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SEEDS column シーズ・コラム

 

更新は1日と15日

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『屑屋先生』(田村一二:著) 第25回 代用教員(6)-2
2025-10-01
 またもや筆者都合により「屑屋先生」を繰り上げ掲載します。
 ここのところ自転車操業的にコラムをあげてきましたが、いよいよそれもままならなくなってきました。
 というのも、このホームページにも案内掲載しています「田村一二没後30年記念事業」の開催日が迫ってきて、いろいろと忙しくもなってきたからです。(言い訳ですが・・・)
 
 田村一二は、戦前の特別学級担任から始まり、石山学園、戦後になって近江学園、一麦寮、茗荷会運動とその時、その時代の第一線にあって先進的に障害児者教育を進め「ともに生き、ともに育つ」ことを自ら実践してきた人でした。
 筆者は田村本人に直接会ったことはありませんが、多くの著書や残された資料に触れることで、その考えや実践は決して古いものではなく、今だからこそそれぞれが心にとめて実践すべきことなのだと実感しています。
 没後30年を経て、その実践を振り返る中から今一度その思想を確かめあい、今日の施設福祉にどのように受け継ぎ、活かしていくのかをともに考える機会になればと思っています。
 多くの方々にご参加いただければと願っています。
 案内掲載ページ(http://ookikai.or.jp/publics/index/51/
 (筆者、初めての経験・・・Googleフォームで申込フォームを作りました。)
 
 ということで、そんな田村の未刊行小説「屑屋先生」です。
 

 
 日曜日というと大ていの勤人は朝寝坊をするものだが、私の場合は逆であった。但しそれは晴天の日に限って、雨の日は、午近くまでねて、朝食を節約した。天気がいいとわかるとがばとばかりはねおきて、そっと階下におり、洗濯場にいって、パンツとシャツをぬぎ、腰にはタオルを巻きつけ、その家の石鹸をこっそりと借用して――まだ誰も起きていない――手早く洗って、屋上の物干台にいってそれを干す、時々ねまきと靴下がその横にぶらさがる。大てい、それがかわくのを待っている間は洋服のズボンをぢかにはいて知らん顔をしているのだが、一度あたたかくて爽快で余り気持がよかったので、タオルを腰にないたまゝ、物干台にいたところを、通りから子供たちにみつけられた。
 子供たちはきゃっきゃっといって手をたたいて喜んだ。今さら逃げかくれしても仕方がないので、上から手を振ってやった。
 子供たちは、うわっと歓声をあげた。先生のこんな姿はよっぽど珍しかったらしい。
秋になった。紅葉狩をかねて職員旅行が催された。今度は私もつれていってもらうことになった。誰かが何かの都合で留守番をしたいといったのかもしれない。
 ところが、出発の前日、教頭からみんなにいろいろの注意があった、出発時間だとか、集合場所だとか、それは別に何でもない。
 その後で妙なことをいった。
 「さて最後に、一こと御注意申し上げますが、途中汽車の中でも、向うへついてからも、お互いに、絶対に先生といわないこと」
 それでは何と呼べばよいのかと思ったので、訊いてみた。
 「それでは、何と呼ぶのですか」
 皆がげらげら笑った。
 「何々さんと、名を呼べばよろしい」
 教頭はわざと笑わないで答えた。
 「では校長先生も、Uさんといえばいいのですか」
 皆がどっと笑った。
 「いや、校長先生は社長と呼ぶのです」
 「社長?」
 「そうです」
 「なぜそんな妙なことをするんですか」
 今度は皆笑わなかった。教頭は苦い顔をして答えなかった。
 「今度は何会社だ」
 と誰かが訊いた。
 「洗濯会社です」
 と、教頭は答えた。
 「洗濯会社? はゝゝゝ そいつは、いいや」
 「意味深だね」
 「そうすると、教頭さんは会計課長とでもよぶか」
等と口々にいった。教頭はにやにやと笑った。そして先生といったものは一円の罰金だといって注意を終った。
 結局、私の質問は無視されてしまった。私はどうしても腑におちないので、出目金さんにきいてみた。彼女はじゃまくさそうにいった。
 「そら、小杉先生、あんたなんかまだ若いから、わからへん」
 「だが、先生がお互いに先生と呼んでいけないというのは、何故だろう。それを知りたい。先生、あなたはそういうことに賛成なんですか」
 彼女は当惑したような表情を浮かべた。それからやゝ投げやりな口調でいった。
 「賛成なんかしてへんけど。しょうがないのやわ」
 「どうしてです」
 「あのね」
 彼女は首を振って、それから姉が弟にいいきかせるような口調で話した。
 「あのね、結局のところ、みんな先生とみられたくないの、汽車の中でお酒のんだりむこうでしようもない歌うとうたりしたいし、そうするには会社員に化けてした方が気が楽なのよ、先生がお酒のんだり、歌ったりしたらかっこうが悪いと思ってんのね」
 「なんだ、そんなことか、くだらない」
 「そうよ、だけど、人間の弱さでしょうね」
 出目金先生にしては珍しく深刻な顔をして溜息をついた。
 彼女の顔をみたら、それ以上もう聞けなかったから、私は黙ってしまったが、腹の中では先生だって人間だから酒ものもうし、歌もうたおうし、踊りもするだろう、それを一体、何故かくれてこそこそやろうとするのだろうか、どうしてそんなに卑屈なのだろう、堂々とやればいいではないか。それをやっぱり体裁をつくってうわべは聖人のようにみせたいところが、やはり出目金さんのいう人間の弱さかも知れない。しかし、自分の仕事を卑下しているような人に、本当に人を教育することができるだろうかと思った。
 
    (月刊『SANA』(サーナ)第59号(1954(S29).5.1、真生活協会)より)
 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第24回 代用教員(6)-1
2025-09-15
 
 
 今回から、「代用教員」の第6回です。
 第6回では、欠食児童と教員旅行についてのエピソードが出てきます。
 教員旅行のエピソードは、戦前、田村が京都日出新聞に連載していた「両刃斬撃(もろはざんげき)」の第1回「社員は旅行する」(1941(昭16)年2月9日掲載)として紹介されています。
 ちなみに京都日出新聞は、後に京都日日新聞と合併して現在の京都新聞になります。
 

 
 大体この学校は場末にあって、貧乏な子供がおおいようであった。現に私が補欠にいっている組にも、履物がなくてはだしで来ている子供が数人いた。中には垢だらけの着物に縄のおびという子もいた。そういう子供の中に今いったお弁当を持って来ないのが二三いる。どうして弁当持って来ないのだときくと、食べたくないとか、弁当なんかいらんと答える。そうかなあと思っていたが後で他の子供が教えてくれたところによると、「先生、あいつら、お弁当いらんてうそでっせ、貧乏で、弁当持って来られへんね」
 これをきいて私は俄然、彼等の欠食児童に同情した。同病相憐むといった気持である。
 しかし、驚いたのは、この何人かの欠食児童の中で一人だけ食事中いつも教室の自席で、ごう然と腕組をしている子供がいた事である。他の子供は大てい運動場の片隅でこそこそ遊んでいるか、教室にいてもうなだれたりしていたのに、この子供だけはびくともせずに胸をはっていた。豪い奴だと思った。
 いろいろ訊いてみると、やはり家が貧乏で弁当が持って来られないのだ。
 「つらいか」
 ときいてみると
 「つらいけど、一ぺんぐらい食わんでも死なへんわい」
 と昂然と答えた。
 「先生は貧乏で弁当の代りに焼芋を食ってるんだが、お前にわけてやったら食べるかい」
 「うん」
 案外あっさりとうなづいた。
 「おいで」
 彼は教卓のところへついて来た。新聞紙の上にいくつかの焼芋がころがっていた。彼はいきなり一番大きいのをむずとつかんだ。
 「待て」
 私は彼の手を握った。
 「それは僕が食う、体が大きいからな」
 彼は実に愉快そうに、にやりと笑うとそのいもをはなした。
 「先生、俺の他にも、弁当のないやつ、いるんやで」
 「よし、運動場のすみっこにいる連中、つれて来い」
 運動場へとんでいった彼はすぐ三人の子供をつれて来た
 「今日は俺とも四人や」
 「よーし」
 一番大きいのは私の分にとっておいて、小さいいもを子供四人に分けてやった。子供達は嬉しそうに自席にかえると、そろそろといもの皮をむきはじめた。皮をむいた上等の焼いもなどぜいたくで、その頃はもっぱら皮のまゝ丸焼しか私の口にははいらなかった。
 私は教壇の上からそれをみながら、
 ――畜生、貧乏人のくせに、ぜいたくな奴だ――と思った。そこで、私はこれみよがしに皮のまゝ、むしゃむしゃと食べた。ところが彼等はていねいに皮をむき終ると、中の黄色い美しいいもはそっと横において、皮を一枚一枚たべはじめた。皮をすっかりたべ終ると、残してあった美しい皮のない芋をとりあげ、お互にうなずきあい、私の方をむいて、一寸乾盃する時のようなかっこうで、そのいもをさし上げてみせてから、さも、うまそうに、いとおしむように食べた。
 ――えゝい、いじらしい事をしやがる――
 私は眼が涙でかすんで、いもがのどにつかえてしまった。
 爾来、貧乏なる教師と子供らは、まず焼いもの皮をむいて先にたべてしまい、残る皮のない黄色く美わしい芋を、お互いにちょっとさしあげうなずき合って食べる習慣になった。
 月給日には、私は彼等欠食児童に一杯づつのうどんをおごってやった。勿論私もその日はうどんである。
 眼を輝かしてちゅうちゅうと賑やかな音をたてゝたべる彼等に他の弁当組の子供達が逆に圧倒されるかっこうになった。
 アルミの弁当を手にもったまゝ、うどんを高くはさみ上げて食べている子供の方をうらやましそうに見ている子供が出来て来た。
 中には休み時間に、
 「先生、僕もうどんたべたい、弁当持って来んさかい、うどんたべさしてんか」
 と単刀直入に申込んでくる子供もいた。どうもこれには参った。そこで、全体の子供に貧乏談議を一席やって実はやむを得ず、こういうことをやっているのだということを了解して貰った。その間中、あの腕を組んでごう然とうそぶいていた子や、いつもはしょんぼりしている縄おびの子らが、実に嬉しそうに、にやりにやりと笑いながら弁当組の子供達を見返っていた。
 
              (月刊『SANA』(サーナ)第59号(1954(S29).5.1、真生活協会)より)
 
無財の七施
2025-09-01

 
 ちょうど一年前になりますが昨年の9月、このコラムで糸賀一雄の講話集「愛と共感の教育」を紹介しました。
 覚えておいでですか?
 この本の中には糸賀の生涯最後の講義となった1968年9月17日の大津市で行われた滋賀県児童福祉施設等新任職員研修会での「施設における人間関係」と題された講演が収められています。
 本当はこれがメインの書物なのですが、この時はその他の講演で「おむつ交換の際に重度心身障害のある利用者が、少しでも支援者の助けにと腰を浮かせようとする動作にその保母さんが感動した」というエピソードを糸賀が好んで紹介し、利用者と支援者の共感の世界について語っているのを中心にお伝えをしました。
 今回は、その最後の講義の内容について「少しだけ」触れたいと思います。
 遠慮がちに「少しだけ」といったのは、大上段に「そもそもこの講義での糸賀思想とは・・・」とか「生涯最後となった講義で糸賀は・・・」とは到底筆者の力量では表現しきれないので、この講義の後半部分で糸賀が語った、ある言葉について紹介したいと思います。
 筆者はこの言葉に触れて、普段の生活の中でこのような心持ちで他の人と触れあえたらいいな、支援するものの振る舞いとして指針になるのではと感じたからです。
 その言葉とは「無財の七施」です。
 これは糸賀自身の言葉ではなく、仏教の「雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)」というお経の中に説かれている言葉です。
 インターネットで調べてみると日本の多くの宗派やお寺のホームページでこの言葉についての説明を見ることができました。「お布施」というと法事などでお寺さんに納める金品というイメージだけれども、そういった財物が無くてもできる七つの施し、行いがあるということが、おおむねどのサイトでも説かれていました。
 糸賀は、この日、講義のためにメモ書きしたレジュメの他に手持ち資料として「無財の七施」について手書きした原稿用紙五枚をわざわざ用意し、黒板に板書までして説明しました。
 糸賀はこの原稿の最後で、この「無財の七施」は、小手先の道具として使うものではなく、心から湧き出てくるような行いでなければならないと書いています。
 また、ギスギスした現代社会における人間関係の潤滑油ともなると言っています。
 「施設における人間関係」と題した講義の締めくくりに、わかりやすく心に残る言葉を受講者に送りたかったのかもしれませんね。
 
 翻刻したものを以下に挙げてみます。
 (一碧文庫には、その現物が保管されています。インターネットなどをみると、七施を「しちせ」と読んでいます。おそらくこれが正式な読み方でしょうが、糸賀は「ななせ」と言っています。)
 
 
         無財の七施(むざいのななせ)
 
 この言葉は、大蔵経の一部「雑宝蔵経」の中にある。仏教でいう慈悲の心を平明に表現している言葉とされている。金もなく地位もなく、寝たきりの病人でも、つぎの七つの施しができるというのである。
 
(1)眼施(げんぜ)
 やさしい眼ざしで周囲の人々の心を明るくする。人間の眼くらい、ある意味で複雑な色合いをうつし出すものはない。「目は心の鏡」ともいう。その眼にたたえられたなごやかな光は、どんなにか人々をなぐさめ、はげますことか。特に相手が過失をおかした時は。
 
(2)和顔悦色施(わげんえつじきせ)
 目のつぎは笑顔である。中老年の笑顔は、まわりにはもちろん、何よりも本人にとっての救いである。
 
(3)言辞施(げんじせ)
 やさしい言葉をかけること
 
(4)身施(しんせ)
 身体を使って、人のため、世のためお役に立つこと。現代語で勤労奉仕などというが、奉仕は、ほんらいほどこしである。
 
(5)心施(しんせ)
 感謝の言葉で、まわりの人々の心を明るくする。現代人には「ありがとう」という言葉がスラスラでてこない。ハニカミもあるかもしれぬが。アリガトウ、たったこの五字の音声が、この世のなかをどんなにか住みよくすることか。
 
(6)牀座施(しょうざせ)
 場所、席をゆづり合う。そのことによって人々の心をやわらげる。交通ラッシュだ、やれ席取り競争だ、から、あるいは権力の座の争いにいたるまで、現代において何と、牀座施の必要の痛感されることか。
 
(7)房舎施(ぼうじゃせ)
 乞うもの、たずねるものがあれば、一宿一飯のほどこしをあたえること。
 
— 以上が「無財の七施」である。大切なことは、七施は生活の技術ではない。もとこれ真心より発するものでなければならぬ。
 現代は人間の関係がギスギスしすぎている。とすれば、この七つは、現代社会の七つの潤滑油といえないだろうか。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第23回 代用教員(5)-3
2025-08-17
 四月の終りに生れてはじめての月給三十五円を貰った。事務室で事務員から封筒に入れて貰ったが何だか、遊んでいてこんなものを貰ってまことに相済まんという気が強く起った。
 「はつ まことに こんなに沢山頂いて、相すみません」
と私は思わず頭を下げて礼をいってしまった。瞬間、相手の事務員はいやな顔をした。皮肉をいわれたと思ったらしい。じろりと私の顔を見上げたが、私が至極真面目な顔をしているものだから、むこうも驚いたらしい。そして、まことに恐縮したように、
 「いや、どうも」といいって頭を下げた。その辺にいた連中がみなにやにやと笑った。
 私はその封筒をふところに捻じこんですぐ洋服屋へいった。そして一番安いサージの詰襟服を一着買った。十一円であった。靴は少しおくれて、呉の親類にたのんであったのが送られてきた。海軍の兵隊靴が丈夫でいいだろうという訳だ。ところがどう間違ったか大きさが十一文もある。これを履いて歩くと、脱げそうになるから勢い引きずる。すっと、ごつぽんごつぽんと音がする。まるで神主のはく木履だ。そのころ、一しきり職員室で神主さんといってひやかされた。それを出目金先生が心配して考えてくれた末、靴の先に紙をつめてみるという事になりしてみたら、どうやら木履でなく靴になった。
 月給を貰うようになってから、伯母の家を出て下宿することになった。伯母の家に迷惑をかけたくなかったし、それよりも、鼠の脅威からのがれたかった。幸い、学区内に酒屋さんが二階を貸してくれることになり、同じ養成所のクラスで下宿がなくて困っていた二人の男も一緒に頼んでやり、三人で下宿することになった。そこに五年生になる女の子がいるので、その子の勉強をみてやるという条件で下宿代はただにして貰った。食事は外の食堂でとることにした。
 はじめは八畳の間にはいって工合がよかったが、そのうちに家人の感情が悪化して遂に四畳半に押しこめられてしまった。それというのが、相棒の二人のうち丹後の男が酒が好きで時々酔っぱらって帰ってきては勉強をみてやらなかったり、電燈の笠を煙管でたたき割ったりするためであった。岡山の男が怒って、
 「おどれあ、そげんことしよると、どうなら」
といっておどしても、丹後のよいどれには一向きかず
 「わいの金で、わいが酒のむのが、どうなら」
とうそぶいていた。
 岡山と丹後の喧嘩はどうでもいいが、とにかく、四畳半に三人は参った。それも体だけではない。三人とも机と行李一つもっている。机を二つならべてねると、行李を机の上においても、首だけは机の下にはいってしまう。たださへせまいところにいきのいいのが三人もねているうえに西陽の強く当る部屋で、とても暑くてねられない。そこで毎晩ねる前には一まわり近所を散歩してくることにした。ところが、場所が遊郭の裏で一寸曲ると、もう、
 「兄さん、兄さん、ちょっとちょっと」
である。丹後のおとこなど喜んで引き手婆をからかったりしていたが、毎晩通っているうちに、顔を覚えられてしまって、もう相手にされなくなってしまった。
 しばらくして丹後の男が出て行き、その後間もなく岡山の男も勤務校の近くに下宿が出来て、そちらへ移ってしまった。おかげで部屋は丁度よくなったが、貧乏ぐらしは相変らずであった。
 最初月給を貰った時は相すまんと思った程有難く思ったが、さて三十五円で一ケ月いくとなるとなかなか苦しかった。それも時々映画をみたり本を買ったりすると、とても一ケ月もたなかった。月給の一週間前ぐらいになると十五銭の朝食がたべられずコップで水をのんで学校へ出かけた。三杯位は目をつむってのむが、それ以上はなかなかのめなかった。そして九時頃になると体中がだるくなり、十時頃になると、大体において立っているより椅子にかける方が多くなる。
 昼は職員室でたべない。というのは、他の先生方のように三つ重さねの弁当や、丼ものは勿論のこと、うどんすらたべられないから、私は焼芋をたべた。いくら何でも焼芋を職員室でたべるだけの度胸を当時の私はまだ持合せていなかったので、これを教室へ持って来てたべた。
 その頃、私は女の先生が、お産で休んでいる補欠として、三年生の男女組を持っていた。教室で焼芋をたべる先生を子供達は喜んだ。先生方で教室でべんとうをたべるのは私ぐらいのものであったので、子供達には珍らしかったのであろう。
 ところが、こうして子供達と一緒に昼べんとうをたべるようになってわかったことは、大てい毎日、二三人の弁当を持って来ない子がいることであった。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第58号(1954(S29).4.1、真生活協会)より)
 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第22回 代用教員(5)-2
2025-08-01
  ― SEEDS column 筆者より ―
 先日、3日連続で人前に出て話す機会がありました。
 話をする日は、今年度の大木会青山塾第1回開講日の次の週末だったので、スケジュール管理の甘い筆者のこと、青山塾のもっと前から取り掛かっておけば良かったのに不十分な準備のせいで、思っていたことが十分に伝わっただろうかと反省シキリです。
 ともあれ筆者は、これが本業ではないので、さすがに3日連続はキツかった。
 持ち時間は20~30分程度でしたが、テーマも対象者もそれぞれに違った内容だったので、3日間を終えて筆者はもうカスカスの完全放電状態に陥ってしまったわけです。
 ということで、枯渇したエネルギーは充電せねばなりません。
 これで2度目になりますが、通常のコラムはお休みし、「屑屋先生」を繰り上げ掲載します。
 …スイマセン。いいわけでした。… 
 壊れたリチウムイオン電池みたいに爆発しない程度に急速充電しますので、お許しください。
 それではどうぞ。
 

 
 それから、二、三日して二年生の体操の補欠をやらされた。当時、体操の時の教師の服装は、白シャツ白ズボン白のズック靴それに白の体操帽にきまっていた。洋服の上衣を着てやっていけないことは勿論、ネクタイをしめたままもいけない。ズボンも白の体操ズボンに限り、靴も黒や茶の革靴ではいけないということになっていた。ところで、私は体操帽も白ズボンも白ズック靴も持っていない。規格にあうのは白シャツだけ。といって、和服の袖をたくし、袴の股立ちとつてというのも勇ましすぎる。遂に覚悟をきめて、シャツに猿股、はだしというかっこうで運動場にとび出した。
 ところが、二年生の子が笑う笑う。それはそうだろう。まるで潮干狩の男が間違って運動場にとびこんで来たというかっこうだから、これは子供でも笑う筈だ。私は子供達の前に立って直立不動の姿勢をとった。
 「つけえーつ」
 私は腹の底から声をしぼり出した。教練でおそわった通りにやった。子供達は一瞬ぽかんとしたが次の瞬間崩れる様にげらげらと笑い出した。これはいけないと思った。更に丹田に力をこめて、あらん限りの声を張り上げた。
 「つけえーつ」
 ある子供達はおびえたようにぼんやりしていしまい、ある子供達はもうたまらないように笑いころげた。私はげっそりしてしまった。
 「先生、小杉先生、だめ、だめ」
 みると、すぐ近くの教室の窓から出目金先生が顔を出している。
 「そんな小さな子に兵隊さんみたいなこというてもあかへんわ。やっぱり、やさしう、気をつけというてやらな」
 ぺこんと頭を一つさげると、私はやさしくいった。
 「気をつけ」
 子供達はちゃんと姿勢を正して「気をつけ」をした。あまりはっきりしているのでいやになってしまった。
 はじめに行進や徒手体操を少しやっておいて、後一しょに「鬼ごっこ」をやって大いにとびまわったから、子供達はご満悦で体操がすんでからも「小杉先生、小杉先生」と体のまわりに一ぱいとりついて来た。とりついてくるのはいいのだが、何しろ猿股一ちょうなもんで、その点まことに接触が工合が悪くてほうほうの態で職員室に逃げこんだ。
 ただ体操最中に一番困ったのが横隊行進をやった時である。「廻れ右前へ進め」をかけようとしたところが、どっちの足で「進め」をかけるのだったか忘れてしまった。ええと、どっちだったかな、左だったかなと考えているうちに子供達はどんどん運動場のはしの方へ行ってしまう。さあ困った、早く号令をかけなければと焦る程思い出せない。とうとう羽目板のそばまでいってしまった。子供達の中には心配そうにこちらを振りむく者もある。中には気を利かしてもうそろそろ足踏みをしかけるのもある。せっぱつまって、かけた号令が
 「止れーつ」
 子供達はやれやれというように止った。私もやれやれと思った。シャツの下が汗でぐっしょりになった。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第58号(1954(S29).4.1、真生活協会)より)
 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第21回 代用教員(5)-1
2025-07-15
挿絵
 
今回から、「代用教員」の第5回です。
第5回では、「小杉先生」の授業の様子について、いくつかのエピソードが描かれます。
これらは、著者、田村一二が京都で小学校の教師をしていた頃の実体験が元ネタなのでしょう。
 
 
 このクラスとは、その後非常に親密になって、私はその後も転々とあっちこっちのクラスの補欠にまわっていたが、彼等はよく私のところへ遊びにきた。何ケ月かたって、高等科生の遠足があった時、又担任が休んだために私が補欠にいった。彼等は歓声をあげて迎えてくれた。さて帰途、私の組は全体の先頭に立った。ところが、私の歩度は少し早すぎた。というのは、まだ教員としての経験がないので歩度の調節を知らなかったのである。
 だいぶ来てから、ひょいと振り返ってみると、うしろにしたがっているのは私の組だけで、あとの組はどこにも見えなかった。組の子供達は顔を真っ赤にして頭から湯気をたてていた。みな歯をくいしばって来たらしい。私は危く涙がこぼれそうになった程感激した。学校に帰ってから、学年主任の先生からひどく叱られたのは勿論である。しかし、このことで私は教員生活の楽しさと難しさを知ったのである。
 ある朝、出勤すると直ぐ教頭がやって来た。
 「小杉君、すみませんが、今朝急に○○先生が休んで、又一つ補欠をたのみます」
 「はいどこですか」
 「三年は組で、修身です」
 「修身?苦手だなあ」
 「なあに読ませて話してやればよいので何んでもないですよ」
 「そうですか。まあやってみましょう」
 教科書を貰って一時間目の修身に出かけた。教室にはいると、小さいのが六十人ばかりもぎっしりつまってわいわい騒いでいた。私の姿をみると、もの珍しそうな顔をしてだんだん静かになった。
 「修身をやります。本を出しなさい」
というと子供達は机のふたをがたがたといわせて大あわてにあわてて本を出すと、大急ぎに両手を膝において口を結んだ顔をつんと上向けて半身になった。そして自分より遅い子を横目でじろじろ眺めていた。いつもそういう工合に本を出す習慣になっているようだ。早いのはいいけど、どうもあの目つきは気にくわないと思った。
 「第〇課、読んでもらおうかな 読める人」
といい終わらないうちに、はいはいはいと、いやはや賑やかなこと。中には、立上っているのや、とび上って手を挙げているのまである。
 一人読ませると、又はいはいはいである。二三人読ませた内容は、西南戦争の時、西郷軍にかこまれた熊本城から鍋ずみを顔にぬって、谷村計介が脱出して城を救おうという物語である。こんなことわかりきったことだと思った。
 「君たち、この話知ってるかい」
ときいてみると、全部が手をあげて知ってますという。知っているなら別に話すこともいるまいと思った。するとこの課はもう何もすることはない。はてどうしようかなと思ったが、よい考えも浮かばない。ええい、次の課へいってやれ。
 「では次の課へゆきます、はい、読める人」
 はいはいはい、又殆どが手を挙げる。子供達はもうこんなうすっぺらい修身の本くらい家ですっかり読んでしまっているらしい。二、三人に読ませてきいてみたら、みな異口同音にこんな話はもう知っているという。こころみに感想をきいてみたが、みんな大体において出来ている。
 仕方がないので次の課に遊んだ。こうして五課いったところで終りの鐘がなった。流石に子供達もあきれたらしく、四課目位からはおずおずと手を挙げるようになった。五課目になると、お互いに顔見合せながら手を挙げていた。
 職員室に帰って来ると、丁度教頭がいたので、教科書を返しにいった。
 「や、御苦労さんでした。どうでした。」
 「はあ、ここと、ここと、ここと、ここと、それから、ここと合計五課いきました」
 その時、教頭は「えつ」というよりも「げえつ」というのに近い声を出して、私の顔を見つめて目をパチパチさせた。私はさっさと自分の席に帰って来た。
 その次の時間にはもう出目金先生が、
 「あんた、修身を一時間に五課もいったんやって?…」
といって私の顔をまじまじとみた。何と職員室という所は話が早く伝わるところであろうかと私は感心した。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第58号(1954(S29).4.1、真生活協会)より)
 
 
どんぐりメダル、続報
2025-07-02

 今年の1月1日。この「SEEDS Column」で紹介したどんぐりメダルの続報です。
 1月の記事では、最初に「糸賀一雄年譜・著作目録」の発行や改訂の経過を紹介し、その中で糸賀一雄が授与されたであろうどんぐりメダルが一碧文庫に収蔵されていて、それが第4号らしいということ。
 しかし、年譜・著作目録には、近江学園創立5周年にどんぐりメダルを制定して、第1号を園児に贈ったという記載はあるものの、以後どうなったかについては記されていないこと。
 などなどをお伝えしました。
 そして「4」と刻印されたこのメダルは果たして糸賀のものだろうか?
 第1号授与者は園児だったけれども、大人ももらえたのだろうか?
 資料の面でも、記録の面でも、そして実物にしても謎多きシロモノだねぇ…と言って終わっていました。
 今回は、その謎解き編になります。
 
 答えは、いつものことながら、灯台下暗し、「南郷」に載っていました。
 前号までで、戦前の田村が書いた著作物の紹介が一段落した筆者としては、さて?次に何をしようかと考えていました。
 そんなとき、ふと「そういえば、南郷時代の近江学園職員の同人誌として、このコラムでもたびたび取り上げてはいる「南郷」だけれども、それはいつも別の資料なりを紹介するときの引用資料として部分的に紹介していただけで、そのものは、まだだったなぁと思い到ったのでした。
 それなら一度「南郷」特集をやってみようかということで、いろいろとデータを見返しているうち、第18号にどんぐりメダルについて記されているのを見つけてしまったわけです。
 「そうか!『どこかでみたような』と感じていたのは、これのことだったのかな?」
 「まだまだ読み込みが足らないなぁ」と反省しつつも、「やろう」と決めた「南郷」特集は、またもや後回しになって、今号はこのネタでいこうとなった次第です。
 
さて、それでは本題とまいりましょう。「南郷」第18号です。
発行は1957(昭32)年11月15日となっています。
発行履歴を見てみると、この頃の「南郷」は1年に1回、年刊ペースで発行されていて、第15号(1954(昭29)年)から第19号(1958(昭和33)年)までは近江学園の創立記念日(11月15日)に合わせて発行されています。
そして巻末のページには必ず学園日誌の記事があって、前号の発行日、つまり前の年の創立記念日から以降の学園の出来事が綴られています。
第18号が発行された1957(昭32)年は学園創立10周年の次の年。
田村一二が執筆した学園日誌は、目次には「園内日記」と記され、本文は「近況報告」と題されています。
書き出しからいきなりどんぐりメダルのことが出てきます。
 
「近況報告」 木 人
 昭和三十一年十一月十五日の十周年記念日には、一碧園長、田村木人、荒川妙人の三人が学園最高の名誉章、ドングリメタルを貰った。これは、めったやたらに出すヤスモンメタルではなく、学園全体がその表彰を妥当と認め、園長がよろしいと許したものでないと貰えない。だから学園創設以来まだ三人しか貰っていない。即ち第一号は石田文孝、第二号は末政功司、第三号は小林武夫。そしてこんどの三人が、第四、五、六号を貰ったわけである。全部ナンバー入りの、中央にポカリとどんぐりが一つ浮彫りされている、銀メタルである。
 これに白いリボンをつけて、文化勲章のように首から下げて貰ったのである。あれあ、本物のドングリの実の方がおもしろかったという声もあったが、どうもまだそこまで子供になり切れなかった。
 それから、この十周年記念日に……(以下省略)
 
                (本文は「南郷」第18号、32~38ページに掲載)
 
 1月に紹介したあのどんぐりメダルは、やはり糸賀本人が貰ったものだったのですね。そして刻印された数字の「4」は、やはり第4号という意味だった。
 さらに判明したのは、続く第5号は田村に、第6号は荒川妙人という人に授与されたということ。
 荒川とは、近江学園創設の時から学園の事務方を一手に引き受け、長年、学園の会計や事務を支えておられた荒川友義氏のことでしょう。「妙人」とは、一碧、木人と同じく俳号もしくはペンネームだと思います。
 つまりは、学園創立10周年を記念して学園のトップ3に授与されたということでしょう。
 ちなみに「糸賀一雄年譜・著作目録」には、29ページの1957(昭31)年の年譜欄に
    「11(月) 創立10周年を記念して「どんぐり章」を制定、第1回授与」
 となっています。この「どんぐり章」が、すなわちどんぐりメダルのことなのですね。
 
 どんぐりメダル第1号から第3号の授与者名もわかりますね。
 第1号は、1月にも紹介した石田さん。創立5周年の際にどんぐりメダルが制定されましたがその第1号だったわけですね。
 続く第2号、第3号も調べてみないとわからないですが、おそらく園児ではないかと思いますが、ここで新たな謎が浮かんできました。
 2号、3号の授与者が園児であるかどうかもありますが、いつ授与されたのでしょう?
 創立10周年で4号授与ですから、それまでの5年間うちのどこかでしょうが、そして授与された理由は何だったのでしょうね。
 また、それまでどんぐりメダルはあったのに、10周年に際して新たに「どんぐり章」として制定したのは、どうしてでしょう?
 もしかしたら、それまで子どもや園児対象だったものを「どんぐり章」とすることで、「大人」も貰えるようにしたのでしょうか?
 そして、第7号以降の授与はあったのでしょうか?
 
 またもや、いろいろな疑問がわいてきて、オタク道まっしぐらの様相になってきました。
 ナゾがナゾ呼ぶミステリー。続報、乞うご期待。
 
ドングリメダル、続報 資料写真

 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第20回 代用教員(4)-2
2025-06-15
 代用教員である私には担任学級はなく、誰か欠勤した先生があると、その学級へ補欠として教えに行くのが仕事であった。だから、欠勤の先生のない日には職員室でぽかんと椅子に腰を下ろしているということになる。そこで、よく給仕と間違えられた。
 十八才の若造で、頭は丸刈り、紺がすりに小倉の袴、入口をはいったところの机で、その上には何にも載っていないとなると、給仕と間違える方があたり前である。
 外来者で私を給仕と間違える人があっても、これは致し方がないが、内部の者で、私の身分をはっきりと知っていて、ぶべつした者があったので、遂に一寸痩せ腕を振った事件があった。
  高等科二年の先生が休んだので私はその補欠に出ることになった。
始業の鐘がなったので私は直ぐ職員室を出て、教えられた高等科二年の教室へ急いだ。生徒達もぞろぞろと教室へはいっていた。私より体の大きいのが沢山いる。
 階段を上っていると、その連中が私をかこむように近づいて来て、そのうちの一人がどんと私にぶつかって来た。はじめは誤ってぶつかって来たのかなと思ったが、そうではなかった。再び別の奴が肩をぐんとぶちあてて来た。私はよろよろとした。
 「へえ、これでも先生か」
 「ひょろひょろやんけえ」
 「洋服ももっとらへん」
 「こんなもん先生やあるけえ」
 「給仕じゃ」
 「給仕々々」
 「給仕が教えるなて生意気やぞ」
 こういった悪罵がとんで来た。そしてもう一人どんとぶつかって来た。
 私は全身がかっと熱くなり、次の瞬間、しーんと青ざめた冷たさがとってかわったのを感じた。私は黙って教室にはいって。
 「今、階段で僕にぶつかって来たやつ、これでも先生かとか、給仕だとかいった奴、手をあげろ」
 私は教壇から睨みまわした。彼等は互いに顔を見合せてにやりとしたり、窓の外を見てうそぶくようなかっこうをしていた。
 「外へ出ろッ」
 はずみというか、調子がよかったのであろうか、はつとみんな腰をうかすとぞろぞろと出て来た。
 「なんや、なんや」
 「外へ出て、どないしよういうね」
 「行ったれ、行ったれ」
 そんな声が背後からがやがや聞えたが、それはもう先程の悪罵程の強さはなかった。私は後ろを振り向きもせず、どんどん階段を下りていった。運動場へ出ると、はだしのまゝ砂場へ進んだ。彼等はやや困惑したような顔をしてぞろぞろとついて来た。
 「大きい奴から順に一列にならべッ」
 私の大喝にふくれっつらをしながらもごそごそと一列にならんだ。
 「一番、前へ出ろッ」
 私よりずっと体の大きい一番のやつが、なんでいというように肩をそびやかして一歩前へ出た。
 「たッ」私の足払いがきれいにはいった。ずしんと地ひびきを打って相手はぶっ倒れた。そいつには目もくれず、
 「次ッ」ちょっと尻ごみをする二番を、つつと進むと胸ぐらをとってぐいとひいた。ひょろひょろと前のめり出てくるところを「えいッ」
 腰投げでぶっとばした。丁度一番が立上ったその足もとへどしんと二番がころげてへたばった。
 もうこうなると完全にこちらの優勢である。残りの連中は全く気をのまれてただ蒼くなってぼんやりしたまま、次々と、私の足払いと腰投げにぶっ倒されていった。途中二三人少し抵抗した者もいたが、勢にのった私には物の数でもなかった。
 それでも全部で三十人余り投げとばした時には、流石に、肩も腹も大きな波を打っていた。
 「教室にはいれッ」
 彼等はしおしおとうなだれて階段を上っていった。気がつくと袴のすそが少し裂け、着物の左の袖が半分ちぎれてぶら下がっていた。私は腕まくりをして教室へはいっていった。
 「お前達は、服装だとか容貌だとか外形で人を判断するとあやまるぞッ」
 私の一喝にみんな神妙な顔をして頭を下げた。
 「わかったかッ」
 「はい」大部分の子供が返事をした。
 「よし、勉強だ、本を出せ」
 丁度国語の時間であったが、国語なら、少々はやれる、どんどん質問々々で攻めたてゝ、ぎゅうぎゅういわせてやった。授業終りの鐘がなって、本をしまわせると、級長が大きな声で
 「起立、礼ッ」
と号令をかけた。軽く答礼をすると、私はさっと教室を出た。後から連中もぞろぞろ出た来たが、くすッともいう者はなかった。職員室に帰ると、出目金先生に、袖のほころびをなおしてもらった。私はただ子供達と一寸、角力をとったんだといっておいた。
 放課後まっ先に足払いでぶっ倒された一番が職員室にはいって来た。私の机の横に立つと直立不動の姿勢をとった。
 「何だ」
 「掃除、出来ましたッ」
 「後の始末をちゃんとしたか」
 「はいッ」
 「よし、帰れ」
 「はッ」彼は兵隊のようなおじぎをして出ていった。その辺にいた先生方があきれたような顔で、彼と私をみくらべた。
 「へえー、あきれた、あの子がねえ」
 出目金先生が例の近眼鏡をくっつけて、しげしげと私の顔をみた。
 「小杉先生、一体どうしたの」「何がですか」
 「何がって、あの子が、あんな神妙な態度で来るなんて、今までに一ぺんもなかったのよ」
 「へえ、そうですか」
 「えらい落着いてんのね、あんた、ね、何かあったんでしょ」
 「いや、別に」
 「へえー、不思議だわ」
 翌朝、出目金先生は又おどろいた。それは、朝礼の時に、私が彼等の組の前に立つと、連中が一せいに直立不動の姿勢をとったからである。放課後、彼女は職員室にはいって来て隣に坐るなり
 「小杉先生、あんた、やったのね」とささやくようにいった。私は黙って笑った。彼女は机の引出しから飴玉の袋を出すと、黙って私の前に置いた。
 
         (月刊『SANA』(サーナ)第57号(1954(S29).3.1、真生活協会)より)
 
 
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