このコラムの第22回で田村一二の著書『百二十三本目の草』を取り上げました。
 『百二十三本目の草』は、田村がそれまでに新聞や雑誌に投稿した記事等を集めたエピソード集であること、そして、それらのエピソードの中には、近江学園での出来事だけでなく、田村の京都時代、小学校の特別学級の担任をしていた頃の出来事をアレンジしたものも含まれていることをお伝えしました。
 その一例として「コンジ水」を紹介しました。
 そして、その元ネタが載っているのが「勿忘草」という雑誌の第2号(1943(昭18)9月15日発行)で、「覚書帳より」という田村が書いた記事の中の「方便」と「混同」という2つのエピソードだったことをお伝えしました。
再度、その2つを紹介しておきます。
 
「方 便」
 トミちゃんが滑り台から落ちた時のことである。虫歯が三本折れてしまった。
 衛生室へ担ぎ込まれたトミちゃんが
 「痛いわい痛いわい」
と泣いていたが、看護婦が手当にかかろうとすると
 「今治水をつけてくれ、今治水をつけてくれ。」
と言いだした。
 -なる程、歯痛には今治水か-
 妙なところで私は感心したが、トミちゃんが口を開かないので
 「ああ、今治水だよ。」
と言った。
 看護婦がオキシフルで唇の裏の切れているところを拭いた。今治水と違った味がしたのであろう。変な顔をしながらトミちゃんが横目で私の顔をみた。
 私はなんだか済まん様な気持になった。
 
「混 同」
 トミ子が校庭の大きな滑り台の上から、足を踏み外して落ちた。
 どしんと地面に落ちた時、傍らに安子が立っていた。とたんに落ちたことと安子が結びついてしまった。
 「安ちゃんが落としたあー、うわーん」
 これには、流石の安子も目をぱちくりさせるより仕様がなかった。
 
 『百二十三本目の草』では、「混同」を先、「方便」を後に配置して2つを合体させていました。
 第22回のコラムでは、最後に「覚書帳より」の原稿も見つかっていることをほのめかして終わっていましたが、今回はその原稿のお話です。
 
 原稿が書き込まれていたのは、写真の日記帳です。麻布を貼ったハードカバーの装丁で、大きさは縦21.5㎝、幅15.5㎝、A5判の一回り大きいぐらいのサイズです。
 ここに1942(昭和17)年12月20日から翌1943(昭和18)年1月22日まで、わずか1カ月ほどではありますが、21日分の日記が綴られています。
 そして、なぜか日記は1月22日で途切れていて、その続きに「勿忘草」第2号に載っていた9編のうち4編のエピソードの原稿と思われるものが書き加えられています。
 「覚書帳より」の覚え書き帳が、まさにこの日記帳だったわけです。
 そして、「方便」と「混同」にあたる原稿を翻刻したものがこれです。
 
(タイトルなし)
( )内 筆者挿入
 井上富ちゃんが、すべり台から顛落(てんらく)した。
 すべり台と云っても、庇(ひさし)程の高さがあるのだから堪らない。
 虫歯が三本折れて、唇が少し切れた。
 よく、それで済んだものである。
 ところが、上からどさりと落ちて、ひょいと頭を上げたら、そばにヤッチャンが立っていた。
 落ちたこととヤッチャンとが、とたんに結びついてしまった。
 「ヤッチャンが落としたあー、うわーん」
 これには、流石のヤッチャンも面喰ってしまって、きょとんとしていた。
 気の毒にヤッチャンのお母さん、血でエプロンが汚れるのもかまわず、トミチャンを衛生室へかかえこんで、看護婦の手当てをうける間、あやまりながら、なだめたり、すかしたり、
 「痛いわい、痛いわい、今治水をつけてくれ、今治水をつけてくれ」
と、トミチャンは、わめく。
 歯が痛いので、歯痛には今治水と云うことが、頭にしみついていたらしい。
 みんな心配そうに覗き込んでいた連中も、思わず微笑してしまった。
 
 もともとは、一つのエピソードだったのですね。それを「覚書帳より」では「方便」と「混同」の二つに分けた。そして『百二十三本目の草』で、また一つにまとめたというわけですね。
 原稿では、ヤッチャンのお母さんなる人物も登場しますが、「覚書帳より」では姿を消しています。
 こうして見てくると田村の作品は、やはり「作品」であるのだなと思います。
 田村自身の体験した事実を元にはしているけれども、時に二つを一つにしたり、時に順番を入れ替えたりアレンジを加えて読み物として執筆していることがよく分かります。
 障害に対する正しい受けとめや理解がなく、それこそ「忘れられた子等」として存在すら認知されていなかった、あるいはバカにされたりいじめられたりされるのが当たり前のような当時、知的障害児のことを市井の、一般の人たちに少しでも興味、関心を持ってもらえるよう、わかりやすく、時には面白く表現しようとしたのだろうと思います。
 

 
 ところで今回紹介した日記帳、資料として1ページ目の写真を載せていますが、日付は「一二、二〇」とあるだけです。(資料写真は下↓↓↓)
 もしかすると単に記号とか、番号とかの可能性もありますが・・・ここはやはり12月20日と読むべきでしょう。
 しかしこれが、なぜ1942(昭和17)年の日付であると言い切れるのかということなのですが…。
 まずは「覚書帳より」が発表されたのは、1943(昭和18)年の9月ですから、日記帳を「覚書帳より」の原稿とするなら、これより後の時期ということは考えられません。
 では、それより以前はどうか。
 田村は1934(昭和9)年から特別学級の担任で、『忘れられた子等』や『石に咲く花』などは既に上梓されていたのですから、1941(昭和16)年の12月だって有り得るお話ですよね。
 答えは簡単です。
 実は、この日記帳、後半に書籍の部分があってしっかり奥付がついているのです。
 その発行年月日が1942(昭和17)年12月5日なのです。
 田村がこの日記をつけ始めた12月20日と日記帳の発行日が近すぎるかなとも思いますが・・・。
 この日付によって1942(昭和17)年より以前のセンも無くなりました。
 勿体ぶるな!!と怒られそうですね。
 筆者自身も、なぁんだ、意外とあっさりわかったのね。という感じでした。
 しかし、この1942(昭和17)年の12月というのが大事なキーポイントになるのです。
 そのお話は、次号(6月)にて詳細をお知らせしますが、日記の1ページ目にある書込みを元に、「日記帳」から「覚書帳より」を経て小説『手をつなぐ子等』につながること、更にはこのコラムで毎月紹介している小説「屑屋先生」に関することまで、マニア垂涎のお話です。お楽しみに。
 

 
 補足. 今治水について
「コンジ水」の話をすると、「?」な顔をする人が結構多くいて、逆に驚きました。
「いまばるみず」ではなく、「こんじすい」と読みます。
明治の時代から、今でも市販されている虫歯の痛み止めのお薬です。
筆者が子どもの頃、虫歯が痛むと母親がピンセットで脱脂綿を挟んで「今治水」をつけ、虫歯に塗ってくれました。
虫歯といえば今治水と言うくらい、メジャーなお薬でした。
透明の黄色い液体で、ニッキのような消毒液のような味で、舌につくとシビれました。
いわゆる「麻酔」ですね。
虫歯で炎症を起こしている神経を麻痺させて、一時的に痛みをおさえるわけです。
インターネットで歯科医のサイトを調べると治療薬ではなく、あくまで一時処置用だそうです。
使い続けると神経が死んでしまうので、根本的な治療をするには、やはり歯医者さんに行った方が良いそうです。
 
 
田村一二『百二十三本目の草』の元ネタの…さらに手書き原稿 資料写真

 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第18回 代用教員(3)-3
2025-04-15
 「どうかよろしく」
と私も頭を下げて炉のそばにあった椅子に腰をかけた。おばさんがすぐ茶を入れて持って来てくれた。
 「いや、一寸、一つぱい、やっとりますんで、へつへゝゝゝ」
とおやじは左手で首の後ろをかいた。骨組はがっしりして、色は黒く、ひげが濃く、鼻は低く、それに目がやぶにらみだ。その目がどちらの方向からみても、こっちを見ているように見える。そこでさっそく「八方睨みの虎」と綽名をつけた。藪にらみの虎かと心の中でくりかえしてみたら、その符号がおかしくて思わずにやにやと笑ってしまった。
 「どうです、一杯」と相手は盃を出して来た。
 「いや、僕はまだ早いよ」
 「あ、なあるほど、先生はまだ二十才になってないんですってね、若えもんだなあ、まあ、こんなもなあ飲まなきあ飲まねえ方がいいんだ、あっしなんざ、先生位の年にはけっこう飲んだがねえ」
 おやじは首を大きく左右に振った。いよいよ虎だ。
 「おやじさんは関東かい」
 「いや、あっしや生れは北海道でさあ、若い時にや、東京にも横浜にもいたこたあありますがね、まあ、やくざ道楽の末が、流れ流れて、こんなところで、御覧の如く、小使稼業でさあ、はつはゝゝゝ」
 前歯の一本抜けている口と、やぶにらみの目が、自嘲の口振りに一入の淋しさをそえていた。私はふと、夜店のしんこ細工屋のじいさんを思い出した。
 「おばさんは?」
 「なあに、こいつあ、こちらの田舎のやつでさあ」
 虎はおばさんをあごでしゃくって肩をそびやかした。おばさんは知らん顔をして針を動かしていた。どうやら、おばさんの方が人間は一枚上のようだ。
 「先生方は、今日はどこへ行ったんだろう」
 「へん」虎は又肩をそびやかした。
 「飲みにいったんですよ、今日は新任校長の歓迎会でさあ、それあいいんだ、それはわかっている、だが俺にわからねえのはあんただ」虎は八方睨みの目で私をにらみすえた。
 「僕が何かしたのかい」
 「いや、あんたは何もしやしないさ、ね、あんたは若い、若いがだ、やっぱり先生にちがいはねえだろう、え?」私は黙ってうなづいてやった。
 「そうだろう、先生にやちがいねえんだ、しかも、今日来た新任の先生だ、校長も今日来た新任の先生だ、あんたも先生、校長も先生、同じ新任の先生じゃねえか、どこがどう違うんでえ、新任の歓迎会なら、あんたもよびやいいじゃねえか、え、そ、そこがどうも気に食わねえ」
だいぶ首を振り出して来た。どうもこのおやじは虎である。
 「あんたはにやにや笑ってるがね、俺あ笑えねえ、あん畜生のすることはこれだ、相手が若えと思いやがって、え、三十銭の弁当をあてがとっといてさ、はじめての者に宿直までさせやがって、畜生め、え、小杉さん、あんたしっかりしねえと駄目じゃねえか、なぜ、断らねえんだ、え、おい、小杉さん」
 「おとっつあんッ」その時、奥から一声とんで来た。
 「う、うん」
 虎は一も二もなくへたばってしまった。正に鶴の一声である。ここでは虎よりも鶴の方が強いらしい。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第56号(1954(S29).2.1、真生活協会)より)
 
「南郷」と俳句
2025-04-01
 先月の通常コラムは筆者の都合によりお休みさせていただきました。
 とうとう来たか?、ネタが尽きたか?、果ては休載か?と、多大なるご心配をいただいたのではないかと、案じておる次第です。ハイ。
 しかしながら、ネタが尽きたかというとそうではなく、相変わらずひっ迫した状態は変わらないなりに書けないことはなく、今しばらくは続けられそうな「ネタのタネ」はあるのです。
 ただ、あくまで「タネ」なんですけど…
 
 じゃぁ、書けばいいじゃん、って話ですよね。そう、書けばよかったのです。しかし書けなかった。
 途中までは、あれやこれやと調子よく書いていたのですが、結局、どうにもまとめきれなかったのです。
 …というゴタクを書き連ねておりますが…さて今回のコラムは、なぜそのようになってしまったかのご報告。
 
 実は前回、取り上げようとしていたのは初期近江学園の「俳句」でした。
 ご存じの方も多いと思いますが、初期の近江学園では、文芸活動がたいへん盛んだったようで、職員が書いた論文やエッセイ、詩などを集めた同人誌「南郷」が発行されていました。
 当時の職員が詠んだ俳句も毎号たくさん掲載されています。
 1号あたり大体10数句、多い時には百数十句掲載された号もありました。
 これらの俳句について、どれぐらいの職員さんが、どれぐらいの俳句を詠んだのかを、統計的にまとめてみると、第1号(1947年2月)から第16号(1955年11月)までで合計453句もあり、詠んだ人は50名に上ります。三分の二くらいの詠み人が1句か2句のみですが、句数のダントツ1位は糸賀で104句、次いで田村の81句、糸賀の妻、房さんが44句、池田太郎(29句)、岡崎英彦(21句)と続きます。近江学園創立メンバーがトップ5です。
 スゴイでしょう。453句ですよ。しかも糸賀、田村の句数。学園の運営に日夜奔走する日々の中で、これだけの数を詠んでいたのですからね。
 ただ、ここまでなら、コラムをお休みしなくても、糸賀、田村の作品をいくつか挙げて、スゴイ数だねぇと紹介して終わりにできたのですが、話はこれだけではないのです。
 実は、同人誌「南郷」の俳句は、ここだけにとどまらないのです。
 というのも「南郷」の俳句の掲載されたページをよく見ると「どんぐり句会抄」と印刷されています。
 「抄」とは、「抄本」、「抄録」など要するに「抜き書き」のことですから、「ここに載せたのは、ほんの一部ですよ」、「他にもあるけど、紙面の関係でこれだけです」ってことなんですね。
 ですから「どんぐり句会」という近江学園職員の句会、本格的な俳句の会があって、「南郷」だけにとどまらない活動がされていたということなんです。
 そして、一碧文庫にはその句会の活動を示す資料として「かやの」、「鶴翼」、「どんぐり」という3種の俳句雑誌と「どんぐり句集1」という句集があります。
 そうなんです。資料もあるんです。
 それで、筆者も統計的には調べていて、詠み人合計68人、ダブりを除く俳句数合計1321句、句数トップは糸賀238句、2位田村180句、3位房夫人155句というように、単純に数字として挙げることはできます。
 「南郷」とそれぞれの紙誌との時期的な関係性なども併せて紹介しようとしたのですが・・・。
「南郷」だけではなぁ・・・「かやの」や「どんぐり」もあるぞ、「どんぐり」は近江学園職員が編集しているけど、「かやの」の発行者は日野町のお寺になってるし、そこに選者として浜中柑児って名前も出てくるし・・・と、筆者の頭のなかは、あれも、これもと考えるうち、サクサクどころか、どうにもうまくまとまりがつかぬままタイムアウトとなってしまったという訳なのです。
もう一度しきり直しです。乞うご期待。
 
「南郷」と俳句 資料写真

 
「かやの」、「鶴翼」、「どんぐり」のデータだけ、最後に紹介しておきます。
 
・俳句雑誌「かやの」
 発行所は、かやの発行所またはかやの句会。編集人代表は、山上荷亭。
 発行所の住所は、滋賀県日野町の誓敬寺となっていて、筆者が調べたところ編集人代表の山上荷亭はこのお寺の住職だった人で、俳句界では有名な俳人でもあり、日野町内には句碑もあるようです。
 かやの句会という一般の句会が発行する俳句雑誌に糸賀をはじめ近江学園の職員関係者が投句していたようです。
 近江学園の職員の詠み人計15人、句数合計313句でした。
 一碧文庫には、1947(昭22)年2月発行の2月号(第3巻2号)から1951(昭26)年3月発行の2月号(第7巻2号)までの計45冊がボール紙の表紙に綴じひもで綴じた状態で保管されています。おそらく糸賀か房夫人が綴じたものと思われます。
 
・俳句雑誌「鶴翼」
 発行所は、敷島紡績株式会社八幡工場俳句部。近江八幡にあった紡績会社社員のクラブ活動ですね。
 近江学園関係者の詠み人は計13人、句数合計20句。
 一碧文庫には、1951年発行の9月と10月の2号が「かやの」と同じ綴りに綴られていました。
 発行時期から見ると「かやの」と「どんぐり」の間に位置していて、なんらかの理由で「かやの」の発行が滞り、続く「どんぐり」までのつなぎとなったのではないかと思われます。
 
・俳句雑誌「どんぐり」
 県立近江学園の所蔵です。
 近江学園には1952(昭27)年3月発行の第1号から1955(昭30)年2月発行の第34号のうち32冊(第16号と第31号が欠)が保管されています。
 発行は近江学園で、編集者も近江学園の職員でしたが、学園の職員だけでなく一般の方の投句もありました。
 投句者の住所をみると粟津、八幡、京都、岡山などと記されています。
 
 これら3誌と「南郷」の俳句に共通しているのは、選者が「浜中柑児」であるということです。浜中柑児という人は、当時、大津市の三井寺近くに住んでいたホトトギスの同人です。つまりプロの俳人ですね。三井寺近くですので、旧あざみ寮の近所なので、その関係で糸賀と知り合いになったのかもしれません。浜中氏は、当時選者として複数の句会の指導をしていたようです。その関係で近江学園以外の詠み人の句が「かやの」や「どんぐり」に載せられていたと思われます。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第17回 代用教員(3)-2
2025-03-15
 おひるはうどんをとって貰ってすませた。金は月給日でいいそうだから安心だ。おひるがすむと皆がざわざわしはじめた。机の上を片づける男の先生や、コンパクトで鼻の先をたたく女の先生、そこへ教頭がやって来た。妙に物腰がていねいである。
 「小杉先生、今日ははじめてでお疲れでしょう」
 「いや、別に」
 「今夜、何かお差支がありますか」
 「いや、別に」
 「あ、そうですか、それは有難い」
 私はどこかへ招待されるのかと思った。
 「実はお願いなんですが、今夜、一つ、学校に泊って頂きたいので」
 「はあ?」
 「みんなこれからでかけますので、まことに新任早々の先生にこういうことは相すまんのですが」
 「わかりました。宿直ですね」
 「そうです そうです」「むつかしいのですか」
 「いや、もう泊ってくださればよいので、小使が万事心得おりますから」
 「やりましょう」
 「どうもすみません、その代わり、夕食はお弁当をいうておきますから」
 教頭はぺこぺこと頭を下げると大急ぎでいってしまった。私は運動場へ散歩に出た。講堂の横に小さな池が一つあって、鮒が五六匹はいっていた。私はしばらくそばに立ってみていたが、こういうとりとめのない気持でいる時には、こんな魚でも、何となく心を楽しませてくれるものであることを知った。私は父が破産した時に、毎日金魚を眺め暮していた気持がわかるような気がした。
 職員室に帰ってくると、もう誰もいなかった。
 それは本当にガランとした感じであった。昼の間が騒がしいだけに余計にその感じが強かった。この広い建物の中に私と小使夫婦と三人しかいないのだと思うと急に心細くなって来た。書棚に現代日本文学全集が揃っていたので、二、三冊ひっぱり出して来て読んだ。読んでいるうちに時間がいつの間にたっていた。
 「先生、まあ、電気もつけんと」
 角力とりのように肥ったおばさんが、盆の上に朱塗りの三つ重ね弁当と湯呑をのせてはいって来た小使のおばさんだろう。おばさんは天井から下がっている紐をひいて電気をつけた。びっくりするぐらい明るくて、疲れた目にまぶしかった。
 「ありがとう」
 おばさんを見上げて笑うと、おばさんも人の好さそうな顔をくずして笑った。まっ黒なおはぐろが珍しかった。
 「お腹すきましたやろ、お弁当きましたでな、さ、おあがりやす」
 おばさんは弁当を私の前にすすめて、熱いお茶をついでくれた。
 「ありがとう」
 「先生 あんた、お若いらしいけど おいくつどす」
 「十八」
 「へえ、十八、高等科の生徒とあんまりかえあらんがな、若い先生やなあ、はッはゝ」
 おばさんは太い腹をゆすって男のように笑った。目がつやつやと陽にやけた頬の奥で細くやさしかった。私も愉快になって声を出して笑った。
 食後しばらく又本を読んでいたが、それにもあきたので、弁当の箱と湯呑をもって小使室にいってみた。土間の真ん中に炉があって茶釜がかけてあり、湯がたぎっていた。その奥に畳敷の部屋が一つあって、おばさんが針箱をひきよせてつぎものをしていた。おやじさんは上がりかまちのところであぐらをかいて酒をのんでいた。
 「まあまあ先生、放っといてくれやしたらよいのに、わざわざ」
とおばさんがとんで出て来て弁当箱を受けとってくれた。酒をのんでいたおやじは膝小僧を揃えると
 「これは小杉先生ですかい、あっしは××と申しやすここの小使でやす、どうかまあ、よろしくおねがい申しやす」
といって、ていねいに頭をさげた。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第56号(1954(S29).2.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第16回 代用教員(3)-1
2025-03-01
 筆者の都合により、通常のコラムはお休みして、「屑屋先生」を繰り上げて掲載します。
 
 「屑屋先生」は、今回から「代用教員」の第3回に入ります。
 新任式で、校長と壇上に上がったものの、着任の挨拶もしなくていいと言われ、校長の長話しに退屈した「私」でしたが・・・。
 

 
 職員室に帰ってくると、入口に一番近いところの机が一つあけてあって、教頭がそこへ坐れといった。ここが私の席らしい。
 椅子にかけてはみたものの何をするということもなく、ただぼんやりしていた。先生連中はみんなで三十人位もいたろうか。たばこをすったり、雑談したり、本を読んだりしていた。授業はないが、といって帰るでもなく、まだこれから何かがあるらしかった。若い男職員の連中が何か楽しみごとがあるらしくひどくわいわいいってはしゃいでいた。教頭は全然顔を見せなかった。
 校長室にはいったきりで校長と話しているらしかった。
 「先生、先生」
誰かがそういったようだったが、私のことではないと思ったので知らん顔をしていた。
 「小杉先生」
あ、私のことだ。私はどぎまぎした。生れて先生と呼びかけられたことが最初である。
 「は、僕ですか」
 「はゝゝゝゝゝゝゝ」
隣の女の先生は、びっくりしたような私の顔をみておかしくってたまらないように机の上に体を折り曲げて笑った。
 「何がおかしいのですか」
むっとした心がそのまま口調に出てしまった。相手はびっくりして顔を上げたが
 「すみません」と素直にあやまった。余り素直なので
 「いや 別に その」と私は又あわてた。
 「先生はどちらの学校出られましたの」
 「大阪のI中学です」
 「まあ、I中学ですの。野球とっても強いんですってね」
 「えゝ」
私は流石に嬉しくてにこにこした。
 「僕、野球大好きです」
 「まあ、それぢや野球お上手でしょうね」
 「いや、ちっとも出来ません」
 「あら、選手じゃないんですか」
 「いえ、応援団です」
 「まあ、団長さん?」
 「いえ、ひらです」
 「はゝゝゝゝゝ」
相手は又笑いかけたが、さっきの事を思い出したらしく、途中で我慢して笑いを押さえた。そして、いかにも感心したように私の顔をつくづくと眺めた。何に感心したのかはわからなかった。
 その時、私もはじめて相手の顔をよく見た。年は二十三四かと思ったが、あとになって二十九才だとわかった時にはびっくりした。女なんて化物みたいなものだと思った。色の白い下ぶくれの顔で、丸い花の頭だけお白粉がすっかりとれていた。特徴は猛烈にひどい近眼で年輪の様に沢山な輪の見える分厚い近眼鏡の奥で目玉が眼鏡ぐらいでおっつくものかというようにとび出していた。私はこの女の先生に「出目金」という綽名をつけた。「出目金」の言葉づかいのていねいだったのははじめの二三日で、後は
「ふん ふん そうや そうや」
にかわってしまった。やっぱり出目金は出目金であった。
 私の真向いにいるのは男の先生で、年の頃は五十才位か、特徴は夏目漱石に似て大きなお椀を伏せたようなひげを持っていた。目の下のたるみや左右不揃いの眉毛など漱石そっくりだった。これは文句なしに「漱石」とつけた。漱石は絶対に喜怒哀楽を顔に表さない。出目金がどんなに笑っても、にっこりともしない。といって苦虫をかみつぶしているのでもない。要するに知らん顔をしているのだ。「どこ吹く風」という文句はこの顔のためにつくった言葉かと思われるぐらいだ。物いうでなし本読むでなし、ただひっきりなしに長煙管で吐月峯(はいふき)をひっぱたいている。まるで月給貰って、学校へ煙草をすいに来ているような男だ。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第56号(1954(S29).2.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第15回 代用教員(2)-3
2025-02-15
 翌朝、いよいよ学校へ新しく赴任するわけであるが、別に今の私としてはどうといってふだんと変わりようもなく、いつもの通り古沢庵に茶漬で朝飯をすまし、例の如く紺がすりに小倉の袴で外へ出た。ただいつもと違うところは帽子だけである。夫婦喧嘩を起しそうにしてまで貸してくれた帽子であるから、少なくとも見ているところだけでもかぶらないと悪いと思ったので、頭にのせて出たが横町にまがったとたん脱いでしまった。しばらく行くと大きなショーウインドがあったので、帽子をかぶって姿をうつしてみた。
 「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ」
 あたりには人通りがなかつたので、私はそり身になって、ウインドの中のこっけいな私の姿を思いきり嗤ってやった。それから帽子をぶらさげて大股に歩き出した。鳥打帽だとこういうときふところの中にはいって都合がいいのだが、中折帽となるとそうはいかない。特にこのカンカンのかたいやつは何ともしようがない。明日から断然かぶらないと決心した。鳥打帽がいけなければ無帽でいいだろう。まさか帽子不着用願を出せとはいうまい。
 学校はK市の西南のはずれ、場末で、近くに汽車の機関庫があり、その辺一帯がすすけてごみごみしていた。尋常高等小学校で、生徒は千人位いた。丁度その日は新しい校長がやって来た日で、これからその校長の新任式が行われるというところであった。そこで私もついでに新任式をされることになった。校長と私と応接室に待っていた。校長は確かに二十二三貫はありそうな巨漢であった。身動きするたびに椅子がぎしぎしと鳴った。私もそっと身動きしてみたが椅子はきしともいわなかった。私は当時十一貫位で、ミスター・ホネと綽名された位にやせていた。
 手など、野球のグローブとまではいかないが確かに私の二倍は優にある位大きかった。私の手はよく女のようだといわれる位にほっそりとしていた。私はそっと手をテーブルの下に入れた。校長はぎょろりとした血走ったような目玉を開いたり閉じたりしていた。私など眼中にないように見向きもしなかった。新任の挨拶でも考えているのだろう。やがて教頭がやって来た、式場に案内しますという。これも私などには目もくれない。校長にばかり話しかけている。なるほど代用教員とはかかるものかと思った。校長が、講堂にはいる前にちょっと振り返った。
 「君は挨拶せんでもええ、わしが一しょにやっとくで」
 人を馬鹿にした話だとは思ったが、結局めんどうでなくていいと横着な気持になって
 「どうぞ」
 と返事をした。講堂にはいると、女の子の髪のにおい、体臭、汗のにおい、そんなものが体温と一しょになってむっと鼻をおおった。教頭の紹介の後で、校長と二人壇上に上った。校長は正面、私はその横、しゃべるのは校長だけ、私はつんと立っているだけである。校長は長々としゃべっていた。抑揚をつけて、身振りを入れて、懸命になってしゃべっていた。時々笑わせようとしておかしな事をいったが、子供達はぽかんとしてちっとも笑わなかった。仕方なしに自分だけが笑っていた。
 私はだんだん退屈になって来た。子供達の顔はただ目鼻のないしゃもじがずらりとならんでいるようにしか見えない、そのしゃもじの大集団の後の壁に大きな字で「質実剛健」と書いた横額がかかっていた。やけに元気よく墨をはねとばして書いてあった。その字を目でたどって何度もくり返して見ている中に、段々妙な気になって来た。一体全体、岡という字の横に刂(りっとう)を書いて何故ごうと読まなければならないのだろうか。これをごうと読ませる理由はどこにあるのだろう。果してこれは、ごうという字なのか、あやしいものだ。誰かが嘘をついているのではないか、それをみんながだまされてそう読んでいるのではないか……… その時、目の下のしゃもじがさあーと黒く変った。はっとしてみるとみんなおじぎをしている。校長の話がすんだらしい。ほっとして、私もぺこんとおじぎをし校長の後から壇をおりた。
 
  (月刊『SANA』(サーナ)第55号(1954(S29).1.1、真生活協会)より)
 
活版印刷について  ん? 何で?
2025-02-01
 活版印刷ってご存じですか?
 1970年代の終わりごろまでは書籍印刷の主流で、活字を組み合わせて作った「版」にインクをつけて刷っていく印刷技術のことです。
 インクをつけた活字を紙に押し当てるようにして印刷するので、字の線が微妙に凹んでいて、紙面を触るとその凹みが感じられます。
 現在はオフセット印刷にとって代わられましたが、オフセットにはないこの風合いを好む方が今でもたくさんいるようで、結婚式の招待状や名刺など小物の印刷ではまだまだ人気があるそうです。
 そういえば、読まれた方も多いと思いますが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」には、物語の最初の部分で、活版印刷のことが描かれていますね。主人公のジョバンニが活版印刷所で「活字拾い」(「文選」というらしいです。)をして銀貨をもらう場面です。
 ジョバンニが何べんも目をこすりながら、小さな平たい箱に粟粒ほどの細かい活字を一字一字拾っていくシーンですが、もしも本を1冊印刷するとなると、まず小さな活字を原稿の文字数分拾い集め、それらをページごとに組み合わせて、一冊分の版に組んでいくということになるので、膨大な人手と時間がかかります。
 こうした手間をかけて印刷された本のページ面を指先でなぞっていると、技を駆使し、さまざまな工夫を凝らしていた印刷所の職工さんたちの息遣いがなんとなく伝わってくるような気がしてきます。でもこういったアナログな感じが、とてもいいですよね。
 筆者が古い書籍に惹かれるのは、そんなところもあるからなのかもしれません。
 
 ところで今回なぜ活版印刷について取り上げたのか?…ですよね。
 活版印刷のファンである筆者がその魅力を語り、ウンチクをただ単にひけらかしたかった……フフフ…確かにそれもあります。
 けれども、みなさん一碧文庫や不問庵の収蔵品を思い出してください。
 そうです。ここにはたくさんの糸賀、田村の著作や関連の書籍があるではないですか。
 これらは、いわゆる古い書籍、古本、古書です。
 当然、活版印刷が主流であっただろう頃の印刷物ということになります。
 職工さんの息遣い満載です。
 
 そこで、今回取り上げるのが田村一二が著した「手をつなぐ子等」なのです。
 「手をつなぐ子等」は、京都にあった大雅堂という出版社から戦時下の1944(昭和19)年1月に初版が発行され、その後、終戦をまたいで第7版(1949(昭和24)年3月)まで出版されています。(その後も大阪教育図書、北大路書房からも再販されています。)
 第4版からが終戦後になりますが、戦後すぐの混乱期、国の体制も180度転換した時期です。
 GHQの占領下での書籍出版ですから、当然、検閲もあり、戦後版の第4版と第6版では、物語の舞台や時代は戦中という設定のままですが、軍国主義的な表現を変更したり、言葉を入れ換えたりする改訂がなされました。
 今回は、その改訂について活版印刷という視点から語ってみたいと思いたちました。
 先ほども紹介しましたが組版に膨大な手間がかかる活版印刷では、一度組んだ版は、増刷などにそなえてすぐにバラすことはせず、一定期間はそのまま置いておくそうです。(……保管場所はどうしてたのだろう……)
 その上で、いざ改訂となった時、一から版を組んでいては、それこそ膨大な時間、手間がかかりますから、全面改訂は別として、部分的な改訂の場合、残してある版の改訂する部分だけを組みかえて使うのだそうです。
 改訂によって、どこかのページの1行が削除された場合に、減った一行分を順次詰めていくとなると、章や単元の終わるところまで何ページにも渡って版の組みかえをすることになります。下手をするとページの番号まで換えなくてはならなくなり、目次も含めて、一冊分すべてのページの組みかえをすることになりかねません。
 そうした手間を省くためにできるだけ他のページに影響が出ないよう改訂するページの版だけを組みかえていくのです。
 戦中版と戦後版の「手をつなぐ子等」をページごとに比較すると、そうした工夫が見て取れるところが何か所かあるのがわかります。
 今回は第3版と第7版で組みかえの跡がよく分かる部分、2ヶ所を紹介します。
 (以下、▭内の本文は、旧字体を新字体に改めています。)
 写真①は、一行削除された分を原稿の段階で一文追加することで、そのページ内で組みかえをしたという例です。(資料写真は文末にあります。)
 ページ中ほどの軍国主義的な表現「さうでなければ、御国の為にすまない」という一文がカットされました。
 そのため、第3版で
 
 父親は、決然として出征していった。
 後に残った母親は、どうせ学校を変わるならと思って、店をたゝんで、寛太をつ
れ、実家のあるこの町へ帰って来た。
 
 だったところを、第7版では原稿の段階で修正して
 
 あわたゞしく、父親は出征して行った。
 後に残った母親は、しばらくぼんやりしてしまった。しかし寛太の学校はどう
してもかえなければならない。
 彼女は思ひ切つて店をたゝみ、寛太をつれて、実家のあるこの町へ帰つて来た。
 
 というように、「しばらくぼんやりしてしまった」という一文を挿入し、なおかつ「店をたゝんで…」以下の部分を改行して別の一文にしています。前段の文章で一行増やすことで減った一行分を補ったのですね。
 2ページにまたがっていますが、その範囲内で版の組みかえを収めたといえます。
 
 続いて写真②ですが、こちらは空白行を挿入した例です。
 このページでも、軍国主義的な表現と思われる
 
 話が軍人のことになって来たゝめか、先生の口調までが、軍人口調になって来
た。
 
 が、カットされました。
 ……子どもおもい、生徒おもいの心優しい松村先生までもが、軍国の教師になっている表現に今更ながらに気付かされました。戦時中は軍部の「検閲」があったからでしょうか。田村一二はどのように思っていたのでしょうね。……おっと脱線。
 「た。」のたった二文字があったために、余分に一行削除しなくてはならなくなり、苦肉の策だったのでしょう、強引とも思えますが「空白行」を2行挿入することで、このページだけの組み換えに収めています。
 空白行で挟まれた箇所は担任の松村先生が主人公の寛太をクラスの生徒に紹介する場面ですが、削除された2行のマクラになる「紹介終りツ」という部分と「名誉の」という軍国主義を煽るような単語は削られましたが、それ以外は第3版と同じです。
 この部分が「 」で区切られたスピーチだったからできた荒療治だったのではと思います。
 
 DTP(デスクトップ・パブリッシング)と言われ、今ではデジタルで簡単に修正できてしまうようなところですが、そんな現代だからこそ、この手作り感、ブラックボックスになりきらないアナログ感が筆者は好きですし、忘れてはいけないことのような気がしています。
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法​人​本​部​・​も​み​じ​・​あ​ざ​み​
一​ ​麦​
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