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SEEDS column シーズ・コラム

 

更新は1日と15日

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田村一二没後30年記念事業『田村一二の思想と実践を今に』を開催しました
2025-12-01
 11月16日(日)の午後、湖南市甲西文化ホールにて田村一二没後30年記念事業「田村一二の思想と実践を今に」を開催しました。
 心地よい秋晴れの一日、ほくほくと暖かく運営スタッフの中には屋外でお昼弁当を食べる人もいるほどでした。
 そんな行楽日和の、しかも何かと行事ごとが多いこの時節にもかかわらず、選んでこの催しにご来場いただきました皆様には、本当にありがとうございました。
 田村一二先生と親交のあった方、一麦寮の旧職員の方、福祉施設関係者の方、障害児・者福祉・教育の研究者の方などなど幅広い層の皆様がお集まりくださいました。
 前半は導入として、青山塾で田村一二先生の講義をお願いしている京都女子大学教授の玉村公二彦さんに田村先生の生涯を振り返っていただきました。戦前の教師時代から戦後の一麦寮までを中心に貴重な写真や資料のスライド、映像を披露していただき、その時々の田村先生の活動をお話しいただきました。
 特に田村先生のラジオ出演時の音声は、民謡を歌う場面もあり、懐かしく思い出した方、初めて聞く方様々だったと思いますが、貴重な経験だったと思います。
 後半は日本社会事業大学准教授の冨永健太郎さん(青山塾では池田太郎先生担当)を進行役に、元一麦寮寮長の吉永太市先生、法人顧問で田村先生の次男でもある田村俊樹さん、そしてひきつづき玉村さんにも登壇いただき、トークセッションをしていただきました。
 93歳とご高齢ながらお元気な吉永先生には、田村先生との出会いや一麦寮での実践の姿、また田村先生から受けた教えについて、田村さんからは石山学園、近江学園、びわこ学園で幼少期から青年期まで家族として暮らし、育った経験から現在の障害者入所施設の在り方に対する思いを、そして玉村さんからは障害児者福祉・教育史の研究者としての田村一二論を語っていただきました。
 手前ミソなお話ではありますが、実はこの日を迎えるまでには都合7回の実行委員会をもち、別に旧職員の同窓会やミニ&プレ対談をやったりしながら、四人の登壇者には打ち合わせを重ねていただきました。(本当にお疲れさまでした。)
 その甲斐あって田村一二の思想と実践が決して過去の遺物などではなく、今へとつながり、現在の実践の場で働く人の精神的な指針になり得ることが実感していただける催しになったのではないかと思います。こうした動きがより拡がっていけばと願っています。
 
田村一二没後30年記念事業第2弾。資料展開催中
 さて、ここでお知らせを一つ
 田村一二没後30年記念事業は、これで終わりではありません。
 第2弾として資料展『田村一二と石山学園・近江学園・一麦寮』を開催しています。
 会場は、田村先生が実際にお住まいになっていたお家です。(湖南市東寺三丁目3-7)
 永らく無住になっていましたが、この資料展のために少し改装もして展示会場となっています。
 水曜日~金曜日(午前10時から午後5時30分)、土曜日(午前10時から午後4時)に開館しています。日曜、月曜、火曜はお休みです。期間は来年3月14日(土)まで。
 年末年始(12月28日(日)~1月6日(火))は休館です。
 
 石山学園の昭和20年度日誌や田村先生が著書「茗荷村見聞記」の構想意図を綴った次男田村俊樹さん宛の直筆の手紙など初公開の資料も数点ある資料展です。
 また田村先生の筆になる絵画や一麦利用者の作品も展示しています。
 何より先生が実際に絵を描いておられたアトリエをご覧いただくことができます。
 ご興味、お時間のある方はぜひお立ち寄りください。
 
 どうしても開館日に都合が合わないという方は、ご相談に応じますのでお気軽にご連絡ください。
 (社会福祉法人大木会 一麦 事務室(℡0748-77-3029))
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第28回 本科正教員(1)-3
2025-11-15
 今度来た学校は、以前のにくらべると半分位の小さい学校だが、きれいにこじんまりとしていた。運動場も前の学校の四分の一位で、ぐるりがすっかり校舎にかこまれていて、どちらをむいてもガラス窓ばかり、まるで金魚鉢の中へはいったような気がした。それで、新任式の時にこんなことをいってしまった。
 「この学校の運動場はぐるりがガラスでかこまれて、まるで金魚鉢のようですね、その中で遊んでいるみなさんは金魚や鮒のように見えます。女の子は金魚で男の子は鮒ですか」
 子供達が顔見合せてにやにやと笑った。
 「でも、私は暴れん坊ですから、ひょっとすると、金魚鉢をこわすかもしれません、こわすと、校長先生に叱られますか」
 こゝまでいうと子供達がうわーと云って校長の方を見た。これはよほどふだんからガラスをこわすなといわれており、こわれた時はひどくしかられるんだなと感じた。壇上から校長の方を見ると、なるほど、澁い顔をしていた。
 その後、私は子供達と運動場でボール遊びをやっていて、二回にわたって三枚ばかりガラスをこわした。先生がガラスをこわしたので、その度にもう子供達は、喜んでしまって、ころげまわるようにして笑った。
 その度に又、校長が校長室の窓を開けて顔を出したが私がこわしたと知ると、苦い顔をして何もいわず窓をしめてしまった。
 教頭にあやまりに行ったら、
 「先生からそういう悪い手本を見せて貰っては困りますねえ」と云って、じろりと白い目でにらんだ。
 「すみません」
と頭を下げたが、好かねえ野郎だと思った。自分の机に帰ってくると向いにいる同学年である三年担任の島田君が、僕の顔をみてにやにやと笑った。彼は私より一つ年上で血色のいゝ丸顔をいつもにこにこさせている陽気な青年で、気持は呑気でおっとりしていた。
 私とは直ぐ仲よしになった。
 彼はあの挨拶が気に入った。久し振りですっとしたといった。
 「小杉君だんだん面白くなるぜ」
 「何が」
 「今にわかるよ、とに角、君はやるから面白いよ」
 私はさっぱり訳がわからなかった。その日の放課後に島田に誘われてコーヒをのみに行った。島田は私の他にもう一人先生をつれて来ていた。これが高等科女子担任の法本であつた。彼は私より三つ程年上だがみたところ十才も上のように老けてみえた。日蓮宗の寺の息子で、頭も丸刈り、顔もそういえば俗人ばなれをしていたが、利かぬ気の青年らしかった。しゃべっているのは殆ど島田で、法本の方は大体に於て黙っていた。しかし気持は両方とも全く通じでいるようであった。
 こゝできいたのが、校長と教頭を中心とする一派と、法本、島田その他二三人でかためている反対派との対立である。その他の先生方は、表面は校長一派で腹の中では法本一派に好意を持っている連中だということであった。
 その校長派の背後には学務委員の沼田というのがいて、これが学校内のボスで、校長は全く沼田のかいらいに過ぎないとか、教頭が沼田のきんちゃくで、むしろ教頭の方が校長より人間が悪いとか、職員同志の、或は区内のあつれき、その他いろいろ複雑な事情がこんがらがっているようであったが、新米の私にはよくのみこめなかった。
 たゞ、校長や、教頭が、余りいい人間ではなさそうだ。そして、この沼田や法本は、いゝ人間のようだということはわかった。従って、今後、校長達のやり方を見て、それによって法本の方に味方をしてやろうと思った。
とに角、私がガラスを割ってから、運動場の周囲に金網がはられ、子供達は遠慮気兼ねなくボール遊びが出来るようになった。
 島田が私の肩をたゝいて、
 「小杉、君のてがらだぞ。」
 
  (月刊『SANA』(サーナ)第60号(1954(S29).6.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第27回 本科正教員(1)-2
2025-11-01
 今回も屑屋先生をお楽しみください。
 

 
 本科正教員になると同時に、私は転任させられた。今度は市の中央部の学校である。
 簡単な送別式だけで、送別会もない。挨拶をすませて門のところまでくると、焼芋を分けてたべた連中が数人待っていた。相変らず、縄帯にはだしの子もいる。ひとりごう然とうそぶいていた子もいる。
 私は立止って、黙って彼等の顔を見渡した。彼等も黙ってニヤーッと笑った。私は急に彼等がいとしくなった
 「こらッ、お前たち、焼芋の味を忘れるな」
 「うん」
と、皆が一せいにうなずいた。
 「どんなことがあっても、へたばるなよ、わかったか」
 「うん」と又、皆一せいにうなずいた。
 「よし」
 私は拳固をかためて、一人づゝ彼等の頭をコツンコツンとたゝいて廻った。
 彼等は真白な歯をみせて、実にうれしそうにニャーッと笑った。私は涙が出そうになったので、そのまゝ振り返りもせず、どんどんと校門を出ていってしまった。
 
 本科正教員になると同時に、月給も七十五円にはね上った。
 それを機会に〇市の裏長屋にいる両親を引取って臨済宗の禅寺D寺のすぐ横に小さな家を一軒かりてはいった。
 久しぶりで、奉公にいっている兄も来て、親子四人が水入らずで、夕飯を共にした。
 冷奴で盃をかたむけた父が、僅かに五六杯で真赤になった。昔はビールなど徹夜でのんで一ダース位のビンをならべた人であったが全く別人のように弱くなった。
 酒も弱くなったが、気も弱くなって、兄や私を眺め、
 「俺が意気地がないばっかりに、お前達に苦労をかけてすまんなあ」と云って目をしばたゝく。
 「お父さん、何いっているんだよ。これから大いにやろうという今晩はめでたい出発の日だぜ」
と、私がわざと元気よくいうと、
 「うむ、うむ」
と嬉しそうにうなづく。
 「いくらせまくっても、こうして親子が一しょに暮せるんだから私しゃ、とても嬉しいよ。」
と涙もろい母は袖を目にあてる。父も母も嬉しいんだなぁと思うと、私も胸が熱くなった。
 一軒家を持つと月給だけでは少しつらいので、知人の紹介で家庭教師を一つ世話して貰った。中学の入学試験準備というのでなくて、学校の成績の悪い子、いわゆる出来ん坊だが来てくれるかという遠慮がちな話であった。間接な話であったが、私はその子が哀れに思えて即座に行くことを承知した。
 その晩、紹介状を持って、その家をたづねた。古めかしいつくりの旧家であった。家の中は昼でも電灯がつけてあった。
 その子の父も母も祖母も出て来て、実に遠慮勝に頼むということをくどくどといった。
 こういう出来の悪い子は家庭教師もなかなか来てくれないということが、この人達の話でわかった。やはり可なり出来る子を教えて、中学に入れて、御礼をたんまり貰って、そしてそれが又自分の経歴になるということらしい。
 気の弱そうな家族の人たちの同じような話をながながときき、さて帰ろうとして、立上つたとたんに、すとんと仰向けにひっくり返ってしまった。しびれが切れたのである。
 家族の人達は、見てはならぬものを見たように、はっとして、皆が目を伏せた。
 「はっはゝゝゝゝ」
 と私が笑ったものだから、やっと気の毒そうに目をあげて私を観た。私は苦笑いをしながら、しきりに足をさすった。主人は挨拶に困って、
 「どうも、どうも」
ばっかりくりかえしていた。
 翌日、教えに行くと、ちゃんと、椅子とテーブルが畳の上にそなえてあったのには恐縮した。
 
 その後間もなく、ある人の紹介で、D寺の老師と近づきになった。老師は八十三才と聞いたが、かくしゃくとしていた。どういうわけか私が気に入って、小杉君、小杉君とかわいがってくれた。
 私も寺のふんいきが好きで、よく遊びに出かけた。日曜日などは、大てい、例の小倉の袴をはいて寺へ遊びに行った。そして老師のたてる茶をよばれた。
 「どうだ、小杉君、これは石州流だが、教えてやろうか。」
 「真っ平です」
 「にべもない奴じゃな。はっはゝゝゝゝ」
 老師は歯の抜けた口を開けて笑った。当時の私は茶など習う気は毛頭なかったが、今頃になって、あの時に習っておけばよかった、惜しいことをしたと思っている。
 そのかわり、老師の作務はよく手伝った。
 「小杉君、庭の手入れじゃ」
 「かしこまりました」
 私はくるくると着物をぬぐとシャツにさる又、はだしといういでたちでしたがう、ならんで庭の草を抜いているが、老師も無言私も無言、たゞせっせと草を抜く。この間別に何を教えられたというでなく、又何をきいたというでなく、茶をよばれたり、作務を手伝ったりして、三年間老師のもとへ通った。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第60号(1954(S29).6.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第26回 本科正教員(1)-1
2025-10-15
挿絵
 
 さて、今回から「本科正教員」の章に入ります。
 現在でいうと非常勤講師から、いよいよ教諭に任用されたことになります。当時は、教諭のことを訓導(くんどう)と呼んでいました。
 この小説を田村の自伝的小説と捉えるなら、1930(昭和5)年、京都市植柳尋常高等小学校にいた頃のお話ということになります。
 滋野尋常小学校で特別学級の担任になるのは、この約3年後となります。
 
 
 養成所の方の夜学は大体に於て、三分の一は居眠りをしていたが、どうやら卒業も間近に迫って来た。
 その頃になると、研究授業が廻ってくる。これは、なんでも好きな科目を選んで、それで公開授業をして、養成所の先生方や同期生で近くの学校の連中がやって来て参観して、後で批評会をやるという段取である。私の学校にもその通知が来た。私は校長室に呼ばれた。
 「小杉君、君は、今度の研究授業に何をやる積りかね」
 「はあ、図画をやろうかと考えていますが」
 「図画?」
 校長は苦り切った顔をした。
 「図画なんちゅうものはつまらん、理科をやりたまえ理科を」
 「理科ですか、でもいろんな実験道具がそろっていませんよ」
 「道具なんか買えばよい、いくらでも買いなさい。」
 「買ってよろしいか」
 「あゝ、よろしい。貧弱な授業をしては〇校の名折れじゃ、この際、思い切って実験道具を揃え給え」
 占めた。全くありがたいことになったものだ。今まで若い職員達がいつもこぼしていたのは、理科の実験道具がないこと、しかも、なかなかそれが買ってもらえないことであった。
 実は、今度の研究授業を機会に理科の実験道具を少しでも揃える方法はないものかと、おりおり密議をこらして来たので、実のところ、理科はあまり自信がないのだが、そいつをやらないと道具が買ってもらえないから、理科をやることにしていたのだ。しかし、本当は図画をやりたいと思っていたので、校長にきかれた時は思わず、本心を言ってしまったわけだ。ところが、それが校長の図画ぎらいを刺戟して、反動的に校長の好きな理科に力こぶを入れさせてしまった。そして、どんどん道具は買い給えと来たのだから、これは全くわれわれの思う壺であった。
 若い連中は喜んで、私をたすけてくれた。授業は「水素」で、発生させて爆発させる実験をやることになった。みんな実験道具をどんどん取りよせて揃えてくれた。
 この際とばかり、「水素」に便乗して他の実験道具まで買いこんだりした。
 いよいよ晴の「研究授業」当日となった。
 理科教室の広い教卓の上には、実験装置が、整然とおかれている。みな、真新しいやつばかりだ。子供達は度肝をぬかれてぽかんとしている。
 覗学、覗学委員、校長連中、同期生たち、うちの職員たちがぞろぞろと四十人近くもはいってきた。参観に馴れない場末の学校の子供達はきよろきよろとしておちつかないことおびただしい。
 いや、実はこちらも先程から足下の教壇がどこかへいってしまって、まるで雲の上にのっているような気持なのである。
 下っ腹にうんと力を入れて――そのために妙な浪花節めいた声になったが――授業をすすめていった。
 いよいよ亜鉛に稀硫酸をそゝぎこんだ。水素がプクプクと発生しはじめた。こちらのガラス管の先にゴム風船をもっていったが一向にふくれない。昨日、下実験をやったときには、たしかに、ふくれたのだが。私はあわてた。ただ実験が、失敗したというだけではない。相手は水素である。爆発したら事だ。子供達がけがをしたという新聞記事を読んだことを思い出した。腋の下にたらたらと汗が流れて来た。いろいろと機械をいじってみるがどうしても外へ水素が出て来ない。教室中が無気味にしーんとして来た。
 もう駄目だ。子供達に万一のことがあってはいけない。私は教壇の上から、後の方にならんでいる参観者達によびかけた。
 「どなたか、恐れ入りますが、この故障をなおして下さる方はありませんか」
 理科の指導委員が悲壮な顔をして教壇にかけ上がって来た。しばらくして、しゅうと水素が出て来て、風船がプウーとふくれはじめた。参観者の溜息と子供の歓声が一度に起こった。
 水素でふくれた風船は、いくつもいくつも舞い上がって天井にくつついてゆれていた。授業の最後に、長い竹の先にローソクをつけて、風船を焼いた。風船はポカンと爆発音をたてゝけしとんだ。子供達は大喜びでポカンポカンと割っていった。
 後の批評会では、さんざんに叩かれたのと、ほめられたのとが半々で、まるで水と湯を同時にぶっかけられたようで、妙ちきりんな気持になつた。
叩かれたのは、大体その場になってガスが出んというようなことではいかんではないか、もっと事前準備を入念にしておくべきだという意見。至極もっともで一言もない。
 ほめられたのは、あの場合、自分の恥も忘れて、子供の安全のために、教壇から救いを求めた素直さはなかなかよいというのである。
 研究授業も、学校に実験道具をいろいろ増したという功績だけを残してすんだ。
 一年半の代用教員時代もすんで、養成所の卒業式が来た。この卒業式の後で本科正教員の免許状が貰えるのである。
 式は、入学試験のあった女学校の講堂をかりて行われた。
 式場にはいる前に、私が水道で頭をぬらしていると、岡崎の男が近づいて来た。
 「小杉、何しとんな」
 「毛をぬらしているんだよ」
 「毛をぬらして、どうするんだ」
 私は黙つてポケットから櫛を出して、そばの窓ガラスを鏡に髪をなでつけた。水でぬれた毛はつやつやとしておとなしく寝てしまった。これでのばしはじめてから四ケ月位、油をつけないので、いつもはばさばさ、今日は一生一度の卒業式なので、せめても水をつけてばさばさの毛をねさせておこうというわけである。
 「これが本当の水油さ」
 私が笑うと、彼もにやりとしながら、
 「相変らずお前の貧乏は徹底しとるのう」
と感心したようにいう。
 「願わくば、式のすむまでこの水がかわかざることを」
 私はなるべく頭を動かさないようにそろそろと式場にはいった。式の様子は一切忘れて覚えがないが、たゞ頭髪の中から、しずくがつつうつつうと背中や胸へ流れこむ、そのこそばゆさ、気持の悪さ、しかも手拭を出して式の最中に拭くわけにもいかず、これには参った。
 そちらへ気がうばわれて式のことは何にも覚えなかったのかも知れない。
 本科正教員の免許状を貰って、月給が上ったら、まっ先に、ポマードを買ってやるぞと、所長の長たらしい式辞をききながら、わが頭にいゝきかせていた。。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第60号(1954(S29).6.1、真生活協会)より)
 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第25回 代用教員(6)-2
2025-10-01
 またもや筆者都合により「屑屋先生」を繰り上げ掲載します。
 ここのところ自転車操業的にコラムをあげてきましたが、いよいよそれもままならなくなってきました。
 というのも、このホームページにも案内掲載しています「田村一二没後30年記念事業」の開催日が迫ってきて、いろいろと忙しくもなってきたからです。(言い訳ですが・・・)
 
 田村一二は、戦前の特別学級担任から始まり、石山学園、戦後になって近江学園、一麦寮、茗荷会運動とその時、その時代の第一線にあって先進的に障害児者教育を進め「ともに生き、ともに育つ」ことを自ら実践してきた人でした。
 筆者は田村本人に直接会ったことはありませんが、多くの著書や残された資料に触れることで、その考えや実践は決して古いものではなく、今だからこそそれぞれが心にとめて実践すべきことなのだと実感しています。
 没後30年を経て、その実践を振り返る中から今一度その思想を確かめあい、今日の施設福祉にどのように受け継ぎ、活かしていくのかをともに考える機会になればと思っています。
 多くの方々にご参加いただければと願っています。
 案内掲載ページ(http://ookikai.or.jp/publics/index/51/
 (筆者、初めての経験・・・Googleフォームで申込フォームを作りました。)
 
 ということで、そんな田村の未刊行小説「屑屋先生」です。
 

 
 日曜日というと大ていの勤人は朝寝坊をするものだが、私の場合は逆であった。但しそれは晴天の日に限って、雨の日は、午近くまでねて、朝食を節約した。天気がいいとわかるとがばとばかりはねおきて、そっと階下におり、洗濯場にいって、パンツとシャツをぬぎ、腰にはタオルを巻きつけ、その家の石鹸をこっそりと借用して――まだ誰も起きていない――手早く洗って、屋上の物干台にいってそれを干す、時々ねまきと靴下がその横にぶらさがる。大てい、それがかわくのを待っている間は洋服のズボンをぢかにはいて知らん顔をしているのだが、一度あたたかくて爽快で余り気持がよかったので、タオルを腰にないたまゝ、物干台にいたところを、通りから子供たちにみつけられた。
 子供たちはきゃっきゃっといって手をたたいて喜んだ。今さら逃げかくれしても仕方がないので、上から手を振ってやった。
 子供たちは、うわっと歓声をあげた。先生のこんな姿はよっぽど珍しかったらしい。
秋になった。紅葉狩をかねて職員旅行が催された。今度は私もつれていってもらうことになった。誰かが何かの都合で留守番をしたいといったのかもしれない。
 ところが、出発の前日、教頭からみんなにいろいろの注意があった、出発時間だとか、集合場所だとか、それは別に何でもない。
 その後で妙なことをいった。
 「さて最後に、一こと御注意申し上げますが、途中汽車の中でも、向うへついてからも、お互いに、絶対に先生といわないこと」
 それでは何と呼べばよいのかと思ったので、訊いてみた。
 「それでは、何と呼ぶのですか」
 皆がげらげら笑った。
 「何々さんと、名を呼べばよろしい」
 教頭はわざと笑わないで答えた。
 「では校長先生も、Uさんといえばいいのですか」
 皆がどっと笑った。
 「いや、校長先生は社長と呼ぶのです」
 「社長?」
 「そうです」
 「なぜそんな妙なことをするんですか」
 今度は皆笑わなかった。教頭は苦い顔をして答えなかった。
 「今度は何会社だ」
 と誰かが訊いた。
 「洗濯会社です」
 と、教頭は答えた。
 「洗濯会社? はゝゝゝ そいつは、いいや」
 「意味深だね」
 「そうすると、教頭さんは会計課長とでもよぶか」
等と口々にいった。教頭はにやにやと笑った。そして先生といったものは一円の罰金だといって注意を終った。
 結局、私の質問は無視されてしまった。私はどうしても腑におちないので、出目金さんにきいてみた。彼女はじゃまくさそうにいった。
 「そら、小杉先生、あんたなんかまだ若いから、わからへん」
 「だが、先生がお互いに先生と呼んでいけないというのは、何故だろう。それを知りたい。先生、あなたはそういうことに賛成なんですか」
 彼女は当惑したような表情を浮かべた。それからやゝ投げやりな口調でいった。
 「賛成なんかしてへんけど。しょうがないのやわ」
 「どうしてです」
 「あのね」
 彼女は首を振って、それから姉が弟にいいきかせるような口調で話した。
 「あのね、結局のところ、みんな先生とみられたくないの、汽車の中でお酒のんだりむこうでしようもない歌うとうたりしたいし、そうするには会社員に化けてした方が気が楽なのよ、先生がお酒のんだり、歌ったりしたらかっこうが悪いと思ってんのね」
 「なんだ、そんなことか、くだらない」
 「そうよ、だけど、人間の弱さでしょうね」
 出目金先生にしては珍しく深刻な顔をして溜息をついた。
 彼女の顔をみたら、それ以上もう聞けなかったから、私は黙ってしまったが、腹の中では先生だって人間だから酒ものもうし、歌もうたおうし、踊りもするだろう、それを一体、何故かくれてこそこそやろうとするのだろうか、どうしてそんなに卑屈なのだろう、堂々とやればいいではないか。それをやっぱり体裁をつくってうわべは聖人のようにみせたいところが、やはり出目金さんのいう人間の弱さかも知れない。しかし、自分の仕事を卑下しているような人に、本当に人を教育することができるだろうかと思った。
 
    (月刊『SANA』(サーナ)第59号(1954(S29).5.1、真生活協会)より)
 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第24回 代用教員(6)-1
2025-09-15
 
 
 今回から、「代用教員」の第6回です。
 第6回では、欠食児童と教員旅行についてのエピソードが出てきます。
 教員旅行のエピソードは、戦前、田村が京都日出新聞に連載していた「両刃斬撃(もろはざんげき)」の第1回「社員は旅行する」(1941(昭16)年2月9日掲載)として紹介されています。
 ちなみに京都日出新聞は、後に京都日日新聞と合併して現在の京都新聞になります。
 

 
 大体この学校は場末にあって、貧乏な子供がおおいようであった。現に私が補欠にいっている組にも、履物がなくてはだしで来ている子供が数人いた。中には垢だらけの着物に縄のおびという子もいた。そういう子供の中に今いったお弁当を持って来ないのが二三いる。どうして弁当持って来ないのだときくと、食べたくないとか、弁当なんかいらんと答える。そうかなあと思っていたが後で他の子供が教えてくれたところによると、「先生、あいつら、お弁当いらんてうそでっせ、貧乏で、弁当持って来られへんね」
 これをきいて私は俄然、彼等の欠食児童に同情した。同病相憐むといった気持である。
 しかし、驚いたのは、この何人かの欠食児童の中で一人だけ食事中いつも教室の自席で、ごう然と腕組をしている子供がいた事である。他の子供は大てい運動場の片隅でこそこそ遊んでいるか、教室にいてもうなだれたりしていたのに、この子供だけはびくともせずに胸をはっていた。豪い奴だと思った。
 いろいろ訊いてみると、やはり家が貧乏で弁当が持って来られないのだ。
 「つらいか」
 ときいてみると
 「つらいけど、一ぺんぐらい食わんでも死なへんわい」
 と昂然と答えた。
 「先生は貧乏で弁当の代りに焼芋を食ってるんだが、お前にわけてやったら食べるかい」
 「うん」
 案外あっさりとうなづいた。
 「おいで」
 彼は教卓のところへついて来た。新聞紙の上にいくつかの焼芋がころがっていた。彼はいきなり一番大きいのをむずとつかんだ。
 「待て」
 私は彼の手を握った。
 「それは僕が食う、体が大きいからな」
 彼は実に愉快そうに、にやりと笑うとそのいもをはなした。
 「先生、俺の他にも、弁当のないやつ、いるんやで」
 「よし、運動場のすみっこにいる連中、つれて来い」
 運動場へとんでいった彼はすぐ三人の子供をつれて来た
 「今日は俺とも四人や」
 「よーし」
 一番大きいのは私の分にとっておいて、小さいいもを子供四人に分けてやった。子供達は嬉しそうに自席にかえると、そろそろといもの皮をむきはじめた。皮をむいた上等の焼いもなどぜいたくで、その頃はもっぱら皮のまゝ丸焼しか私の口にははいらなかった。
 私は教壇の上からそれをみながら、
 ――畜生、貧乏人のくせに、ぜいたくな奴だ――と思った。そこで、私はこれみよがしに皮のまゝ、むしゃむしゃと食べた。ところが彼等はていねいに皮をむき終ると、中の黄色い美しいいもはそっと横において、皮を一枚一枚たべはじめた。皮をすっかりたべ終ると、残してあった美しい皮のない芋をとりあげ、お互にうなずきあい、私の方をむいて、一寸乾盃する時のようなかっこうで、そのいもをさし上げてみせてから、さも、うまそうに、いとおしむように食べた。
 ――えゝい、いじらしい事をしやがる――
 私は眼が涙でかすんで、いもがのどにつかえてしまった。
 爾来、貧乏なる教師と子供らは、まず焼いもの皮をむいて先にたべてしまい、残る皮のない黄色く美わしい芋を、お互いにちょっとさしあげうなずき合って食べる習慣になった。
 月給日には、私は彼等欠食児童に一杯づつのうどんをおごってやった。勿論私もその日はうどんである。
 眼を輝かしてちゅうちゅうと賑やかな音をたてゝたべる彼等に他の弁当組の子供達が逆に圧倒されるかっこうになった。
 アルミの弁当を手にもったまゝ、うどんを高くはさみ上げて食べている子供の方をうらやましそうに見ている子供が出来て来た。
 中には休み時間に、
 「先生、僕もうどんたべたい、弁当持って来んさかい、うどんたべさしてんか」
 と単刀直入に申込んでくる子供もいた。どうもこれには参った。そこで、全体の子供に貧乏談議を一席やって実はやむを得ず、こういうことをやっているのだということを了解して貰った。その間中、あの腕を組んでごう然とうそぶいていた子や、いつもはしょんぼりしている縄おびの子らが、実に嬉しそうに、にやりにやりと笑いながら弁当組の子供達を見返っていた。
 
              (月刊『SANA』(サーナ)第59号(1954(S29).5.1、真生活協会)より)
 
無財の七施
2025-09-01

 
 ちょうど一年前になりますが昨年の9月、このコラムで糸賀一雄の講話集「愛と共感の教育」を紹介しました。
 覚えておいでですか?
 この本の中には糸賀の生涯最後の講義となった1968年9月17日の大津市で行われた滋賀県児童福祉施設等新任職員研修会での「施設における人間関係」と題された講演が収められています。
 本当はこれがメインの書物なのですが、この時はその他の講演で「おむつ交換の際に重度心身障害のある利用者が、少しでも支援者の助けにと腰を浮かせようとする動作にその保母さんが感動した」というエピソードを糸賀が好んで紹介し、利用者と支援者の共感の世界について語っているのを中心にお伝えをしました。
 今回は、その最後の講義の内容について「少しだけ」触れたいと思います。
 遠慮がちに「少しだけ」といったのは、大上段に「そもそもこの講義での糸賀思想とは・・・」とか「生涯最後となった講義で糸賀は・・・」とは到底筆者の力量では表現しきれないので、この講義の後半部分で糸賀が語った、ある言葉について紹介したいと思います。
 筆者はこの言葉に触れて、普段の生活の中でこのような心持ちで他の人と触れあえたらいいな、支援するものの振る舞いとして指針になるのではと感じたからです。
 その言葉とは「無財の七施」です。
 これは糸賀自身の言葉ではなく、仏教の「雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)」というお経の中に説かれている言葉です。
 インターネットで調べてみると日本の多くの宗派やお寺のホームページでこの言葉についての説明を見ることができました。「お布施」というと法事などでお寺さんに納める金品というイメージだけれども、そういった財物が無くてもできる七つの施し、行いがあるということが、おおむねどのサイトでも説かれていました。
 糸賀は、この日、講義のためにメモ書きしたレジュメの他に手持ち資料として「無財の七施」について手書きした原稿用紙五枚をわざわざ用意し、黒板に板書までして説明しました。
 糸賀はこの原稿の最後で、この「無財の七施」は、小手先の道具として使うものではなく、心から湧き出てくるような行いでなければならないと書いています。
 また、ギスギスした現代社会における人間関係の潤滑油ともなると言っています。
 「施設における人間関係」と題した講義の締めくくりに、わかりやすく心に残る言葉を受講者に送りたかったのかもしれませんね。
 
 翻刻したものを以下に挙げてみます。
 (一碧文庫には、その現物が保管されています。インターネットなどをみると、七施を「しちせ」と読んでいます。おそらくこれが正式な読み方でしょうが、糸賀は「ななせ」と言っています。)
 
 
         無財の七施(むざいのななせ)
 
 この言葉は、大蔵経の一部「雑宝蔵経」の中にある。仏教でいう慈悲の心を平明に表現している言葉とされている。金もなく地位もなく、寝たきりの病人でも、つぎの七つの施しができるというのである。
 
(1)眼施(げんぜ)
 やさしい眼ざしで周囲の人々の心を明るくする。人間の眼くらい、ある意味で複雑な色合いをうつし出すものはない。「目は心の鏡」ともいう。その眼にたたえられたなごやかな光は、どんなにか人々をなぐさめ、はげますことか。特に相手が過失をおかした時は。
 
(2)和顔悦色施(わげんえつじきせ)
 目のつぎは笑顔である。中老年の笑顔は、まわりにはもちろん、何よりも本人にとっての救いである。
 
(3)言辞施(げんじせ)
 やさしい言葉をかけること
 
(4)身施(しんせ)
 身体を使って、人のため、世のためお役に立つこと。現代語で勤労奉仕などというが、奉仕は、ほんらいほどこしである。
 
(5)心施(しんせ)
 感謝の言葉で、まわりの人々の心を明るくする。現代人には「ありがとう」という言葉がスラスラでてこない。ハニカミもあるかもしれぬが。アリガトウ、たったこの五字の音声が、この世のなかをどんなにか住みよくすることか。
 
(6)牀座施(しょうざせ)
 場所、席をゆづり合う。そのことによって人々の心をやわらげる。交通ラッシュだ、やれ席取り競争だ、から、あるいは権力の座の争いにいたるまで、現代において何と、牀座施の必要の痛感されることか。
 
(7)房舎施(ぼうじゃせ)
 乞うもの、たずねるものがあれば、一宿一飯のほどこしをあたえること。
 
— 以上が「無財の七施」である。大切なことは、七施は生活の技術ではない。もとこれ真心より発するものでなければならぬ。
 現代は人間の関係がギスギスしすぎている。とすれば、この七つは、現代社会の七つの潤滑油といえないだろうか。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第23回 代用教員(5)-3
2025-08-17
 四月の終りに生れてはじめての月給三十五円を貰った。事務室で事務員から封筒に入れて貰ったが何だか、遊んでいてこんなものを貰ってまことに相済まんという気が強く起った。
 「はつ まことに こんなに沢山頂いて、相すみません」
と私は思わず頭を下げて礼をいってしまった。瞬間、相手の事務員はいやな顔をした。皮肉をいわれたと思ったらしい。じろりと私の顔を見上げたが、私が至極真面目な顔をしているものだから、むこうも驚いたらしい。そして、まことに恐縮したように、
 「いや、どうも」といいって頭を下げた。その辺にいた連中がみなにやにやと笑った。
 私はその封筒をふところに捻じこんですぐ洋服屋へいった。そして一番安いサージの詰襟服を一着買った。十一円であった。靴は少しおくれて、呉の親類にたのんであったのが送られてきた。海軍の兵隊靴が丈夫でいいだろうという訳だ。ところがどう間違ったか大きさが十一文もある。これを履いて歩くと、脱げそうになるから勢い引きずる。すっと、ごつぽんごつぽんと音がする。まるで神主のはく木履だ。そのころ、一しきり職員室で神主さんといってひやかされた。それを出目金先生が心配して考えてくれた末、靴の先に紙をつめてみるという事になりしてみたら、どうやら木履でなく靴になった。
 月給を貰うようになってから、伯母の家を出て下宿することになった。伯母の家に迷惑をかけたくなかったし、それよりも、鼠の脅威からのがれたかった。幸い、学区内に酒屋さんが二階を貸してくれることになり、同じ養成所のクラスで下宿がなくて困っていた二人の男も一緒に頼んでやり、三人で下宿することになった。そこに五年生になる女の子がいるので、その子の勉強をみてやるという条件で下宿代はただにして貰った。食事は外の食堂でとることにした。
 はじめは八畳の間にはいって工合がよかったが、そのうちに家人の感情が悪化して遂に四畳半に押しこめられてしまった。それというのが、相棒の二人のうち丹後の男が酒が好きで時々酔っぱらって帰ってきては勉強をみてやらなかったり、電燈の笠を煙管でたたき割ったりするためであった。岡山の男が怒って、
 「おどれあ、そげんことしよると、どうなら」
といっておどしても、丹後のよいどれには一向きかず
 「わいの金で、わいが酒のむのが、どうなら」
とうそぶいていた。
 岡山と丹後の喧嘩はどうでもいいが、とにかく、四畳半に三人は参った。それも体だけではない。三人とも机と行李一つもっている。机を二つならべてねると、行李を机の上においても、首だけは机の下にはいってしまう。たださへせまいところにいきのいいのが三人もねているうえに西陽の強く当る部屋で、とても暑くてねられない。そこで毎晩ねる前には一まわり近所を散歩してくることにした。ところが、場所が遊郭の裏で一寸曲ると、もう、
 「兄さん、兄さん、ちょっとちょっと」
である。丹後のおとこなど喜んで引き手婆をからかったりしていたが、毎晩通っているうちに、顔を覚えられてしまって、もう相手にされなくなってしまった。
 しばらくして丹後の男が出て行き、その後間もなく岡山の男も勤務校の近くに下宿が出来て、そちらへ移ってしまった。おかげで部屋は丁度よくなったが、貧乏ぐらしは相変らずであった。
 最初月給を貰った時は相すまんと思った程有難く思ったが、さて三十五円で一ケ月いくとなるとなかなか苦しかった。それも時々映画をみたり本を買ったりすると、とても一ケ月もたなかった。月給の一週間前ぐらいになると十五銭の朝食がたべられずコップで水をのんで学校へ出かけた。三杯位は目をつむってのむが、それ以上はなかなかのめなかった。そして九時頃になると体中がだるくなり、十時頃になると、大体において立っているより椅子にかける方が多くなる。
 昼は職員室でたべない。というのは、他の先生方のように三つ重さねの弁当や、丼ものは勿論のこと、うどんすらたべられないから、私は焼芋をたべた。いくら何でも焼芋を職員室でたべるだけの度胸を当時の私はまだ持合せていなかったので、これを教室へ持って来てたべた。
 その頃、私は女の先生が、お産で休んでいる補欠として、三年生の男女組を持っていた。教室で焼芋をたべる先生を子供達は喜んだ。先生方で教室でべんとうをたべるのは私ぐらいのものであったので、子供達には珍らしかったのであろう。
 ところが、こうして子供達と一緒に昼べんとうをたべるようになってわかったことは、大てい毎日、二三人の弁当を持って来ない子がいることであった。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第58号(1954(S29).4.1、真生活協会)より)
 
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