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『屑屋先生』(田村一二:著) 第8回 夜店(3)-2
2024-07-15
 それからしばらくして、三月も末に近い頃、小学校時代の恩師山本先生から速達が届いた。K市で代用教員の口があるが来ないか、昼は教員で、夜は夜学に通わせてくれ、一年半で小学校本科正教員の免許状をくれる、ということであった。癖のある右上がりの大きな字が巻紙一杯におどっていた。そのおしまいに拾円さつが一枚巻きこんであった。旅費のつもりでくださったものらしい。懐しい先生の顔が手紙の中から笑っているようであった。
 両親は勿論一も二もなく賛成した。今までは黙っていたが、私を夜店へ出しておくことがどんなに両親にとってはつらいことであったかが、この山本先生の手紙を見せた時の両親の顔付からわかった。二人はほっとして救われたような顔をした。
 翌日、おゆう婆さんにも話した。婆さんは
 「おう、おう」
 といって何度も頷いて喜んでくれた。
 私が帰りかけると
 「そうすると、今晩の聖天さんの夜店にはもう来やせんのやなあ」
 と淋しそうな顔をした。来やせんのやなあといった口が開いたままで私の顔をじっと見つめている。私は顔をふせた。
 「うん、店は出しに行かないけど、僕、行くよ、爺さんにも会いたい」
 そういうとそのまま婆さんの家をとび出した。
 その晩、紺がすりの着物をきると、五十銭銀貨を三つ袂にほうりこんで家を出た。
 夜店は今丁度人の出盛りであった。私はまっ先に婆さんのところへ行った。婆さんはいつもの通り行火の上にうすい蒲団をかけて、その上に二つ折りになっていた。
 「おばあさん」
 「おう、おう、ぼん、来たなあ」
 「おばあさん、これで、何か買って」
 私は五十銭銀貨を一つ、うすい蒲団の上においた。
 「へえ、ぼん、こら、えらいこっちゃなあ」
 婆さんは銀貨と私の顔とを見比べたが、しわだらけの手でその銀貨をとると押し頂いた。
 「おうきに、おうきに、ぼんの折角の志や、いただきまっせ、これで、柳谷の観音さんへまいらせてもらいまっさ」
 婆さんは懐の中から大きな財布をずるずると引ずり出すと、くるくるとほどいて、銀貨を放り込むと又も早くくるくるとまいて、ぐいと懐中に深く押しこんだ。年寄りと思えない程素早い動作であった。私は何がなしに感心した。
しんこ細工屋は子供達にとりかこまれていた。子供達の頭ごしに私は声をかけた。
 「爺さん」
 「おう」
 爺さんは私の声をきくと待っていたように顔を上げた。
 「あんたいい口があったってね、よかったねえ」
 婆さんからきいたらしい。
 「爺さんともお別れだよ」
 「そうだねえ」
 「爺さん、これ」
 私は五十銭銀貨を握って出した。
 「何んだね」
 「これ少ないけれど、煙草でも買って下さい」
 私は握っていた手を開いた。
 「お、そうかね、これあ、どうも」
 爺さんはとまどったように私の顔をみたが、すぐにっこりした。
 「いや、頂きますよ、遠慮なく、」
 爺さんは銀貨を手のひらからつまみ上げると、ひょいと押し頂くようにして、腹がけのどんぶりの中へぽんと放り込んだ。
 「あんた、これから、すぐ帰るかね」
 「いや、すこし、ぶらついて来ます」
 「そうかね、それじゃ、帰りによって下さいよ、いいかね」
 「ああ」
 私は爺さんの屋台をはなれた。
 
 (月刊『SANA』(サーナ)第50号(1953(S28).8.1、真生活協会)より)
 
田村一二 ラジオ番組出演 その1 「朝の訪問」
2024-07-01
 前回(6月1日)、紹介しました4本の田村一二が出演したラジオ番組のうち、今回はいちばん古い録音であるNHKラジオ第1「朝の訪問」について、その内容をお伝えします。
 

 
 録音テープは、おおむね15分で、音もクリア。おそらく田村が放送局からもらったものだろうと思われます。
 テープ自体もキレイに巻かれていて、どこも伸びていたり、縮れていたりする個所はなく良好な保存状態でした。
 写真のように、紙製のケースに入れられていて裏面のインデックスの部分に「36.6.30」「「朝の訪問」」「N.H.K.」とマジックで手書きされていました。
 一麦寮三十年誌の年譜を見てみると、確かに昭和36年のページに「6月 NHKラジオ番組『朝の訪問』用に田村寮長を取材・録音」とあり、番組名は間違いないようでしたが、放送日については確証がありませんでした。
 そこで、実はこちらも滋賀県立図書館の「朝日クロスサーチ」のお世話になったのでした。
 確かに当日のラジオ欄(写真)に載っていて、午前7時40分から15分の放送だったようです。
 インタビュアーが「南原」というアナウンサーだったことも判明しました。
 
 1961(昭36)年6月といえば、大津の南郷に(旧)一麦寮が開設されてまだ3カ月ほどです。
 テープからは、インタビューの後ろで、ざわざわと寮生さんたちの声や寮内の物音が聞こえてきます。
 聞き手が「(寮生さんが)部屋の外をずいぶん待ちかねているように歩き回っていますけれども・・・」と言っています。
 おそらく寮長室での録音だったのでしょう「普段だったら(来客がなければ)部屋が(寮生で)いっぱいになる(カッコ内、筆者補足)」、「寝そべっているものやら、本を読んでいるものやら、私の肩を叩くものやら、もうぎっしりいっぱいになる」と田村は答えていて、開設間もない寮の空気感が伝わってきます。
 
 インタビューでは、以下のようなことが語られています。
  ・特別学級を初めて受持った時の体験や想い
  ・幼少期から青年期、代用教員になるまでのこと
  ・画家になろうと思ったこと
  ・一麦寮の命名や近江学園のこと などです。
 
・特別学級の担任時代のことは、著書「忘れられた子等」にも書かれている内容で、校長に押しつけられ、最初はイヤイヤながら担任をしていたが、「徐々にこっち(障害児教育)へ、こっちへ引っ張られ」、腹いせに生徒をポカリとやってしまう田村を「根気よく、やんわりと怒りもしないで、泣きながら受け入れてくれ」て、「教師として開眼させてくれたのが」特別学級の生徒たちだったと語っています。
 
・幼少期から代用教員までのことを話していますが、多少の脚色はあるかもしれませんが、現在このコラムで連載している小説「屑屋先生」のエピソードそのものですので、再読してみてください。
 
・画家になりたかったことについては、「学校の先生になってからも腹の底では、こんなものは腰掛けでいつか飛び出す、絵描きになるんだ」と思っていたこと。「5、6回入選し」たことがあったが、描いた絵は全部、戦時中に「カンバスだけ取れるので、水に漬けておくとニカワが剥げて麻布だけが取れ」るので「シャツを作った」と言っています。
 
・一麦寮という名前については、「実は近江学園の糸賀園長先生の命名だと思いますがね」、「聖書にある『一粒の麦が死なずば』という。そこから出たのだと思います」と答えていて、命名については、あまり主体的に関わっていなかったような言い方をしています。
また、近江学園との関係については、「まぁ本店と支店のような関係」で、一麦寮は「義務教育をだいたい終わった」年長の男子を収容していると言っています。
 
 インタビューの最期には、知的障害児との「付き合いをはじめる」と世の中が「上っ面のキレイごと」に見えてきて「私はここ(障害児教育)の世界で安心しますね」、「人間というものの値打ちというものは良くわかります」、「何を基準に人間の値打ちを決めているか」と語り、教員時代も含めたそれまでの30年間が「実に愉快」だったと締めくくっています。
 知的障害児に関わり、生活をともにし、教育者として歩んできた田村の確信と自信が感じられるインタビューになっていると思います。
 

 
 今回、サブタイトルを「田村一二 ラジオ番組出演 その1」としました。
 「その1」ということは続きもありうるということです。
 ネタ増やしもあってシリーズ化しようかと・・・。でも、次回はいつになるかはわかりません。
 糸賀のラジオ番組出演のテープもあるので、そちらもお楽しみに・・・
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第7回 夜店(3)-1
2024-06-15
挿絵
 夜店あきんどもかれこれ一ヶ月近くになったが、別にどういうこともなく、はじめて出る前の晩に想像していたようなうまいことはなかった。
 ただ、根が呑気なのか、だんだん馴れるにしたがって、はじめ頃の恥しさもなくなり、むしろに坐って、店の前を右左にゆききしたり、立止ったりする客の足をみていて、これは買う客か買わない客か当る遊びを発見した。
 足だけをみていると、さっさと見向きもせずに行き過ぎてしまうのや、ぶらりぶらりと何を買おうかなと左右を物色しながら歩いてくる足、私の店の菓子をみて、どんなものかなと思って近よって来てみて、なあんだと失望して行き過ぎてしまう足、はじめから買うつもりで近よってくる足、どうしようかなと躊躇している足、行きすぎようとして、思い返して帰って来たが、やっぱり止めにしようというように又行ってしまう足など、実に種々様々で、それが又、その時の気持をそのままにあらわしている。足ばかり見ていると、しまいには、私にとっては、それは顔と同じように思えて来るのであった。これを私は自分で「足の表情」と名づけた。
 「足の表情」を発見したことは、私の夜店に出た間の収穫の一つであった。この表情をみていると大体、この客は買うのか買わないのかが、ほぼ当るようになった。
 この事を、しんこ細工屋の爺さんに話したら、爺さんはしばらく黙って私の顔をみていたが、
 「あんたも、そういうことがわかるようになったかね」
といづて溜息をついた。
 「やっぱり、おゆう婆さんのいうように、あんたは、早く、夜店から足を洗うんだな、その方がいいよ」
 珍らしく爺さんの口調は素っ気なかった。私は急に淋しい気持になって黙ってしまった。
 爺さんはちらりとしんこ細工の手を止めて私の顔をみた。
 「あっしゃ、何も、夜店のあきんどを卑しんじゃないよ、これも立派な職業さ、だけど、人間にゃ、向き不向きがあらあね、あんたにはただ、こういう仕事はふむきだというだけなんだ」
 「……………」
 「まあ、あっしのみるところじゃあ、」
 爺さんは私の顔をのぞきこむようにして、にっこり笑った。
 「まあ、あんたは、教育者か芸術家というところだな」
 「そうかなあ」
 「まず、商売人じゃないな」
 爺さんは、又、せっせとしんこ細工をつくりはじめた。私には、爺さんのいうところが、胸にこたえた。心の中でもやもやとしていたものが、爺さんにはっきりといい当てられたような気がした。
 「うーん」
 私はうなりながら、下っ腹に手をつっこんで空を見上げた。星が一ぱいきらきらと光っていた。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第50号(1953(S28).8.1、真生活協会)より)
 
放送日はいつ?
2024-06-01
 今回は、いつなのかわからなかった資料の日付が特定できたお話です。
 その日付というのは、田村一二が出演したあるラジオ番組の放送日のことなのです。
 

 
 一碧文庫には、田村一二の肉声を記録した録音テープが13本残されていて、そのうち8本がNHKのラジオ番組に出演した際のものです。
 これらは、同一番組で重複しているものもあるので番組としては以下の4つになります。
 放送日順に
 ・NHKラジオ第1「朝の訪問」(1961(昭36)年6月30日放送)
 ・NHKラジオ第1「人生読本『忘れられた人生①~➂』」(1966(昭41)年9月8~10日放送)
 ・NHKラジオ第2「精神薄弱児のために『大臣にきく』」(1972(昭47)年3月19日放送)
 ・NHKラジオ第1「人生読本『賢愚和楽の道①~➂』」(1972(昭47)年5月15~17日放送)
 出演時期としては、南郷の一麦寮開設後すぐと粘土活動が始められた頃、そして石部に移転後の頃と一麦寮の節目となる時期ごとに出演をしていることになりますね。
 
 みなさんは、それぞれの番組の中で田村が何を語っているのか、その内容のほうが気になるところかもしれませんが、それは後日に送るとして、今回は放送日のおはなし一択でいかせていただきます。
 上記の録音テープのうち「忘れられた人生」以外は、入っていた紙ケースにマジックで手書きされていたり、写真のように収録日や収録スタジオ、録音技師の名前まで記入されている「録音テープカード」が貼られていて容易に放送日を知ることができました。
 出演の記念品だったのでしょうか、放送後、ラジオ局から田村に手渡されたものではないかと思います。おそらくはラジオ局が取材し録音した生の音源でしょう、音も非常にクリアです。
 ただ、「忘れられた人生」については、音は同様にクリアなのですが、録音テープ自体は無地の白い紙ケースに入っていて放送日を特定する情報は何も書き込まれていませんでした・・・。
 

 
 ここからが、にわか探偵のはじまりです。
 どうしても放送日が知りたくなった筆者は、なんとか特定できないものかと頭をひねりました。
 まずは、捜査の鉄則「現場に帰れ」ではないですが、テープ起しをしながらじっくり音源を聞いてみることにしました。
 録音テープでは田村は、当時まだよく理解されていなかった知的障害児の心の内側を何とか発露させたい、知りたいと思っていて、その手段として粘土をとり入れ、この放送の前年に運動場の端に粘土活動のための小屋を造ったことを語っていました。
 南郷の一麦寮で粘土室が建てられたのは、1965(昭40)年の春頃なので、このことから放送はその翌年1966(昭41)年のどこかということになります。
 そして録音テープの最後では次回予告で「12日月曜日からは「わたしの描くもの」と題しまして画家の田中忠雄さんにお話をしていただく予定です」と告知されていました。
 大きなヒントです。インターネットで調べてみると、1966(昭41)年中で12日が月曜日になるのは9月と12月であることがわかりました。
 かなり狭まりました。あとは、どちらかを特定するだけです。
 ここで登場するのが滋賀県立図書館です。筆者はよくここを利用しています。というのも、ここには朝日新聞社が提供している図書館限定で利用できるオンラインデータベース「朝日クロスサーチ」があるからです。
 「朝日クロスサーチ」は、朝日新聞の縮刷版を明治・大正の時代から検索、閲覧できるサービスです。マイクロフィルムのインターネット版と思えばわかりやすいですかね。日付を入力するとピンポイントで検索することができます。
 半世紀も前のことですが当時の新聞にもラジオの番組表が載っているはずです。そこでこのデータベースで1966(昭和41)年の9月と12月の12日のラジオ欄を検索してみました。すると、9月のラジオ欄で田中忠雄の名前を見つけました。続いて、その前週9日~10日の同欄を調べるとたしかに田村の名前がありました。
 念のために12月も調べましたが、やはり別の人でした。
 これで「人生読本 忘れられた人生」の放送日を特定することができました。
 
 今回、このプチ調査で、学者や研究者が研究対象の資料の裏付けを取っていく地道な作業の一端を経験することができました。
 以前ならば図書館等に行って、アナログの縮刷版やマイクロフィルムでページをめくりながら、行きつ戻りつコツコツ調べていたことでしょう。そもそも対象となる縮刷版やマイクロフィルムが所蔵されていないことも多々あることです。そこで調査はお手上げ、頓挫してしまいます。
 それを想うと現在はインターネットが普及し、これを使えばかなり詳しいことまで簡単に調べられるようになりました。普及とともに功罪が取り沙汰されるインターネットですが、今回はそのありがたみを実感することができました。
 

 
 ちなみに…
 
 「朝の訪問」は、1949年から1964年まで、およそ15年にわたって放送され、ふだんその声を耳にすることのないさまざまな分野の著名人が、人生観や経験談を語るという内容で、声の随筆と言われた番組でした。(NHKアーカイブスのWebページより)
 
 「人生読本」は、1953年4月から放送されていた番組で、毎回10分間、基本的に3日間を1セットとして月曜から水曜日、木曜から土曜日の週2セット放送されていました。各界の著名人がそれまでの人生の歩みを振り返り、リスナーに人生を生きる上でのアドバイスなどを交えて語っていました。(ウィキペディアより)
 
 「精神薄弱児のために」は、雑誌「手をつなぐ親たち」掲載の番組予告をみると、少なくとも1965年4月には放送されており、「心身障害児とともに」(1980年4月~)、「心身障害者とともに」(1986年11月~)、「ともに生きる」(1994年4月~)、「バリバラR」(2012年4月~)と時代の流れにあわせて番組タイトルを変えながら今に至るまで続いているNHK大阪放送局制作の福祉に関する情報番組です。(雑誌「手をつなぐ親たち」、NHKクロニクルのWebページおよびウィキペディアより)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第6回 夜店(2)-3
2024-05-15
 
 その晩の帰りみち、婆さんはくたびれたような口調でいった。
 「ぼん、あんた早うこんな夜店やめなあかしまへんで、あんたみたような人が、こんなことやってたらどむならん、あんたは早う、よそへ行く人や、今さしあたり困ってはるさかいに、わても助けたけどなあ、こんなこと面白うなったらあきまへん、あんたはどうでも出世して貰わなどむならん、なあ、ぼん、どこぞええ口ないかいなあ、ほんまに」。私はいつまでもこんな夜店をやっていようとは思っていないけれど、どうも、婆さんのいう出世ということばに気持の抵抗を感じてむっとしたように押し黙っていた。私もまだ若かった。婆さんは私の顔をみて、悲しげに首を振つた。まるで本当の自分の孫のように私を可愛がってくれ、私のことを思ってくれるおゆう婆さんも好きだったが、ひょうきんで明るいしんこ細工屋の爺さんも好きだった。
 年は六十を越した位か、小柄で少し痩せ型、実に上品な顔をしていた。特に鼻が、先代の羽左エ門に似ていて立派だった。このままちやんとした着物を着せれば大きな店の大旦那で通るような人柄であつた。いつも紺のはっぴに白のももひき、それはいつもちゃんと洗濯してあった。しんこ細工をする屋台も真っ白に磨きあげてあった。
 大体、夜店に持ちこんで来るような屋台はいずれも手垢でぴかぴかしているような代物が多いのだが、その中でこれだけは変わっていた。如何にこの爺さんがけっぺきなまでにきれい好きであるかがわかる。私もこの爺さんのつくるしんこ細工なら安心してたべられるような気がした。爺さんのつくるものは、鯛、たこ、犬、猫、鶴、にわとり、みかん、もも、なし、ばなゝ、柿、その他、まきずしのような御馳走からひょうたんまであった。
 子供の出さかる宵のうちは、爺さんはすつかり子供達にとりまかれて姿が見えなかった。
 ただ、冗談をいっては子供達を笑わせている明るい声がその中から絶えずきこえていた。
 私も自分の店—といつてもどうせ大して売れるわけでもなし—を横目でちょいちょいみながら、子供達の頭ごしに爺さんの手の動きをのぞいてみた。みかんなど、ひょいとしんこを一つまみとって、くるくるとまるめて、ぐいと上下を押さえ、へらのようなもので、まわりにくいくいと筋をつけるとそれがちゃんとみかんのふくろのあつまりになる。それに白い粉をまぶしておいて、別に黄色いしんこをとって、平べたくのばし、それでくるりと包んで、妻楊子のたばにしたようなものでとんとんと叩くと、みかんの皮の肌になる。それをちょいと指先で黄色い皮をむくと、中から白いふくろが見えて、本当のみかんそっくりである。
 大人の—まだその時は十八才だったが—私が見ても感心するのだから、子供たちは息をつめ目をすえて爺さんの手元をみつめていた。そして一つ出来上がるとみんなほっと溜息をついたり、体をもそもそと動かしたりした。子供達は先を争って、自分の好きなものを注文した。爺さんはそれを適当にさばきながら孫共におもちゃでもつくってやるようにいつもにこにこして手を動かしていた。
 出来上ると、へぎにのせて、上から、ものによっては蜜を、或は白い砂糖をかけてもらう。それを大ていの子供達はその場で食べないで、こぼれないようにそっと大事そうに持って帰る。恐らく直ぐには、あぐっと食いつきかねる気持なのであろう。
 あんまり楽しそうなので、つい
 「僕も、しんこ細工、習おうかなあ」
と笑いながらいうと、「だめだめ」
爺さんは、おゆう婆さんの方へあごをしゃくってみせた。
 「この間、一寸、冗談をいつてもあんな調子だ、あんたを本当に俺の弟子にでもしようものなら、あの婆さんに噛みつかれるよ」
 「まさか」
 「まず、屋台位はひっくりかえされること、確実だな、はゝゝゝゝ」
 この東京弁の上品なしんこ細工屋の爺さんの素性は誰も知らない。
 長いついきあいのおゆう婆さんでさえ、昔は東京で立派に材木屋か何かをやっていた人らしいという程度しか知らなかつた。
 昔の話が出ると、いつも爺さんは話をそらしたり、人にきかれても「忘れちゃった」といって笑って答えないそうである。
 私はこの爺さんの名前も知らずに、その後間もなく別れてしまうことになった。
 
    (月刊『SANA』(サーナ)第49号(1953(S28).7.1、真生活協会)より)
 
糸賀一雄の蔵書印①
2024-05-01
 一碧文庫には糸賀一雄が所蔵していたたくさんの書籍が保管されています。
 これらの中には、いわゆる「蔵書印」という印影が押されているものがあります。
 蔵書印とは、だれがその書籍を所蔵しているかを明らかにするために、見返しなどに押された印のことです。
 学校の図書室や、市町村の図書館で借りた本、博物館などの資料に学校名や図書館名の入ったハンコが押してあるのを見かけたことはありませんか。
 普段、私たちがよく目にしているのは、そういった団体や公共の施設で使われている蔵書印です。
 これとは別に、あまりお目にかかることのないものですが、個人が趣味で作り自分の持ち物に押す蔵書印があります。
 筆者も、実際に押された個人の蔵書印を初めて見たのは、一碧文庫に来てからのことです。
 今回は、その中から2つの蔵書印をご紹介します。
 

 
 まず、一つ目は、糸賀一雄自身の著書「福祉の思想」の初版本(写真左)に押されているものです。
 見返しと目次ページ、それに巻末の既刊目録のページの3か所にあります。一冊に3ヶ所も!!
 使われている字体について、筆者は詳しくありませんが、最近はインターネットで簡単に調べることができます。
 画面上で字体を選択して氏名を入力し、プレビューボタンを押すと直ぐに出来上がりの印影を確認できるサイトがありました。
 それによるとこの蔵書印は「印相体」という字体でした。
 普通、蔵書印は他人の著書を購入したり、受贈したりした証しとして押されるものだと思うのですが、自分の著書に著者自らの印が押してあるのは珍しいケースでしょう。
 もしかすると、当時、職員や知人に配るために何冊も糸賀のもとにはあって、それらと区別し、自分の手元に置く一冊として蔵書印を押したのかもしれません。
 
糸賀一雄の蔵書印 ②
 
さて、ここから2つ目の蔵書印です。
「精神薄弱問題史研究紀要第2号」(昭和40年3月、精神薄弱問題史研究会)(写真右)という糸賀の論文も掲載されている冊子の表紙に押されているものです。
字体はこちらも「印相体」で右上から左下へ順番に「糸/賀/一/雄/過/目」と読めます。
「一雄」の「一」の字は、本来なら横一線の「一」ですが、ここでは漢数字の「弐」を使い、最後の一画を省くこと(つまり2-1=1)で「一」と読ませています。
また、「目」の字も、二重丸をあしらって目玉に見立てているのでしょう。
いずれも糸賀の遊び心がうかがえる印章だと思います。
「過目」とは、確認や審査の意味を含んだ「目を通す」いうこと。中国には「過目不忘」という成語があり、「一度目を通せば覚えて忘れない」、つまり記憶力が優れていることの例えだそうです。
 糸賀も「しっかりと精読し、確認したよ」という意味で、この印を押したのでしょう。
 

 
 【蛇足】です。
 
 先日立ち寄ったJR草津駅前の書店に置いてあった「福祉の思想」は、なんと第91刷で2021年12月25日発行でした。
 一碧文庫の在庫でいちばん新しいものが第86刷、2016年11月20日発行なので、5年間で5刷、けっこう短いスパンで増刷されています。
 一度の増刷でどれほどの冊数が刷られているのかはわかりませんが、それにしても初版発行(1968年)から半世紀以上が過ぎても未だに増刷され続け、書店に置かれているというのはスゴイことだと思います。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第5回 夜店(2)-2
2024-04-15
 帰りは又婆さんの車に荷物をのせて貰ってひっぱって帰った。今度は婆さんの足に合わせてぼつぼつ歩いた。
 二人共何もいわなかった。私はひどく疲れたようで物をいう元気もなかったし、第一頭の中が空っぽで、他人の頭のようであった。婆さんも黙りこくっていた。何かはじめのうちは私を慰めようというような気配をみせていたが、それもやめてしまった。どうせおざなりな事をいったってしようがないと思つたのであろう。
 それよりも、婆さんは、遠い昔のことを思い出しているのかもしれない。さっき婆さんは、親譲りの夜店あきんどだといったが、その昔は、槍一筋の家であった。いつか婆さんが家に来て父や母と話していた時に、そんな思い出を語ったことがあった。そういえば、おゆうという名もただの町人百姓の娘の名にしては少し上品な感じがする。おゆう婆さんが子供の時には、家にはまだ下男や下女が何人かいたそうである。
 婆さんは、私の姿の中に、自分の昔の姿を見出したのかもしれない。そして、遠い昔の思い出をなつかしんでいるのかもしれない。月の光の下に、ひしゃげたような、私達の住んでいる裏長屋が黒く見えて来た。三袋しか売れなかったことが急に私の心を重たいものにしてしまった。夜店は殆んど雨の降らぬ限り毎晩出た。場所と日がいろいろあるからである。例えば一の日はどこどこ、六の日はどこという工合だ。いつもおゆう婆さんと一緒だった。私もだんだん慣れて来た。
 はじめから袋に入れてしまわないで、中身を盛り上げておいて、その上へ二つ三つ袋に入れたのをおく方法がよく売れた。その筈で、客は中味がわからなくては買いようがない。そんな簡単なことまでが、実際にぶつかってみて、はじめてわかって、そうしたら売れるようになった。これは実に嬉しかった。値札も字体をこって書き、その周囲に赤色を入れた。それだけでも店が華やかになる。こういう工夫をしてみては、それが当るとすると、商売の面白味はこういうところにもあるのではないかと思うこともあった。
 少し遠い場所へ行く晩は私は元気だった。店に坐っていても、じっとうつむいていることはなかった。時には、立止りそうにする客に
 「どうです、安くてうまい菓子」
と呼びかけることさえあった。知らぬ人ばかりという気やすさがそういうことをさせたのであろう。
 しかし、私がそうして夜店になれてくることに対して、おゆう婆さんはあんまり機嫌がよくなかった。夕方になって、私が元気よく
 「おばあさん、出かけようか」
と誘いに行くと婆さんは嬉しいような悲しいような複雑きわまる顔をした。
 一度、よく左隣りに店を出しに来るしんこ細工屋の爺さんが私を弟子にしてやろうかといいだした時など、婆さんは私が困ってしまうほどむきになって爺さんにくってかかった。結局、爺さんがへきえきして「冗談だよう、怒るなよ」と婆さんをなだめてにかかってやっとおさまった。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第49号(1953(S28).7.1、真生活協会)より)
 
一碧文庫、紙資料の保存 その1
2024-04-01
 一碧文庫が保管しているのは、糸賀一雄や田村一二に関する資料で、そのほとんどは文書や書籍など、いわゆる紙の資料です。
 しかも糸賀、田村が活動していた時代の資料なので、もうすでに何十年と経っている代物です。
 
 このような紙の書類(印刷物)は、長持ちしそうで実はとてもデリケートです。
 今でこそ、印刷に使われる紙はほとんどが劣化しにくい中性紙ですが、昭和60年頃までの紙は、製造の過程で酸性物質を使用する酸性紙でした。ですので、紙の繊維が分解される酸性劣化が進みやすいのです。
 放っておくと黄ばんだり、シミがついたり、印字が薄くなったりと時が経つにつれてどんどん劣化が進みます。これは防げません。
 (ちなみに和紙は中性紙に分類されるそうです。1000年近く前の和紙の古文書が現在でも残っているように、カビや虫食いなどが無く状態がよければ、長く保存ができるそうです。)
 そのほか、クリップやホッチキスもそのままにしておくとサビが出て劣化の原因になりますし、カビや虫などもってのほかです。
 
 貴重な資料ですので、大切に保存・管理してはきましたが、これらさまざまな要因によって、どうしても劣化は進んでしまいます。
 一碧文庫ではクリップやホッチキスを取り除き、ホコリや汚れを除去した上で、先述した中性紙でできた専用の封筒や保存箱に入れて分類・保存しています。
 こうした専用の資材を使うことで防げないにしても、できるだけ劣化を遅らせることができます。
 
一碧文庫、紙資料の保存 その2
 また、スキャナーを使って画像をパソコンに取り込む作業も徐々に進めています。
 デジタルにデータ化することで、閲覧などで原資料に直接触れる機会を減らすことができ、これも劣化を防ぐことができます。
 文書類だけでなく、ネガやスライドが取り込めるフィルムスキャナーもあります。
 写真のネガやスライドは、薄いプラスチックのシートに薬剤を塗って画像を定着させています。この薬剤が酸化することで色あせしたり、赤くなったりしていくのです。
 皆さんも経験があると思いますが、何年もしまっておいたネガフィルムを袋から出したときにお酢のような匂いがツンとするのはそのためです。
 利用者を含め先人たちが活動していた貴重な画像データですので、しっかりと残しておきたいと思います。
 

 
 いかがでしたでしょうか?
 このようにして、歴史ある我が法人が遺してきた貴重な資料たちは保存されています。
 しかしながら、先人たちの思いが詰まったこれらの資料を、ただただ倉庫に詰め込んでおくのでは意味のないことです。
 法人職員の研修や教育、研究者の方の閲覧にと、現在に活用されてこそのこす意味があるというものです。
 一碧文庫は、あくまで資料の収蔵庫ですので、常設の公開展示をしてはいませんが、見学等は受け入れをしています。
 ご希望の場合は、このホームページのメールフォームからお問い合わせください。
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大​木​会​・​も​み​じ​・​あ​ざ​み​
一​ ​麦​
お​お​き​な​木​
社会福祉法人 大木会
〒520-3194
滋賀県湖南市石部が丘2丁目1-1
TEL:0748-77-2532
FAX:0748-77-4437
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もみじ あざみ
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一麦
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