田村一二の幻の単行本、いかがでしたか?前回までの3回で雑誌掲載の1号分になります。
父親の事業が失敗し、学業をあきらめ職探しを始める「私」。その就職活動もうまく行かず、夜店に出る覚悟を決めたところまででした。
今回からは実際に夜店に出るところから始まります。
主人公「私」の初商売、はてさてどうなることか。
さて、翌日の晩、おゆう婆さんの車に私の荷物も一しよに積んでもらって出かけた。婆さんが、いいというのを私はむりに車を引かせてもらった。
「ぼん、あんたに車ひかして、わたいが後からのこのこついて行かれしまへんがな、ええ、ぼん」
婆さんはなかなか、うるさかったが、私がどんどん車をひいて行くので、年寄りの足ではついてこられず、みるみる距離が出来てしまつた。婆さんはあきらめたと見えて、腰に両手をまわして、ゆっくりと歩き出した。
私もこの夜店出しは一応決心してはじめはしたものの、こうした車をひいて、顔見知りの多い、このかいわいを、とても、ゆっくり歩くだけの度胸はなかつた。なかば走るように、顔を伏せて車をひっぱった。むこうにつくと、場所はあらかじめ婆さんからきいていたので、そこえ車をとめて、婆さんを待っていた。この場所は、婆さんが元締に話をして、とってくれたものだ。
やがて婆さんがやって来たので、荷物をおろして店をつくりはじめた。むしろを敷いて、リンゴ箱を二つならべ、その中へ入れて来た紙袋入りの菓子を出して箱の上に盛り上げ、それを十銭と五銭の値札を立てたら、それでおしまいであった。婆さんは急かずあわてず、悠々と店をつくりはじめた。
鼻うたをうたいながら、馴れ切った手つきが店の台を組立て、それに暦だとか易の本だとか、女の子の絵のついた柱かけの鏡だとか、ローソク、線香、はぶらしに至るまで雑然とした品物を何のためらいもなく飾り立てて行くのを見ていると、こちらまでつい楽しい気持になって来る。
「おばあさん、楽しそうだなあ」「はゝゝゝ」
婆さんは大きな口を開けて笑った。
「夜店が楽しうなっては、あかんわいな、ぼん」
「でも、何んだつて、楽しく働けたら一番いいじゃないか」
「そんな事、ぼんみたいな若いもんが言うたらあかんがな、若いもんは、やっぱり出世して貰わな、どもならん」
出世ということばがどうも気にくわなかつたが、婆さんの私に対する好意だけはよくわかった。
「わしら、これでも親譲りの夜店あきんどやさかいなあ、ぼんらとは一寸格がちがうわいな、はゝゝゝ」
婆さんは又大きな口を開けて笑った。親譲りの夜店あきんどというのがおかしかったので、私も一緒に声を出して笑ってしまった。そのうちにぼつぼつ人が出はじめた。さあいよいよ開店第一夜だぞという緊張感にどんどん体が固くなって来た。
ところが、それと同時に、それと同じ位の強さで、何ともいえぬ落着かぬ気持が顔を上げられなくしてしまった。恥しさだ。なにくそ、夜店をやるのが何が悪いと心の中で自分を叱りつけてみるのだが、それは理くつで、感情というやつはなかなかおいそれということをきいてくれない。
ここが知らぬ土地ならまだしもだが、この辺には学校友達も数人居たはずだ。ひょいと顔を上げたら、そいつらの一人が、にやにやと笑いながら見下しているような気がして、どうしても顔がしやんと上げられなかった。店の前に学生服のズボンが立止ると、ぎょっとして体が縮んだ。ズボンが通り過ぎるとほっとして、そっと顔を上げて後姿をみる。それが友達の誰でもないことがわかるとはじめてやれやれと安心した気持になった。この気持は全く予期してなかったものであった。前の晩は、楽しい期待に興奮してなかなか寝つかれなかったのに、現実はかくの如くであった。私はむしろの上に体を縮めて座っていた。
(月刊『SANA』(サーナ)第49号(1953(S28).7.1、真生活協会)より)