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糸賀一雄の蔵書印①
2024-05-01
 一碧文庫には糸賀一雄が所蔵していたたくさんの書籍が保管されています。
 これらの中には、いわゆる「蔵書印」という印影が押されているものがあります。
 蔵書印とは、だれがその書籍を所蔵しているかを明らかにするために、見返しなどに押された印のことです。
 学校の図書室や、市町村の図書館で借りた本、博物館などの資料に学校名や図書館名の入ったハンコが押してあるのを見かけたことはありませんか。
 普段、私たちがよく目にしているのは、そういった団体や公共の施設で使われている蔵書印です。
 これとは別に、あまりお目にかかることのないものですが、個人が趣味で作り自分の持ち物に押す蔵書印があります。
 筆者も、実際に押された個人の蔵書印を初めて見たのは、一碧文庫に来てからのことです。
 今回は、その中から2つの蔵書印をご紹介します。
 

 
 まず、一つ目は、糸賀一雄自身の著書「福祉の思想」の初版本(写真左)に押されているものです。
 見返しと目次ページ、それに巻末の既刊目録のページの3か所にあります。一冊に3ヶ所も!!
 使われている字体について、筆者は詳しくありませんが、最近はインターネットで簡単に調べることができます。
 画面上で字体を選択して氏名を入力し、プレビューボタンを押すと直ぐに出来上がりの印影を確認できるサイトがありました。
 それによるとこの蔵書印は「印相体」という字体でした。
 普通、蔵書印は他人の著書を購入したり、受贈したりした証しとして押されるものだと思うのですが、自分の著書に著者自らの印が押してあるのは珍しいケースでしょう。
 もしかすると、当時、職員や知人に配るために何冊も糸賀のもとにはあって、それらと区別し、自分の手元に置く一冊として蔵書印を押したのかもしれません。
 
糸賀一雄の蔵書印 ②
 
さて、ここから2つ目の蔵書印です。
「精神薄弱問題史研究紀要第2号」(昭和40年3月、精神薄弱問題史研究会)(写真右)という糸賀の論文も掲載されている冊子の表紙に押されているものです。
字体はこちらも「印相体」で右上から左下へ順番に「糸/賀/一/雄/過/目」と読めます。
「一雄」の「一」の字は、本来なら横一線の「一」ですが、ここでは漢数字の「弐」を使い、最後の一画を省くこと(つまり2-1=1)で「一」と読ませています。
また、「目」の字も、二重丸をあしらって目玉に見立てているのでしょう。
いずれも糸賀の遊び心がうかがえる印章だと思います。
「過目」とは、確認や審査の意味を含んだ「目を通す」いうこと。中国には「過目不忘」という成語があり、「一度目を通せば覚えて忘れない」、つまり記憶力が優れていることの例えだそうです。
 糸賀も「しっかりと精読し、確認したよ」という意味で、この印を押したのでしょう。
 

 
 【蛇足】です。
 
 先日立ち寄ったJR草津駅前の書店に置いてあった「福祉の思想」は、なんと第91刷で2021年12月25日発行でした。
 一碧文庫の在庫でいちばん新しいものが第86刷、2016年11月20日発行なので、5年間で5刷、けっこう短いスパンで増刷されています。
 一度の増刷でどれほどの冊数が刷られているのかはわかりませんが、それにしても初版発行(1968年)から半世紀以上が過ぎても未だに増刷され続け、書店に置かれているというのはスゴイことだと思います。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第5回 夜店(2)-2
2024-04-15
 帰りは又婆さんの車に荷物をのせて貰ってひっぱって帰った。今度は婆さんの足に合わせてぼつぼつ歩いた。
 二人共何もいわなかった。私はひどく疲れたようで物をいう元気もなかったし、第一頭の中が空っぽで、他人の頭のようであった。婆さんも黙りこくっていた。何かはじめのうちは私を慰めようというような気配をみせていたが、それもやめてしまった。どうせおざなりな事をいったってしようがないと思つたのであろう。
 それよりも、婆さんは、遠い昔のことを思い出しているのかもしれない。さっき婆さんは、親譲りの夜店あきんどだといったが、その昔は、槍一筋の家であった。いつか婆さんが家に来て父や母と話していた時に、そんな思い出を語ったことがあった。そういえば、おゆうという名もただの町人百姓の娘の名にしては少し上品な感じがする。おゆう婆さんが子供の時には、家にはまだ下男や下女が何人かいたそうである。
 婆さんは、私の姿の中に、自分の昔の姿を見出したのかもしれない。そして、遠い昔の思い出をなつかしんでいるのかもしれない。月の光の下に、ひしゃげたような、私達の住んでいる裏長屋が黒く見えて来た。三袋しか売れなかったことが急に私の心を重たいものにしてしまった。夜店は殆んど雨の降らぬ限り毎晩出た。場所と日がいろいろあるからである。例えば一の日はどこどこ、六の日はどこという工合だ。いつもおゆう婆さんと一緒だった。私もだんだん慣れて来た。
 はじめから袋に入れてしまわないで、中身を盛り上げておいて、その上へ二つ三つ袋に入れたのをおく方法がよく売れた。その筈で、客は中味がわからなくては買いようがない。そんな簡単なことまでが、実際にぶつかってみて、はじめてわかって、そうしたら売れるようになった。これは実に嬉しかった。値札も字体をこって書き、その周囲に赤色を入れた。それだけでも店が華やかになる。こういう工夫をしてみては、それが当るとすると、商売の面白味はこういうところにもあるのではないかと思うこともあった。
 少し遠い場所へ行く晩は私は元気だった。店に坐っていても、じっとうつむいていることはなかった。時には、立止りそうにする客に
 「どうです、安くてうまい菓子」
と呼びかけることさえあった。知らぬ人ばかりという気やすさがそういうことをさせたのであろう。
 しかし、私がそうして夜店になれてくることに対して、おゆう婆さんはあんまり機嫌がよくなかった。夕方になって、私が元気よく
 「おばあさん、出かけようか」
と誘いに行くと婆さんは嬉しいような悲しいような複雑きわまる顔をした。
 一度、よく左隣りに店を出しに来るしんこ細工屋の爺さんが私を弟子にしてやろうかといいだした時など、婆さんは私が困ってしまうほどむきになって爺さんにくってかかった。結局、爺さんがへきえきして「冗談だよう、怒るなよ」と婆さんをなだめてにかかってやっとおさまった。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第49号(1953(S28).7.1、真生活協会)より)
 
一碧文庫、紙資料の保存 その1
2024-04-01
 一碧文庫が保管しているのは、糸賀一雄や田村一二に関する資料で、そのほとんどは文書や書籍など、いわゆる紙の資料です。
 しかも糸賀、田村が活動していた時代の資料なので、もうすでに何十年と経っている代物です。
 
 このような紙の書類(印刷物)は、長持ちしそうで実はとてもデリケートです。
 今でこそ、印刷に使われる紙はほとんどが劣化しにくい中性紙ですが、昭和60年頃までの紙は、製造の過程で酸性物質を使用する酸性紙でした。ですので、紙の繊維が分解される酸性劣化が進みやすいのです。
 放っておくと黄ばんだり、シミがついたり、印字が薄くなったりと時が経つにつれてどんどん劣化が進みます。これは防げません。
 (ちなみに和紙は中性紙に分類されるそうです。1000年近く前の和紙の古文書が現在でも残っているように、カビや虫食いなどが無く状態がよければ、長く保存ができるそうです。)
 そのほか、クリップやホッチキスもそのままにしておくとサビが出て劣化の原因になりますし、カビや虫などもってのほかです。
 
 貴重な資料ですので、大切に保存・管理してはきましたが、これらさまざまな要因によって、どうしても劣化は進んでしまいます。
 一碧文庫ではクリップやホッチキスを取り除き、ホコリや汚れを除去した上で、先述した中性紙でできた専用の封筒や保存箱に入れて分類・保存しています。
 こうした専用の資材を使うことで防げないにしても、できるだけ劣化を遅らせることができます。
 
一碧文庫、紙資料の保存 その2
 また、スキャナーを使って画像をパソコンに取り込む作業も徐々に進めています。
 デジタルにデータ化することで、閲覧などで原資料に直接触れる機会を減らすことができ、これも劣化を防ぐことができます。
 文書類だけでなく、ネガやスライドが取り込めるフィルムスキャナーもあります。
 写真のネガやスライドは、薄いプラスチックのシートに薬剤を塗って画像を定着させています。この薬剤が酸化することで色あせしたり、赤くなったりしていくのです。
 皆さんも経験があると思いますが、何年もしまっておいたネガフィルムを袋から出したときにお酢のような匂いがツンとするのはそのためです。
 利用者を含め先人たちが活動していた貴重な画像データですので、しっかりと残しておきたいと思います。
 

 
 いかがでしたでしょうか?
 このようにして、歴史ある我が法人が遺してきた貴重な資料たちは保存されています。
 しかしながら、先人たちの思いが詰まったこれらの資料を、ただただ倉庫に詰め込んでおくのでは意味のないことです。
 法人職員の研修や教育、研究者の方の閲覧にと、現在に活用されてこそのこす意味があるというものです。
 一碧文庫は、あくまで資料の収蔵庫ですので、常設の公開展示をしてはいませんが、見学等は受け入れをしています。
 ご希望の場合は、このホームページのメールフォームからお問い合わせください。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第4回 夜店(2)-1
2024-03-15
 田村一二の幻の単行本、いかがでしたか?前回までの3回で雑誌掲載の1号分になります。
 父親の事業が失敗し、学業をあきらめ職探しを始める「私」。その就職活動もうまく行かず、夜店に出る覚悟を決めたところまででした。
 今回からは実際に夜店に出るところから始まります。
 主人公「私」の初商売、はてさてどうなることか。
 

 
 さて、翌日の晩、おゆう婆さんの車に私の荷物も一しよに積んでもらって出かけた。婆さんが、いいというのを私はむりに車を引かせてもらった。
 「ぼん、あんたに車ひかして、わたいが後からのこのこついて行かれしまへんがな、ええ、ぼん」
 婆さんはなかなか、うるさかったが、私がどんどん車をひいて行くので、年寄りの足ではついてこられず、みるみる距離が出来てしまつた。婆さんはあきらめたと見えて、腰に両手をまわして、ゆっくりと歩き出した。
 私もこの夜店出しは一応決心してはじめはしたものの、こうした車をひいて、顔見知りの多い、このかいわいを、とても、ゆっくり歩くだけの度胸はなかつた。なかば走るように、顔を伏せて車をひっぱった。むこうにつくと、場所はあらかじめ婆さんからきいていたので、そこえ車をとめて、婆さんを待っていた。この場所は、婆さんが元締に話をして、とってくれたものだ。
 やがて婆さんがやって来たので、荷物をおろして店をつくりはじめた。むしろを敷いて、リンゴ箱を二つならべ、その中へ入れて来た紙袋入りの菓子を出して箱の上に盛り上げ、それを十銭と五銭の値札を立てたら、それでおしまいであった。婆さんは急かずあわてず、悠々と店をつくりはじめた。
 鼻うたをうたいながら、馴れ切った手つきが店の台を組立て、それに暦だとか易の本だとか、女の子の絵のついた柱かけの鏡だとか、ローソク、線香、はぶらしに至るまで雑然とした品物を何のためらいもなく飾り立てて行くのを見ていると、こちらまでつい楽しい気持になって来る。
 「おばあさん、楽しそうだなあ」「はゝゝゝ」
 婆さんは大きな口を開けて笑った。
 「夜店が楽しうなっては、あかんわいな、ぼん」
 「でも、何んだつて、楽しく働けたら一番いいじゃないか」
 「そんな事、ぼんみたいな若いもんが言うたらあかんがな、若いもんは、やっぱり出世して貰わな、どもならん」
 出世ということばがどうも気にくわなかつたが、婆さんの私に対する好意だけはよくわかった。
 「わしら、これでも親譲りの夜店あきんどやさかいなあ、ぼんらとは一寸格がちがうわいな、はゝゝゝ」
 婆さんは又大きな口を開けて笑った。親譲りの夜店あきんどというのがおかしかったので、私も一緒に声を出して笑ってしまった。そのうちにぼつぼつ人が出はじめた。さあいよいよ開店第一夜だぞという緊張感にどんどん体が固くなって来た。
ところが、それと同時に、それと同じ位の強さで、何ともいえぬ落着かぬ気持が顔を上げられなくしてしまった。恥しさだ。なにくそ、夜店をやるのが何が悪いと心の中で自分を叱りつけてみるのだが、それは理くつで、感情というやつはなかなかおいそれということをきいてくれない。
 ここが知らぬ土地ならまだしもだが、この辺には学校友達も数人居たはずだ。ひょいと顔を上げたら、そいつらの一人が、にやにやと笑いながら見下しているような気がして、どうしても顔がしやんと上げられなかった。店の前に学生服のズボンが立止ると、ぎょっとして体が縮んだ。ズボンが通り過ぎるとほっとして、そっと顔を上げて後姿をみる。それが友達の誰でもないことがわかるとはじめてやれやれと安心した気持になった。この気持は全く予期してなかったものであった。前の晩は、楽しい期待に興奮してなかなか寝つかれなかったのに、現実はかくの如くであった。私はむしろの上に体を縮めて座っていた。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第49号(1953(S28).7.1、真生活協会)より)
 
教育とは、教育されること
2024-03-01
 写真は田村一二の直筆原稿(蔵:一碧文庫)で、著書「賢者モ来タリテ遊ブベシ」(1984年5月20日 日本放送出版協会)の本文59ページ、11~15行目にあたります。もしもお手元にこの本があるようでしたら開いてみてください。
 ここには『だから、教育も、先生が生徒を教える。しかし、よく考えてみると、その間に、どれだけ生徒からいろいろなものを教えられているか、教師として育てられているか、生徒にどえらいことおしえられているなあという自覚が持てたとき、その先生は本当の先生になったのだと思う。
 つまり、先生と生徒の間は、教えるけれど、同時に教えられる水平関係なのであって、これは福祉の基本の姿である。』と綴られています。
 「教育するということは、同時に教育されていることでもある」という考えは、田村が戦中、京都の滋野小学校で特別学級の担任をしていた時代から生涯にわたってずっと大切にしていた教育観です。
 この「同時に教育されている」という感覚を大切にして、日々の仕事に活かしたいものです。
 「ん?ちょっと待って。大木会は社会福祉施設であって教育機関ではないよ。」と思われるかもしれません。たしかに私たちは生活支援の支援者であって、教育を施す教育者ではありません。
 ことばあそびになりますが、試しに「教育」というところを「支援」に置きかえてみるとどうなるでしょう。
 「支援するということは、同時に支援されていること」となってしまい、なんだかしっくりこないですね。
 「教育する」ということと「支援する」ということは全く次元がちがうことなので、この二つを即座に置きかえることはできません。
 それでは、こんどは「教師と生徒」という関係を「支援員と利用者」というふうに読みかえてみて、私たちの仕事に当てはめてみるとどうでしょう。
 「生徒から教えられる、教師として育てられる」という田村の体験が「利用者さんから教えられる、支援者として育てられる」というふうに置き換えられますね。
 そしてこのような経験は、児童分野であれ、障害者分野であれ、高齢者分野であれ、どのような分野であっても福祉の現場で働く皆さんならば、既に少なからず体験されていることでしょう。それは日々こなしているそれぞれの仕事の中に見つけることがきっとできるはずです。
 こうした体験こそが私たち大木会が目指す「共に育つ(=共育)」という感覚につながるのではないでしょうか。
 「教え」、「教えられ」、共に育っていく。
 この感覚をより確かな実感へと高めていきたいと思っています。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第3回 夜店(1)-3
2024-02-15
 こうした就職運動に、もう飽き飽きして来た。特に銀行や会社の持つ雰囲気が私に合わないことを感じ出してから尚更いやになって、毎日暗い二階で書く履歴書の筆も、それを懐にして出かける足も段々重くなっていったが、もう一度だけと思ってある銀行へ出かけた。
 そこの応接室で私は袴のひざをつかんでかしこまっていた。テーブルの向うには人事課長と称する人が黙って履歴書に目を通していた。
 その目が最後の日附のところへ来ると、にやりと口元が歪んだ。そして課長は黙って履歴書を私の方へ返して来た。私は何のことかわからないので黙って相手の顔をみた。
 「これは何という字ですか」
といって相手は昭和の昭という字を指先でおさえた。私はよく見たが別段変ったところもないので
 「はぁ、昭和という字ですが…」
というと、相手は憐むように私を見て、
 「これは天照大神の照らすという字ですよ」
 はっとして見ると、なるほど照とはっきり書いてある。かっと頭に血が上って来た。
 「失礼します」
 私は履歴書を懐中にねじこむと、入口の廻転ドアに額をぶっつけそうになりながら外へとび出した。
半丁程来て、やっと少し落着いたので、懐中から履歴書を引っぱり出して、そっとひらいてみたら、やっぱり、はっきり照と書いてあった。
 ――失業ぼけだなあ――
 そう思ったら、急にそのくしゃくしゃの履歴書が私と同じ身の上のような気がして、可哀そうになり、ていねいに皺をのばして再び懐中にしまった。
 夕食の時、その話をしたら、父が珍しく声を立て笑った。そして
 「お前は、どうも銀行や会社には縁がなさそうだなあ、もっと他の方面を探したらどうだ」
 といった。
 「昭を照らすと書くなんて、貧すりゃ鈍するとはこの事だねえ」
と母は嘆息した。
 「だがお母さん、かえってこうなった方がいいと僕は思うよ」
 「どうして」
 「僕はたとえ採用になってもどうも長続きしないように思うんだ」
 「そうかねえ」
 「第一、そろばんが苦手だよ、それに昼でも電灯をつけて、さつ()束や帳簿相手に、前こごみになってじっと机に向っているなんて、僕の性に合わないよ」
 「そうかもしれん」
と父は肯いた。私は最近、友人から、銀行は家に財産のあるものでなければ絶対に採用しないということをきいたが、それを今ここで口に出すには忍びなかった。
 「お父さん、僕は就職運動をもう止めて、自分で働くよ」
 「働く? 何をするんだ」
 「夜店で菓子を売るよ」
 父と母は暗たんとした顔を見合せた。
 私は努めて明るく、ゆうび考えた計画を話した。母は横を向いてそっと指で目頭を押えた。父は目をつぶった。やがて目を開くと、天井をむいたままいった。
 「うむ、まあ、やってみるのもいいだろう、何事も経験だからな。菓子の仕入れはわしから口を利いてやる」
 翌日、新聞紙で紙袋をつくったり、リンゴ箱を買って来たり、一袋五銭、一袋十銭という値札をつくったりした。その間中、楽しさと淋しさの交錯した気持ちを私は味い続けた。
 菓子は以前の取引先の店へ仕入れに行った。「松風堂」のぼんちゃんが夜店で菓子を売るというので、おかみさんまでが出て来て、まあまあを連発しながら、溜息やら慰さめの言葉やらをあびせかけて煩さかった。お金なんがいらないといったのが、妙にかんにさわった。
 「お金は払います」
 ぶっきら棒にいって金を置くと私は店をとび出した。
 夜店の元締めへの交渉は、同じ長屋に住んでいてもう何年も夜店でこよみ()を売っている「おゆう婆さん」に頼んだ。婆さんは快く引受けてくれて、場所も婆さんの隣に話をきめてくれた。
 いよいよ明日の晩から店開きという前の晩は、菓子がどんどん売れて金がもうかって、松風堂の店を買い戻して俺は又学校へ行って、等と埒もない空想に興奮して十二時過ぎまで寝つかれなかった。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第48号(1953(S28).6.1、真生活協会)より)
 
「螺旋的前進」-「南郷」第4号 巻頭言より-
2024-02-01
 
―発展の螺旋形式―
 「螺旋(らせん)階段」ってイメージできますか?
 渦巻き状に回りながら上に上がる階段のことですね。
 この螺旋階段の形状になぞらえて自然や社会が発達、進歩、進化する過程を説明した哲学の方法論があります。
 「弁証法的唯物論」といって、字面をみてもわかるとおり専門家でも容易には説明しがたい理論なのだそうです。この理論にはいくつかの原則があって、その一つに「螺旋」がでてきます。
 螺旋階段は横からみると下から上へと位置が移動しますが、真上から見ると同じ場所をグルグルと回っているように見えます。
 これと同じく、世の中のいろいろな物事も、一旦は消えたように見えたものも回りまわってやがて復活してくることがある。それも元の状態そのままではなく、必ずどこか便利になったり、進化したりして、レベルアップして復活してくるというのです。
 ある社会学者は情報伝達技術を例にとって、はじめ情報のやりとりは文字(手紙、ハガキ)でしたが、やがて音声(電話、無線)になり、今はまた文字(SNSなど)が復活している。しかし手紙そのものが復活した訳ではなく、進化した通信技術のうえに復活してきていると説明しています。
 これを「発展の螺旋形式」というのだそうです。
 
―「南郷」第4号から― 『 』内原文より引用
 糸賀一雄にも「螺旋」をテーマにした文章があります。
南郷第4号(1947(昭和22)年7月1日発行)の巻頭言「螺旋的前進」がそれです。
 1947年7月といえば近江学園が創設されてまだ9ヶ月ほどで、戦後の混乱期の真っただ中です。
 それでも学園は『園児がもう七十名を突破して、環境の整備も着々と進められていて』、『放浪してじめじめとした又は反抗的となった子供も』、近江学園という『明るくて温い愛情の世界に入って』、『心の牢獄から解放されていくようだ』と子どもたちの変化、成長を糸賀はよろこんでいます。
 そしてそれは同時に『学園の生長』だとも言い、学園の生活は『同じことの繰り返しのような毎日の営み』ではあるが『不断の祈りと努力を傾注して』学園が生長していかなければならないと述べています。
 最後に祈りと努力を傾注していく学園の活動の姿は『螺旋の形にも似て』いると言い、『きりりきりりともとに返りつつも一段一段と上昇してゆく』、『螺旋的前進こそ我々の姿でなければならない。』と締めくくっています。
 「発展の螺旋形式」とよく似た発想ではないでしょうか。
 
―PDCAサイクル―
 「発展の螺旋形式」とは、PDCAサイクルのこととも通じていますよね。
筆者は「螺旋的前進」を読んだとき、このPDCAサイクルが頭に浮かびました。
PDCAサイクルとは、「計画(Plan)」「実施(Do)」「検証(Check)」「改善(Act)」のプロセスを繰り返し実施していく品質改善や業務改善などのマネジメント手法で、さまざまな分野・領域で広く活用されています。
 この考え方は、何か課題のあることをプロセスに則って改善できたら、そこで終わりではなく、改善を経て一段ステップアップしたら、その時点からまた計画をスタートし、成果を積み上げながらサイクルを回していきます。まるで螺旋のようですよね。
 これを今の私たちの仕事や職場にも活用することはできないでしょうか?
 福祉の現場は、糸賀が言うように『同じことの繰り返しのような毎日の営み』のように見えます。しかし、ほんとに、ほんとうに少しずつではあるけれども、利用者さんは成長し日々変化していると思います。利用者さんとのかかわり、自分自身の仕事の仕方、いろいろな場面での悩みや課題をただ漠然と捉えていてもなかなか解決策は見出せないものです。PDCAサイクルに当てはめて、見直してみるのも良いのではないかと思います。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第2回 夜店(1)-2
2024-01-15
 中学を出るとすぐ私は就職に駈け廻った。中学時代、自分より成績の悪かった連中が白線を巻いた高等学校の帽子をかぶって家の前などを歩いていくのを見ると、たった一間しかない二階で「履歴書」を書きながら、私は口惜し涙をぽろぽろとこぼした。
 しかし、金魚鉢のそばにしょんぼりと坐りこんでいる父の姿や、自分の落ちくぼんだ顔で後れ毛をかき上げながら、朝早くミシンを踏んでいる母の姿を見ると、私はじめじめしてはいられなかった。
 ――なにくそ――
 私は唇をかみしめて、小倉の袴の紐をぎゆとしめると、履歴書を懐中にねじこみ、鳥打帽をひっかぶって元気よく階段を下りていった。
 厚歯の書生下駄をつっかけると、なるべく父や母の方はみないで、わざと大きな声で
 「行ってきまあす」といって外へとび出した。とび出しながら、私はいつも、背中に父や母の――すまないねえ――という視線を感じて胸が痛んだ。それと途中で会う顔見知りの人たちが、
 「まあまあ、ぼんちゃん」
と気毒そうにいうのが一番いやで長屋を出ると鳥打帽の庇をぐっと下げて停留場まで足を早めた。
 行き先は、母校の中学から通知してくれるのだが、銀行や会社が多かった。給料は中学出で大てい三十円から四十円まで。それで当時は第一次欧州大戦後の不況時代で、就職はなかなか困難だった。
 毎日履歴書を懐中にして、私は根気よく銀行や会社を歩き廻った。
 応接室までの廊下の油でよく拭きこんだリノリウムの上で、滑ってひっくりかえりかけて、女事務員にわらわれたり、冷たい大理石づくりの応接室に長い間待たされて、腹立ちまぎれに、下駄でテーブルの脚をカーンと蹴とばしたところへ人事課長がはいって来て、じろりと睨まれたり、最も不得手なそろばん()をやらされてぐっしょりと汗をかいたりした。
 また、ある銀行では、家の財産についてきかれたが、まるで財産がなければ駄目だというような口調だったので口惜しくなって、いきなり立上ると
 「さよなら、失礼します」
といって外にとび出した。あの人事課員の奴が父や母に何かけしからん恥をかかせたような気がして外に出ると、歩道にペッペッと唾をはいた。
 「俺は将来成功しても、この××銀行にだけは絶対に金を預けてやらんぞ」
といって、腕をまくってふり廻したら、通行人が妙な顔をして見て行った。
 こんなことの結果は、大てい二三日後に、活版刷りのきまりきった馬鹿ていねいな文句の断り状が来た。その馬鹿ていねいな文句が又癪にさわって、みな鼻をかんですててしまった。
 たった一度、どこかの銀行が、巻紙に毛筆で、真面目な文字で断って来た。その中に気の毒だが縁がなかったものと思ってあきらめてくれ、気を落さずに別の方向で成功をしてくれというようなことまで書いてあった。この断り状だけは、鼻をかむ気になれず、又ていねいに巻き直して封筒におさめて机の引出しにしまった。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第48号(1953(S28).6.1、真生活協会)より)
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