もみじ|あざみ|一麦|社会福祉法人 大木会|福祉施設|滋賀県湖南市|

 

SEEDS column

 

更新は1日と15日

更新は1日と15日
 
ブログ内の文章、写真は無断でコピー、転載、アップロードしないでください。
 
フォーム
 
月刊「SANA」(サーナ)について
2024-01-01
「サーナ」第60号表紙
 
みなさま、明けましておめでとうございます。
 本年も「SEEDS column」をやさしく見守ってくださいますようお願いします。
 

 
  さて、小説「屑屋先生」の話題が続いていますが、関連があるのでもう一回だけ、関連の話題をお届けします。
 前回、小説「屑屋先生」が「サーナ」に連載されていたことはお伝えしましたが、「サーナ」についての説明はしないままだったので、改めて書いておきます。
 
 月刊「サーナ」は、真生活協会が発行していた雑誌です。
 真生活協会とは現在「マクロビオティック」と呼ばれている食養法の普及・啓発団体であり、その提唱者、創始者が桜沢如一です。
 桜沢如一と糸賀一雄は、昭和27年から昭和29年にかけてのこの時期、桜沢の指導のもと近江学園の食生活の改革(玄米食等)に取り組んでいて親密な関係にありました。
 例えば、昭和28年7月に大津に開設されたあざみ寮の土地建物は、もともと桜沢の所有で「食養法に取り組むなら」ということで無償提供されたものですし、また反対に糸賀が真生活協会の理事長を務めるなどもしています。
 こうした関係からか糸賀は「サーナ」へ「あざみ寮の記」や「教育の本質」といった自身の著作を投稿もしています。
田村の「屑屋先生」の連載も、糸賀と桜沢、真生活協会との関係から依頼されたものではないでしょうか。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第1回 夜店(1)-1
2023-12-15
挿絵01
 いよいよ『屑屋先生』(田村一二:著)の連載のスタートです。
 掲載分量の関係で「サーナ」での連載1回分を3回程度にわけてアップしていきます。
 挿絵は連載当時のもので、連載1回につき1作品掲載されていました。
 サインのないものもありますが、すべて田村の作品と思われます。
 それでは田村一二の単行本未刊行の小説をお楽しみください。
 

 
 三月の夜の大地はまだ冷たかった。その冷たさが、時間がたつにつれて、坐っているむしろを透して段々に臍のあたりまでしみ上って来た。私は両手を股倉につっこんで、貧乏ゆるぎをしていた。
 夜店は今、丁度、人の出盛りで、筋向いの古金物屋のアセチレン灯の光が殆どこちらにさして来ない程の人の厚さが、右に左に入り交って流れていた。二三軒おいて右の豆屋が、パチ、パチ、ポン、パチ、パチと景気のいい音をたててそら豆をいっていた。コークスのつんと鼻をさすにおいが時々流れて来た。そのコークスのにおいの中へ、串カツをあげる油のにおいが割りこんで来た。
 ――ああ、ほんとに、あいつを十本位、一ぺんに食ってみたいなあ――
 危うく私はそれを声に出して云いかけた程であった。
 屋台の串カツなど、てんやもん)として、そんなものを食べることは恥しいことだと家では教えられて来たし、又、実際、今まで一度も屋台ののれんをくぐったことなどはなかった。
 だが、この串カツのにおいは、空腹をかかえ、冷たいむしろに坐っている私の脳をしびれさせ、胃の腑をわめかせる程の強い刺戟力を持っていた。私は口の中に湧いて来た唾をのみこみ首を振った。
 私の家はこの界隈では一寸知られた「松風堂」という菓子屋で私はそこの次男坊として呑気に育ってきた。
 ところが、私が丁度中学の三年生の頃、父が「発明」に凝り出し、家業は店の者にまかせっ切りで、代用燃料の製作に没頭してしまった。それは「鋸屑」にパラフィンか何かを混ぜて、型に入れて固めたものである。母が時々泣きながら意見をしているのを見たが、父の耳にははいらなかった。
 一年余りの後、どうした事か「特許」がとれた。全くこれは幸か不幸かわからないことであった。
 さあ、そうなると、急に鼻息の荒くなった父は、大量生産をするのだといって、母や兄の止めるのもきかず、近くに古いボロ工場を買った。それから和歌山の新宮附近に大きな山を一つ買った。そこから材木をきり出して、鋸屑をこしらえてという段取であったらしい。今から考えると、鋸屑なんか製材所で買えば安く手に入った筈だのに、当時の父の頭はたしかにどうかしていたのだ。
 ところが、それから間なしに新宮附近に大山火事が起った。二昼夜燃え続けたその山火事のために、父の買った山はすっかり焼けてしまった。この二昼夜の山火事が、父の夢をたたきつぶし、長年続いた「松風堂」を人手に渡し、従って私達の運命をも変えてしまったのである。
 安く譲った「特許」の権利金と、店や家事道具を売りとばした金で、父のこしらえた借金を返し、私達は裏長屋に引移った。
 兄は親類の世話で京都へ働きに出た。母は、これだけは売らずに持って来たミシンで洋傘の袋を縫う内職をはじめた。私は医者になる希望で上級学校の受験準備をはじめていたが、もうそれどころでなく、中学をでるのがやっこらさ、後は直ぐ働かねばならなくなってしまった。
 しばらくの間に十年も老けたようになった父は、ぼんやりしてしまって、仕事をしようという気力もなく、毎日、金魚鉢のそばにかがみこんでいた。
 この金魚鉢と金魚は父の秘蔵のもので、全く裏長屋には不似合いな立派な陶製の大きな鉢で、中には素晴しい「獅子頭」が二匹これもくすんだ裏長屋の雰囲気とかけ離れた豪華さをただよわせて、ゆったりと泳いでいた。この金魚も父に気兼ねをして、売るといったのを、まあこれだけは父の楽しみにというので私達が無理に持って来させたものであった。
 父はあさから金魚鉢のそばに坐りこんで、鉢のふちをとんとんと指先でたたいて、金魚を寄せては、それに自分の口で噛んだ餌をやるのが仕事のようになってしまった。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第48号(1953(S28).6.1、真生活協会)より)
 
発見!! 田村一二 幻の単行本「屑屋先生」
2023-12-01
題字
 小説「屑屋先生」発見の経緯
 
 みなさんは「屑屋先生」(くずやせんせい)という田村一二の小説をご存じですか?
 近江学園の職員同人誌「南郷」の第7号(昭和23年7月)と第8号(昭和23年12月)に、サブタイトルを「夜店」として2回の連載がありますが、「南郷」ではこの2回きりでストップしています。
 しかしその5年後、昭和28~29年にかけて月刊「SANA」(サーナ)(以下、「サーナ」)という雑誌に連載され完結していたことがわかりました。
 その発見の経緯は以下のとおりです。
 
 田村一二の著作で単行本化されていない連載作品がありました。
 その存在が明らかになったのは、人間発達研究所の共同研究グループの一つ、田村一二研究会が2020年2月、同研究所が所蔵する田中昌人関係資料のうち、糸賀一雄著作集編纂のために収集された資料について調査したことからでした。
 この資料の中に「サーナ」第52号(昭和28年10月)に掲載された糸賀の「低能と食物」のコピーが含まれており、その最終ページと「屑屋先生」の1ページ目が見開きの状態でコピーされているのが確認されたのです。
 さっそく大木会にも連絡が入り、インターネットなどで調査を始めました。
 同研究会が調査したのは糸賀著作集のための収集が目的の資料だったため、「屑屋先生」は冒頭の1ページのみでしたが、タイトルの下には「(4)」とあり、連載の第4回目であろうことが想像できました。
 こうして田村が「サーナ」誌上で「屑屋先生」という作品を連載していたらしいということがわかり、改めて「サーナ」について調査をしました。その結果、東京にある日本CI協会(「サーナ」発行元の現在の団体名)の桜沢如一資料室が原本を所蔵していることがわかり、連載部分のデータを提供してもらうことができました。
 これらの資料によって、「屑屋先生」連載は「サーナ」第48号(昭和28年6月)から第63号(昭和29年9月)にかけて計13回掲載され完結していたことがわかりました。
 あらすじは、旧制中学を卒業したものの家庭の事情で学業をあきらめた小杉青年(田村のこと)が、夜店のアルバイトを経て京都市の教員養成所に通いながら代用教員になり、そして本科正教員になるまでが描かれています。
 田村の著書『忘れられた子ら』が、滋野小学校に赴任し特別学級担任になるところから始まりますが、「屑屋先生」はその前の時期にあたり、小説としては「忘れられた子ら」をはじめとするこれまでの単行本では描かれていなかった時期を描いた作品だといえます。
 「屑屋先生」では、自伝『ちえおくれと歩く男』や『賢者モ来タリテ遊ブベシ』では教員養成所や代用教員時代のエピソードがいくつか紹介されていますので、エピソード自体は初出というわけではありません。ただ、昭和20年代のこの時期にこの作品を執筆することで、教員時代の記憶が整理され、後の『…歩く男』や『賢者モ…』につながったといえます。
 
 これから、月1回ペースで「屑屋先生」を少しずつアップしていきます。
 前述のエピソードがどこにどのように挿入されているのか?
 「屑屋先生」とは、いったいどういう意味か?
 その真相がわかるのはいつか・・・お楽しみに。
 (題字は、「サーナ」掲載時のものです。)
 
「光を」から「光に」(2)
2023-11-15
―糸賀の意識の変化と職員間の意見交流―
 
 前回、教育雑誌「小1教育技術」1954年(昭和29年)6月号の連載記事を紹介しました。
 そして連載タイトルが「この子らに光を」なのに違和感があるよね。近江学園なら「この子らを世の光に」でしょう?なぜだろう?と投げかけて終わっていました。
 今日はその続きです。
 

 
 「この子らを世の光に」は、糸賀一雄の主著タイトルでもあり、亡くなる前日の講演でこの言葉を説明しようとして壇上で倒れられたエピソードはよく知られているところです。
 では、糸賀が近江学園設立のはじめから、この言葉を使い、理想として実践していたのでしょうか?
 近江学園年報第2号(1949年)の「精神薄弱児の運命」では、
 
 「同じ精神薄弱児といってもその程度はさまざまで、人間的であるよりもむしろ動物に近いようなものもあれば、ある種の白痴の如きは植物的でさえある」
 
 と書いていて、現在ならむしろ差別的と捉えられるようなイメージを障害児に対して抱いていたようです。
 しかし、後年の著書「この子らを世の光に-近江学園二十年の願い-」(1965年)では、
 
「精神薄弱といわれる人たちを世の光たらしめることが学園の仕事である。精神薄弱な人たち自身の真実な生き方が世の光となるのであって、それを助ける私たち自身や世の中の人々が、かえって人間の生命の真実に目ざめ救われて行くのだ」
 
 と書いています。
 年報第2号から「この子らを世の光に」まで、この間15年以上の歳月があります。
 この15年という期間に意識の変化があった。まさにコペルニクス的転回だといえます。
 不幸な子供たちを救うために「この子らに光を」あててあげようという当初の思いから、「この子ら」こそが「世の光」なのだという意識になっていったということです。
 そして、そこには思索と議論があった。
 「この子らを世の光に」は糸賀が遺した言葉ですが、ただ単に糸賀一人が考え獲得した言葉ではないだろうと思います。当時の近江学園は全員が住み込みの共同生活だったこともあり、独身の若い職員はだいたいが相部屋で寝起きを共にし、夜遅くまで熱く議論を交わしていたと聞きます。また、糸賀や田村の職員向け講座はもちろんのことですが、外部研修を受けてきた職員が講師となっての講座(報告会)が開かれたりもしていました。こうした糸賀も交えた職員間のさまざまな意見や想いの交流を繰り返し、つみ重ねていくことで、「光を」から「光に」という意識変革ができたのだろうと思います。
 こうした利用者さんをまん中においたさまざまな議論や意見の交流が、今、大切なのではないかと思います。
 
「光を」から「光に」(1)
2023-11-01
 さぁ、いよいよ今回から本格的に収蔵品紹介などをやっていきます。
 はてさて、どんなコラムになっていくのやら・・・乞うご期待。
 

 
―『小1教育技術』(19546月号)―
  一碧文庫の収蔵品に「小1教育技術」という雑誌の1954年(昭和29年)6月号があります。
 現在でも小学館から発行されている歴史ある月刊誌ですが、今回紹介するこの号には、当時の近江学園で保健婦をされていた下村美智子さんの「養護児童「K」の指導」という記事が載っています。実はこの記事は連載のうちの1回で、下村さんをはじめ5人の近江学園の職員が、4月号から翌年の1月号までの間に8回に渡って交替で手記を寄せています。
 面白いのは、この連載の著者肩書は全て「近江学園教諭」となっていることです。「近江学園年報」に載っている職員名簿で確認すると実際の職名は児童指導員や保健婦、保母でした。
 この雑誌は、学校教師向けなので、編集部で勝手に書き換えたのでしょうか?
 それとも当時は近江学園の職員の中には地元の教育委員会から派遣された教師身分の人もいたということなので、学園側が許可したのでしょうか?
 その辺の事情は今となってはよくわかりません。
 ともあれ、当時の近江学園は、終戦後すぐ、児童福祉法が制定される前に孤児や浮浪児を収容する養護施設と知的障害児の施設とを合体させた児童福祉施設としてスタートし、その先駆的な取り組みが他の施設の手本として注目されていました。
 ですから、こうした現場の職員の手記も大いに参考にされ、教科書がわりとして読まれていたのではないかと思います。
 また、この雑誌が教師向けの教育雑誌というところからも、当時は「福祉」と同等に「教育」がいかに重要視されていたかということがわかる資料です。
 ところでこの連載、筆者がいちばん注目したのは内容よりもそのタイトルでした。
 タイトルは「この子らに光を」です。
 何か変だと思いませんか?近江学園の職員の手記でこのタイトル?
 近江学園といえば「この子らを世の光に」ではないのかな。
 「に」と「を」の位置が…どうしてだろう…。ということです。
 次回は、そこいらへんを書いてみようかと思います。
 
一碧文庫
2023-10-17

「一碧文庫」(いっぺきぶんこ・新築した倉庫)

       鉄筋コンクリート造瓦葺平家建73.57(22坪)

 一碧は琵琶湖の一筋の碧い水ともいわれ、糸賀一雄の俳号です。

(俳句は、近江学園の職員間で盛んに詠まれていました。「どんぐり句会」という本格的な句会があったほどです。ちなみに田村一二は「木人」、池田太郎は「夢石」、岡崎英彦は「漣水」という俳号です。いつか、このコラムで紹介しようと思います。)

 糸賀資料をはじめ、大木会が所蔵する数多くの貴重な資料保存のため、温度・湿度を一定に保つよう二重壁の内側を総檜で仕立て、重厚な防火扉も備えた本格的な収蔵庫です。

 1982(昭和57)~1983(昭和58)年に刊行された「糸賀一雄著作集(全三巻)」を編むにあたり収集された自筆原稿や関係書籍等が整理保存されています。不問庵の書庫にあった資料類や特に貴重な書籍類もこちらに移管しています。

 また、湖南市に寄託されていた「田村一二記念館」所蔵の田村一二関連の書籍や資料も収蔵しました。

 収蔵庫の前室は資料の整理作業や展示もできる閲覧室になっています。

 現在、一般の公開はしていませんが、所蔵品の整理やリスト化が済んだ後、ゆくゆくは企画展等も計画していきたいですね。

 
不問庵
2023-10-02

「不問庵」(ふもんあん・改修後の旧糸賀邸)

      木造瓦葺平家建87.48(26坪)

 もともとはもみじ・あざみ内で長年使われていた茶室の名前です。糸賀房さんが命名されました。

 職員同士の交流や研修の場として利用するほか、大木会で所蔵している歴史的資料等の整理や調査研究の作業用にも使用します。現在は主に青山塾の会場として利用しています。

 もともと畳敷きの2間であった居室を1間のフローリングに改修しました。この他和室、キッチン、シャワー室、トイレも備えています。

 書庫内には、糸賀一雄先生が遺された蔵書が所蔵されています。社会福祉分野にとどまらす宗教学から俳句まで幅広いジャンルが蒐集され糸賀先生の学識の広さの一端が垣間見えます。

 古くは戦前、学生時代のものもあり糸賀思想の源流や変遷を知る貴重なコレクションとも言えます。

 ここには他にも、会議資料、写真、ネガフィルムなど書籍以外の資料も保管されていました。これらの資料は一碧文庫に移して保管しています。

 (現在、一般公開はしていません。)

 

 次回は、続いて「一碧文庫」のご紹介。

 
SEEDS columnを始めるにあたって
2023-09-15
 かつて南郷時代の近江学園ではクラス名を「桜組」や「杉組」、園児たちへの表彰は「どんぐりメダル」というふうに樹木や草花に由来したネーミングが多く用いられていました。
 近江学園から枝分かれした私たち大木会の法人名、施設名などもそれを受け継いでいます。
 そこには、小さな種が太陽や水の恵みを受けてやがて大きな木へと成長していくように、寄り添い、励まし、共に育ちたいという願いが込められています。
 このコラムもそれにならって「SEEDS(=種)column」(シーズ・コラム)と名づけました。
 これを読んでくださる皆さんに何かしらの「ハナシノタネ」が届けられたらという思いも込めています・・・。
 

 
 さて、みなさん、こんにちは。これからこのコラムの担当をします辻といいます。
 大木会で青山塾という職員養成講座の担当をしています。
青山塾とは、糸賀一雄、田村一二、池田太郎、岡崎英彦という近江学園を創設した4人の先達の思想や実践を学ぶ講座で、その学びを現在(いま)、ここで働く私たちの仕事に活かしていこうという取り組みです。
 当初は、他の法人など外部からの受講者も募集していたのですが、コロナ禍によって中断を余儀なくされ、法人内の職員に限っていますがようやく昨年度から再開しています。
 このコラムは、私自身が青山塾で塾生といっしょに学んだことや大木会に遺されている糸賀一雄や田村一二の資料を活用して、そうした先人たちの思想や足跡を紹介していきたいと考えています。
 
 とはいえ、始めたはいいけれど、何から書いていけばよいのでしょう?
 文才もない、知識も乏しい筆者が、はてさてどこに行きつくのか?
 大いに不安の伴うスタートではあります。
 
 励まし、応援、ご意見、ご感想、何なりとお聞かせください。
 読んでくださる皆様の言葉が筆者の血となり肉となり力になっていきます。
 どうぞよろしくお願いします。
 
まずは「不問庵」「一碧文庫」の紹介から
「不問庵(ふもんあん)」と「一碧文庫(いっぺきぶんこ)」ってご存じでしょうか?
(写真手前が「不問庵」、奥が「一碧文庫)
 両方とも大木会の建物なのですが、湖南市の東寺地先、南に向かって左に曲がれば一麦と落穂寮、右に曲がれば滋賀県立近江学園という十字路の角にあります。
 ここはもともと糸賀一雄先生のご伴侶で、あざみ寮の初代寮長であった糸賀房さんがお住まいになっていたところです。
 房さんが亡くなったあと、そのご自宅と敷地を、2010(平成22)年8月にご家族から寄贈いただきました。
 そして2014(平成26)年4月、旧宅の改修工事とともに収蔵庫を1棟新築し、リノベーション後の旧宅を「不問庵」、収蔵庫を「一碧文庫」と命名しました。
 障害者福祉の父と呼ばれた糸賀一雄、障害児教育の先駆者である田村一二、お二人に関連するたくさんの資料が、ここに収められています。
 
 「ハナシノタネ」がいっぱい詰まっています。
 少しづつですが、みなさんにご紹介できたらと思っています。
 
 次回は、不問庵の詳しいご紹介です。
2
大​木​会​・​も​み​じ​・​あ​ざ​み​
一​ ​麦​
お​お​き​な​木​
社会福祉法人 大木会
〒520-3194
滋賀県湖南市石部が丘2丁目1-1
TEL:0748-77-2532
FAX:0748-77-4437
E-mail:momiji-azami
@cronos.ocn.ne.jp
 
もみじ あざみ
〒520-3194
滋賀県湖南市石部が丘2丁目1-1
TEL:0748-77-2532
FAX:0748-77-4437
E-mail:momiji-azami
@cronos.ocn.ne.jp
 
一麦
〒520-3111
滋賀県湖南市東寺2丁目2-1
TEL:0748-77-3029
FAX:0748-77-2380
E-mail:ichibakuryou-1961.4
@poem.ocn.ne.jp
 
 
------------------------------
072744
<<社会福祉法人 大木会>> 〒520-3194 滋賀県湖南市石部が丘2丁目1-1 TEL:0748-77-2532 FAX:0748-77-4437