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更新は1日と15日

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どんぐりメダルのこと その2
 「あれ?今回の標題と中身が違うじゃないか!」とみなさん思われていますよね。
 今回は「どんぐりメダル」のことがテーマですもんね。
 
 実は「年譜・著作目録」17ページ、1951(昭和26)年11月の項目に
 「創立五周年記念式で、石田文孝表彰、「どんぐりメダル」を制定、第1号を授与」
 とあります。
 それで、長い前フリでしたけれども「年譜・著作目録」についての経緯を先に紹介したわけです。
 というのも、「どんぐりメダル」の記述があるのは、この「年譜・著作目録」だけなんです。
 著作集などをそんなに深く読み込んでいない浅はかな見識ではありますが、筆者の知る限り他のどこにも「どんぐりメダル」は書かれていないと思います。
 例えば「近江学園年報」第4号の巻末「学園日誌」11月17日の項目には、おなじように
 「創立五周年記念式 祝賀会 第二回保護者会 里子里親会 同窓会 旧職員会 石田文孝表彰式」
 とあるのですが、「どんぐりメダル」の文字はありません。
 しかし「年譜・著作目録」のオリジナル「著作集」第3巻の巻末には「どんぐりメダル」の記述があって、三代目の青本もそれを引き継いでいるわけですが、いったいどこから引用されたのでしょう。
 これは、「糸賀一雄著作集刊行会」の当時の活動に迫るお話しなのかもしれません。
 だって「刊行会」で著作集編集に携わった方々は、南郷の近江学園で糸賀とともに活動し、生活した人たちだったのですから・・・。
 「刊行会」のメンバーが編集作業中、年譜の中に「石田文孝表彰」の記述を見つけたときに「そういえば、この時にメダルを作ったよなぁ」とか、「だったら制定したことを項目に入れておこうか」とかいうような会話があったのかなぁ・・・と想像をふくらませてしまいます。
 これは、あくまで筆者の想像ですがね。筆者にとっては「謎」のひとつなんです。
 
 ただ、実物は一碧文庫に収蔵されていました。写真がそれです。
 不問庵のなかに糸賀の蔵書を収めた書庫がありますが、そこにあった机、以前に紹介した「蔵書印」と同じ引出しにあったものです。
 「どんぐりメダル第四号」と墨書(糸賀の自筆?(未確認))された桐の箱に収められていて、首に下げる白いリボンの先に蝶ネクタイのようなエンジ色のリボンが付き、メダルが付けられています。直径は4センチほどでそんなに大きくありません。「表彰」の文字に挟まれて中央に金色のドングリがあります。裏面は「近江学園」の刻印と数字の「4」が打刻されています。数字はおそらく第4号という意味でしょう。
 糸賀がもらったものなのでしょうか。それとも別に何かの経緯があって不問庵に残されたものなのか。書かれたものがないので詳しい由緒はわかりません。
 筆者は以前、「どんぐりメダル」は、大人も子どもも関係なく授与されていた…と、聞いたか、読んだかしたような記憶があります。
 誰からだったのか? どこでだったのか?
 もしもこの「第4号」が糸賀に授与されたものならば、園児の石田さんが第1号で、2人おいて「大人」の糸賀がもらったことになり、誰かに聞いたのか、何かを読んだのか、定かではないあいまいな記憶も正しかったのかなと思っています。
 
 資料や記録の面でも、実物にしても「謎」の多いメダルです。
 実物があっても、由緒がわからなければ宝の持腐れ。
 「著作集」や「年報」「南郷」などを読み返してみて、じっくり調べてみたいと思います。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第13回 代用教員(2)-1
2024-12-15
 今回から、「代用教員」の第2回に入ります。
 旧制中学の入学試験を受験したときのことを思い出しながら、教員養成所の入所試験会場に向かう「私」。いよいよ試験が始まります。
 

 
それから五年、今、私は又試験を受けようとして歩いている。今度は他人の家ではない。伯母の家だが、やっぱり自分の家ではない。五年前と違うところは、赤飯に鯛のお頭つきが、古沢庵に番茶の茶漬けに変っていることと、かつての可愛い少年の顔が、うすひげの生えた青年の顔に変っていることと、筒袖が袴の袂の着物に変っていることだけだ。
試験場は女学校の校舎をかりて行われた。私は筆頭試験を省いて口頭試問だけの組にはいっていた。中学の卒業成績が十番以内の者は筆頭試験が無いのであった。口頭試問の終りに
「君はこの教員という仕事を生涯つづけますか」ときかれた。
「はあ、やってみて面白そうだったら」
「なるほど、面白そうだったらね」
試験官はにやりと笑った。瞬間、拙いことを言ったと思ったが、もう遅い。だけど正直にいったんだから、それでいいんだ。と自分で自分を慰めた。
合格の発表と同時に代用教員の辞令を貰って赴任校もきまった。そこで全員が集められて、赴任の注意があった。注意をするのは視学で、この養成所の先生は視学が多かった。
「ええ。先ず服装について注意する。和服はいけない」
これはいけない、私は和服しか持っていない。こんなんだったら中学の服を後輩にやったりするんぢゃなかった。どうしようかと思っていたら
「但し」と大きな声でいったので、やれ、何か特例か例外でも認められるかと思って安心した。
「病気その他の理由で和服を着る時は、校長にその理由をかいて、和服着用願を出せばよい」
和服着用願とはどんなものか、どんなに書くのかと思ったが、学校へ行ってからきいてみればわかるだろう、とに角、和服が着られることは有難いことだと思った。
「次に帽子であるがー」私はふところの中の鳥打帽子を一寸おさえてみた。
「鳥打帽子はいけない」おやおやと思った。
「学生帽は勿論いけない。中折帽に限る、その他の帽子は一切いけない」
瞬間、噴き出しそうになった。中折帽をかぶった自分の姿がぽかりと目の前にとび出して来たからだ。浴衣にシルクハットをかぶったよりこっけいであった。他の連中もお互いに顔見合せてにやにやした。その目は、中折帽なんかおかしくってかぶれるかといっていた。だが、そうでないのもいた。ちゃんと背広を着て、中折帽を膝の上においている、中には鼻下にひげをたくわえている年配の男もいた。これらは今まで代用教員をしていて、正教員の免許状をとるために、一年半この養成所にはいって来るのや、田舎に勤務している者で、K市に入り込むためにこの養成所に入って来るのやである。
その他こまごました注意があり、赴任校への地理もそれぞれ教えて貰い、明日から勤務することになって解散した。帰ってこの事を叔父にはなしたら、伯父は
「着物の事は何ともならんさかいに、しょうがないけど、帽子なら、わしのを貸してやろ、一つ使わんのがあるで」
といって、私が断ろうとしている間に伯母に持って来いといいつけた。伯母も叔父の意見に賛成して
「そら、そうおし、何も高いお金出して買わんかて、それでええこっちゃ」
といいながら奥へいって、箪笥の上をごそごそやり出した。がなかなか見つからぬらしい。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第55号(1954(S29).1.1、真生活協会)より)
 
 
穴太衆積みと田村一二
2024-12-01
 障害者支援施設「一麦」の利用者さんの中に、夏の暑い時でも、冬の寒い時でも、いつも寮舎の外にいて、本人なりのルールに従って寮の敷地を見て回り異常がないかを確認している人がいます。
 時々、この利用者さんは、寮内の土手の上でコンクリートの排水桝に腰をかけ、草を引いたり、小石を集めたりもしています。
 
 先日、筆者が「一麦」の玄関を出て一碧文庫に行こうといつものように坂を降りながら、何気なく横の土手を見上げたとき、写真の光景が目に入ってきました。
 小石を積んであります。
 あの利用者さんが積んだ石積みです。
 よく見るとただ積んであるだけではありません。
 それぞれの石を上手く組みあわせて崩れないように積み上げてあるのです。
 これまでは、手前にあるように集めてきた小石を盛ってあるだけだったので、筆者は「この利用者さんは、こんな石積みもするのか!」と驚きました。
 と同時にこの石の積み方を見て「穴太衆積み」か?とも思いました。
 
 「穴太衆積み(あのうしゅうづみ)」とは、石垣を造る時の工法の一つで、「穴太衆」とは滋賀県大津市坂本に居住した石工集団です。
 現在もこの地に継承者が居られますが、その歴史は古く、もともと渡来系の人々だったのですが、延暦寺のある比叡山のふもとという立地もあり、平安の世から寺社仏閣の僧房や社殿の基壇などの石積みでその技術を極め、織田信長の安土城築城によって、全国的に有名になったそうです。安土城以降、各地の武将からオファーが相次いだと言われています。
 
 この利用者さんは「穴太衆積み」なんか意識していないでしょうが、もしかしたら「穴太衆積み」好きの田村一二からなにか話を聞いたのかもしれませんね。
 田村は、この「穴太衆積み」が好きでした。
 穴太衆積みの棟梁に会いに行き、お話を聴いたり、一麦寮寮長を退職後に活動を始めた「茗荷会」の拠点を「穴太衆積み」発祥の地である坂本に置いたりするほどの入れ込みようでした。
 なぜ、それほどまでに好きだったのでしょうか?
 それは、その工法、石の積み方にあります。
 田村は「田村一二と茗荷村~茗荷会の例会~」(2002年10月、大萩茗荷村茗荷村研究所)の中で、「穴太積みの特徴は自然石であるということ、それから積み方ですな。ありとあらゆる形態の石が全部活かされている。これは非常に大切な穴太積みの特徴です。捨てる石は一つもない、全部活かされている。」と語っています。人間の都合に合わせて、石を割ったり、削ったりと加工せずに、あるがままの石をそのまま使うということですね。
 この精神は茗荷村村是の第1条「賢愚和楽(けんぐわらく)」に通ずるとも言っています。
 そして「もしも人間生活にこの穴太衆積みの精神が浸透してきたら、おそらく差別だとか障害のある者が肩身の狭い思いをすることはないでしょう。だからこれは人間世界の理想像だと僕は思います。いかなる人間も、小さいなら小さいなりで、曲がったら曲がったなりで認められて、役に立って活かされているというような姿は人間世界の理想像ですな。」と言っています。
 障害があってもなかっても、いかなる人もその人なりの姿で認められ活きいきと生きていける、そうした人間社会の理想像を「穴太衆積み」の精神の中に、田村は見ていたんですね。
 また「柏樹」第40号(昭和56年8月10日、柏樹社)で田村は、熟練の石工には「石の声」が聞えるのだ、と言っています。いろいろな形、大きさの自然石を使うのですが、石の方から自分の治まるべき場所を主張してくるのだそうです。それを見極める力が熟練の匠には備わるということでしょうか。
 田村は、そのことに対して「長年子どもたちとつき合っている私に、子どもたちの本当の声が聞えているだろうか。」と自省しています。
 「穴太衆積み」をとおして、人間社会の理想像を思い描くと同時に、立ち止まって自分を省みていたのでしょう。
 日々の忙しい仕事の中で、目の前の仕事をこなすことが第一となり、利用者さんたちの声なき声を聞き、感じようとすることが「なおざり」になっていないか。筆者も田村のように「穴太衆積み」の精神を心に置いて、自分の仕事を省みたいと思います。
 ふと気づいて撮ったあの石積みも、もしかしたら利用者さんの声なき声なのかもしれません。
 
 
実際の穴太衆積み
 筆者が撮ってきた穴太衆積みです。
 本当は本家本元の大津市坂本へ行っても良かったのですが、筆者が住んでいる甲賀市に変わり種の「穴太衆積み」があるので紹介します。
 甲賀市内の水口町、信楽町間で、西から信楽高原鐡道、国道307号線、隼人川、東海自然歩道、そして新名神高速道路が幅わずか200mの狭いエリアで並行して走っている区間があります。
 距離にして約1.0㎞。この区間の高速道路の擁壁に「穴太衆積み」が使われています。
 近くで施工された新名神高速道路の甲南トンネルの工事でたくさんの自然石が掘り出されこともあって、擁壁工事にこの石積みが採用されたそうです。
 新名神の土手下ですから高速道路を通っても見ることはできません。国道307号線からは木立の間から隼人川の対岸に垣間見えますが、近くで見るには、信楽高原鐡道の紫香楽宮址駅から東海自然歩道を歩いて行くしかないところです。
 
 ※国道307号線は甲賀市水口町と信楽町を直接結ぶ唯一の幹線道路なので、結構な交通量があります。
      また、路肩も狭く、待避所がないので停車できません。
  交通安全には充分ご注意を。
 
糸賀一雄 生誕110年 記念講演会
2024-11-15
 このホームページでもお知らせしていました「糸賀一雄生誕110年記念講演会」ですが、去る10月26日(土)、約1か月半という短い告知期間にもかかわらず180人の参加を得て無事開催することができました。
 県内や京都だけでなく、北は北海道、西は長崎県、また講師の関係から関東方面の各所からも来訪されました。
 各種の行事やイベントがひしめく今の時季に、選んでこの記念講演会に参加いただいた皆さまには心よりお礼を申し上げます。
 また、この講演会の開催にあたっては、関係の法人、団体の皆さまから協賛・後援・協力・助成をいただき、事前の準備から当日の運営まで、多岐にわたるお力添えをいただいたこと深く感謝申し上げます。
 筆者としてはありがたいことに、参加者の中には、このコラムを読んでるよ、見ているよとお声をかけてくださる方もいらっしゃって、この1年、ネタ探しにあえぎながらも続けてきてよかったなと思うと同時に、このつながりを大事にしていきたいと改めて感じさせてもらいました。
 

 
 さて、11月1日の定期更新に間に合わず、たいへん申し訳ありませんでした。
 実は、記念講演会に絡めての話題を書こうと思って「なんとか間に合うだろう」と高を括っていたら、結局のところ片付けやら整理やらで間に合いませんでした。(言い訳です。)
 
 こんな書き方をすると、講演会の内容についての報告でもするのかと思われるかもしれませんが、それはしません。そこのところは今後、何らかの形でと思っています。
やはり、ここはこのコラムらしい話題にしようと記念講演会前から決めていました。
(「だったら原稿準備できただろう」ってことなんですが、なにせ記念講演会の準備で頭がいっぱいで・・・またもや言い訳です。)
 

 
 ここからが本文です。
 記念講演会に関連したコラムらしい話題とは、今回の講演にご登壇いただいた津曲裕次先生のことです。
 実は筆者にとっては、先生は伝説的な存在で、まさにレジェンド。
 実際にお出会いできるなんて夢にも思っていませんでした。
 先生を初めて知ったのは、数年前、筆者が大木会に来て一碧文庫の資料整理をやり始めた頃のことで、一碧文庫の資料として収蔵されている「精神薄弱問題史研究紀要第2号」を目にした時でした。
この資料は今年5月のコラムでも「糸賀一雄の蔵書印」の紹介のなかで、印影の押されている資料として掲載したものですが、表紙の目次には「精神薄弱史研究(Ⅱ)-「歴史」の構成に関する考察-(一)」と「日本精薄教育史年表(案)その(二)」という先生の論文2本が上がっています。
 この研究紀要が刊行されたのは1965年、今から60年も前のことですが、そこに執筆者として名前があがっている先生は、まだまだ浅はかな知識・経験しかなかった筆者にとっては、まさに伝説の人物になったのです。
今回、実際にお会いすることができると聞いた時は、まさか?という驚きと本当に出会えるのだという興奮でうれしくなってしまいました。
 また、この研究紀要第2号には「近江学園史(一)出会い」という糸賀の文章も掲載されています。今回の講演で、先生はこの原稿の執筆を依頼したのは先生だったこと、しかもそれが後に糸賀の主著となる「この子らを光に」の元になったことを自らお話されていましたが、生前の糸賀とも交流をもち、その頃から知的障害児・者の教育や施設史の研究に邁進され、今日までけん引されて来た先生ならではエピソードだと思いました。
 「精神薄弱問題研究紀要」について、国会図書館の蔵書検索で調べてみると「障害者問題史研究紀要」と名を変え、2005年に刊行された40号まで続いていました。先生はこの間ずっとこの研究紀要に関わりつづけ現在も後進の育成に力を注がれています。
 今回、記念講演会に際して、「糸賀一雄」をキーワードに関西のこの地に再び訪れていただき、お話を聞けたこと、繋がりができたことは本当にありがたいことだと思いますし、このつながりをきっかけに東西の知的障害者教育や施設史についての研究や交流がより深まっていってほしいと思います。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第12回 代用教員(1)-3
2024-11-15
 
 試験の前日、田舎から父がやって来て、私は親類につれて行かれた。こゝは古道具屋できたない家の中に、子供がうじゃうじゃといた。
 その晩、みんなで一しょにすき焼をたべた。かぞえてみたら子供が八人居た。その子供達がみな珍しそうに私を眺めたが、別に悪い気持はしなかった。開けっぱなして隔てのないおじさんやおばさんの態度に気持がのびのびした。私は腹一杯たべた。
 その晩は久し振りに父と一緒に寝た。父の頭のにおいが懐しかった。
 朝は少し早い目におきて、算術の教科書にだけ、さっと目を通した。寺では維持にでも勉強してやらんぞ思っていたのにこゝでは自分から早く起きて勉強しようとするのだから人間の気持というものは妙なものだ。
 父が寝床の中からみつけた。
「はゝゝ、泥縄をやってやがる、今更おそいわい、やめろやめろ」
 私も笑いながらパチンと本を閉ぢて、もう一度父の横へもぐりこんだ。
 朝食は、赤飯に鯛のお頭つきだった。おじさんが妙に改まって何だか言ったので、私も堅くなってしまって、余り沢山御飯がたべられなかった。けれども、おじさんおばさんの好意は子供の私にも充分感じられて嬉しかった。
 父がついてくるというのを私は断った。
「一人で大丈夫やろか」
とおばさんが心配そうに私と父の顔とをかわるがわる見くらべた。
「大丈夫だろう、じゃ、一人で行って来い」
 父はあっさり承知すると、又食卓の前に坐りこんでしまった。おばさんと子供達に見送られて家を出た。おじさんは父と何か話し合っていた。
 試験は別にむつかしいと思わなかった。筆頭試問の後、口頭試問と身体検査があって試験はすんだ。寺の息子は両親と一緒に来ていたが、こちらに気がつかないのをいゝことに知らん顔をしていた。
 二三日して発表があった。その日は私は友達のところへ遊びに行っていて、父だけが見に行った。帰って来た父は私の顔をみると、何でもないように、
「合格だよ」
といった。そして羽織をぬぎながら、
「今日はどうも工合が悪かったよ」
と私の顔をみて苦笑いをした。
「道ちゃん、駄目だったんだね」
「うん」
 道ちゃんというのは寺の息子の名である。
「ごえんさん――住職の事――とはじめ校門のところで会った時は、えらい元気だったんだ、で、二人で一緒にみていった、お前のは直ぐみつかったから、私しゃ安心して、しばらくずっと見ていってから、ひょいと隣をみると、ごえんさんの姿がみえない、おやっと思って、その辺を見廻すと、校門の方へすたすたと歩いていくごえんさんの後姿が見えるのだ。番号表を最後まで見たが道雄君のはなかったよ、気の毒だったなあ」
 そういって父はごえんさんの後姿を見送るような目つきをした。私は道ちゃんが、お母さんにきっと叱られているだろうと思った。あの強い目が眼鏡の奥から道ちゃんを睨みつけているだろうと思った。そしたら急に道ちゃんが可哀そうになって、もっとよく勉強を見てやればよかったと思った。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第52号(1953(S28).10.1、真生活協会)より)
 
 
原稿が間に合いませんでした。
2024-11-01
 ごめんなさい。
 週明けに掲載します。
 今しばらくお待ちください。 筆者。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第11回 代用教員(1)-2
2024-10-15
 翌朝、市立教員養成所の入所試験を受けるために伯母の家を出た。試験場は余り遠くないので、ぶらぶら歩いていった。歩きながら、中学校の試験を受けた時も、自分の家からでなく、人の家から行ったことを思い出した。
 小学校を終わると、私の体が弱いので、家中が一年間田舎にひっこむことになった。学校の先生は田舎の中学を受けたらとすゝめくれたが、私はどうしても大阪のI中学が受けたかった。当時I中学は野球の全盛期で、近畿では鳴らしていた。野球の好きな私はどうでもI中学にはいるといって、学校の先生に頼んで級の中のたった一人別の願書を書いて貰った。
 口頭試問の時、案の条試験官から訊かれた。
 「君はなぜ、田舎からわざ〳〵この学校を受験に来たのですか」
 「野球が好きですから」
 「ほゝう、選手になりたいのですか」
 「いゝえ、応援団です」
 「はゝゝゝゝ」
 とその先生は声を立てゝ笑った。そばにいた二人の先生もにやにやと顔見合せて笑った。
 この入学試験を受けるために、私は田舎から一週間程早めに大阪に出て来て、真宗の寺に預けられた。そこにも同じ年の息子がいて、偶然その子も私と同じI中学を受けるということだった。
 私は毎朝、四時だったか五時だったか、忘れたが、とに角、早くから起されて、本堂の掃除をさせられた。その息子も時々はやるが、殆んど出てこないでゆっくり寝ていた。それがしゃくにさわって、ごみなどは大てい須弥壇の下へほうりこんでおいてやった。食事の時のご飯のつけようなども、どうやら私の方が少ないように思えた。これは私のひがみであったかもしれないが、それやこれやがこんがらがって、気の毒にその息子への反感となり、夜など勉強は私の方が出来たので、時々わからないところを訊きに来たが余りよく教えてやらなかった。僕の前に来るとぺこぺこするくせに、親の前では僕を見下すような態度をとることも腹が立っていた。昼も息子は家にとじこもって受験勉強をしていたが、私は殆んど家にいなかった。そして昔の小学校時代の友達のところへ行って遊んだ。
 夕方に帰ってくると、奥さんが、
 「あんた、もう試験までに幾日もないのよ、勉強しなきあ駄目じゃないの」
と縁なし目鏡の奥から睨んだ。
 「はあ」
と聞き流して二階へ上ろうとすると
 「少しばかり出来ると思って」
ときこえよがしにいった。頭がかあっと熱くなって目の奥がぎりぎりと痛くなる程腹が立った。殆んど駈け上がるように階段を上って部屋にはいると息子が背中を円くして机に向っていた。
 「あ 長平ちゃん 帰ったんか」
 私は返事もせずその隣の机の前にどしんと坐った。
 「あのな、こゝ、読んでみたんやけ」
 息子は国語の本を恐る恐る出して来た。
 「訳がようわからんね、どない、いうんやろ」
 「字引、引けよ」
 私は振り返りもせずにいった。
 「字引、引かな、力つかんぞ」
 「う、うん」
 息子はそっと本をひっこめると、ぼそぼそと字引きをひいていたが、わかったのか、わからないのかそのまゝ本を伏せるとこそこそと階下に下りていった。
 ――さて、これで、又、今夜の飯は少ないわい――。
 私はごろんと仰向けにねて机の上に足をのせた。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第52号(1953(S28).10.1、真生活協会)より)

 
 
田村一二 ラジオ番組出演 その2 「忘れられた人生」
2024-10-01
 このコラムを初めて1年が経ちました。
 これまであまり知られていないであろう資料を紹介して、糸賀思想、田村思想の魅力を伝えてみたいという思いから、なかば見切り発車でスタートしてようやく1年です。
 月2回ペースでやってこられたのも、半分が田村一二の著作「屑屋先生」の連載があったからです。
 依然「ネタが尽きて挫折するかもしれない」不安をぬぐい切れないままですが、続けていけたらと思っています。
 みなさまのご意見、ご感想をお聞かせください。
 今後とも、どうぞよろしくお願いします。              筆者
 

 
 さて、今回は7月に紹介しました田村一二が出演したラジオ番組についての第2弾。NHKラジオ第1「人生読本」より「忘れられた人生」の録音テープについてお伝えします。
 
 6月の本コラム「放送日はいつ?」で紹介しましたが、放送日については録音の内容から滋賀県立図書館のオンラインデータベース「朝日クロスサーチ」で検索して、1966年9月8日~10日であったことは突き止めることができました。
 当時の「人生読本」は、1回10分の放送で3回(連続3日)で出演者1人1テーマ(今回の場合、出演者は田村一二、テーマは「忘れられた人生」)を語る(インタビューではない)という内容でした。
 
 一碧文庫に残されている録音テープには、その3日分が1本にまとめて収録されていました。
 これはあくまで筆者の想像ですが、おそらく放送局が3日分3本の放送用テープを1本のテープにコピー(いわゆるダビング)して出演記念か記録用として出演者である田村に手渡したのではないかと思います。
 そのため、録音されている音はとてもクリアでした。
 
 ただ、テープ自体の後半部分は経年劣化が相当進んでいて、よれたり縮れたりしていて、無理にプレーヤーにかけて再生しようとすると、ローラーに絡まって止まったり、酷い時には切れてしまうことがあり、まともに音を聞くことができませんでした。
 
 しかし、どうしてもその劣化した部分の内容も知りたい筆者としては、何とか聞ける状態にできないものかと思案しました。
 少しずつ手作業で伸ばしてみるのはどうかとか、お湯に漬けて温めてみるとか、いろいろ考えてみましたが、どれもあまり効果的ではないように思われました。
 そして、最終的に思いついたのが洗濯物のシワを伸ばす「電気アイロン」でした。
 
 テープの劣化した部分を日本手ぬぐいで挟み、軽くアイロンで押さえながら、手前にテープを引っ張っていきます。
 温度が上がりすぎないように、時々アイロンを離しながら、ゆっくりゆっくりテープを引っ張って、よれて縮れた部分を修復していきます。
 荒療治ですが、何とか平らに伸ばすことはできました。
 
 問題は音です。
 ローラーに絡んで切れてしまったところをセロテープ(これも荒療治。あとで調べてみると本当は専用のテープつなぎ材がある。)でつないで、プレーヤーにかけてみました。
 なんと、ローラーに絡まることなくスムーズに巻き取られていきます。
 音の方はというと、これも見事再生されています。
 ところどころ、音がこもり気味になったり、のびたりしているところはありましたが、内容を聞き取ることができ、音源としてパソコンに取り込むことができました。
 
 ただ、今回はイチかバチかの賭けに出て結果オーライで済みましたが、こんなことは本当は前代未聞。
 熱でテープが溶けてしまうかもしれません。
 アイロンから出る電磁波で録音自体が消去されてしまうかもしれません。
 二つとない貴重な資料の扱い方としては、決して良いやり方ではなかったと思います。
 皆さんは決してマネしないでくださいネ。
 
 今回はここまで。
 マニアックに過ぎるお話になってしまいましたネ。
 「忘れられた人生」で田村が何を語っているか?については、すみません、また後日。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第10回 代用教員(1)-1
2024-09-15
 今回から、いよいよ「代用教員」の第1回に入ります。
 恩師山本先生の誘いで教員になる決心をした「私」。お世話になった夜店の人たちに別れを告げてK市へと向います。
 

 
 翌日、山本先生の手紙を懐中にしてK市行の汽車に乗った。紺がすりに小倉の袴、それに鳥打帽といういでたちである。この小倉の袴は父と二人で古着屋へ行って買ったものだが、一着八十銭であった。あまり安いので二着買った。その一着は戦時中母のモンペに化けたが、残りの一着はいまだに私の手もとにある。
 今でもこの袴を見ると、懐かしい代用教員時代の思い出がはっきりと浮かんで来る。
 K市につくと、先ず伯母の家に身を落着けた。伯母の家は饅頭屋をしていた。家族は伯父と伯母とその息子の、私にとっては従兄にあたる政男との三人だけであった。
 夜になると、政男は二階に上がって、好きな機械の本を読むし、伯母は古びた、裁縫箱を持ち出してつぎ物などをするのがまるではんこでおしたようにきまっていた。
 そして、伯母は、二針三針縫いはじめると、きまって、こくりこくりと居眠りをはじめる。それを伯父が眼鏡ごしに睨んで伯母の名を呼んで叱りつけ、伯母がびっくりして目をさまし、二針三針縫ったかと思うと、又こくりこくりと居眠りはじめる。それを伯父が叱りつける、これを何回も何回も繰返すことも毎晩きまっていた。
 これが一しきりつゞくと閉店である。伯父が昔かた気で十時にはきちんと戸を閉めてしまう。近所では一番早い。それから伯父が古風な鋲や金具の一ぱい打ってある大きな硯箱と大福帳を持出して、その日の売り上げを、貸し、買いものなどをつけるのである。
「それからツ?」
 伯父がいらいらしたように訊く。伯母がその前にきちんと坐って両手を膝において答えている。
「あぶらげ 一枚」
「なんぼや」
「……銭」
「なに? 何銭やて」
「……銭」
 伯母の両眼は病犬のようにとろんとして、開いたり閉ぢたりしている。体がふらふらと前後にゆれている。
「何銭やツ しっかりいわんかい」
 伯父が叱りつけると、伯母はびくっとして眼を開く。
「何でしたいなあ」
「油揚ぢや、油揚一枚、何んぼうや」
「あゝ、油揚どすか、五銭どすわ」
「ちえツ」
 伯父はいまいましそうに舌打ちをする。
 これがすむといよいよ寝る段取りとなる。
 その前に仏壇の前にぬかづいて今日一日無事に暮させて貰ったことをとても有難そうに、落涙せんばかりの口調でいう。私はそれをいつも感心してきいていた。よく、照れ臭くもなくあんなことがあんな有難そうに云えたもんだと感心していたのである。
 それから、伯母は皿に米を盛って、上りかまちの上に置く。そして
「さあさあ、娘さんたちや、今晩も御馳走おいといたげるさかいな、おいたせんときやすや」
と真面目くさっていう。鼠たちにいっているのだ。これは毎回、噴き出しそうになって困った。
 それから私は二階に上がって寝るのだが、表の間で政男はとうに寝ている。私は足音を忍ばせて裏の部屋にはいる。六畳程の広さはあるのだが、饅頭を包む竹の皮がぎっしりと詰めこまれ積み上げられていて、畳の見えているところは真ん中の二畳位しかない。そこに伯母が蒲団を敷いてくれている。
 電灯はついていないので、ガラス戸越しに来る表の間からの明りで着物をぬいで蒲団の中にもぐり込む。しばらくすると、鼠が天井や竹の皮の上で暴れはじめた。小声でしっといってみるが全然こたえもしない。
 折角伯母が米をやって暴れるなといっておいたのにと思ったが、どうせ、そんな事をしたって駄目な事はわかり切っているのだから、鼠に腹を立てるよりも、そんな馬鹿げた事を毎日繰返している伯母の方に腹が立って来た。
 くらやみでじっと目を開けてみるが鼠の姿は見えない。しかし、積み上げてある竹の皮の上のあちこちから、あの円らな黒い眼をきらきらさせて、私を見下しているにきまっている。時々、き、きと、鳴く。闇の中に、白い小さな牙がちらちら見えるような気がする。生憎なことに松風堂時代に使っていた丁稚たちが、よく、鼠にうなされた話をしていたのを思い出した。
 体中大きな岩でおさえつけられているようで苦しくてたまらないので目がさめる。動こうとしても動けず、声を立てようとして声も出ず、ふと透してみると、蒲団の丁度胸の上に鼠が一匹乗っていて、さも嘲り笑うように白い牙をむき出して、ききと鳴くのだそうである。その鼠がどこかへ行くととたんに体も動き、声も出るようになるということである。
 私は心細くなって、かけ蒲団を鼻のへんまで引き上げた。かび臭いにおいが鼻につんとしみこみ、手織木綿のごつごつした感触が頬をおして来た。とたん、がさがさっと大きな音を立てゝ枕元を一匹の鼠が走った。はっとして、顔を蒲団の中に埋めた。
 そのまゝじっとしていたら、父や母の顔が思い出されて来て、鼻の奥がきゅうとしめつけられるような気がしたかと思ったら、ぽろっと涙が出た。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第52号(1953(S28).10.1、真生活協会)より)
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