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SEEDS column シーズ・コラム

 

更新は1日と15日

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無財の七施
2025-09-01

 
 ちょうど一年前になりますが昨年の9月、このコラムで糸賀一雄の講話集「愛と共感の教育」を紹介しました。
 覚えておいでですか?
 この本の中には糸賀の生涯最後の講義となった1968年9月17日の大津市で行われた滋賀県児童福祉施設等新任職員研修会での「施設における人間関係」と題された講演が収められています。
 本当はこれがメインの書物なのですが、この時はその他の講演で「おむつ交換の際に重度心身障害のある利用者が、少しでも支援者の助けにと腰を浮かせようとする動作にその保母さんが感動した」というエピソードを糸賀が好んで紹介し、利用者と支援者の共感の世界について語っているのを中心にお伝えをしました。
 今回は、その最後の講義の内容について「少しだけ」触れたいと思います。
 遠慮がちに「少しだけ」といったのは、大上段に「そもそもこの講義での糸賀思想とは・・・」とか「生涯最後となった講義で糸賀は・・・」とは到底筆者の力量では表現しきれないので、この講義の後半部分で糸賀が語った、ある言葉について紹介したいと思います。
 筆者はこの言葉に触れて、普段の生活の中でこのような心持ちで他の人と触れあえたらいいな、支援するものの振る舞いとして指針になるのではと感じたからです。
 その言葉とは「無財の七施」です。
 これは糸賀自身の言葉ではなく、仏教の「雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)」というお経の中に説かれている言葉です。
 インターネットで調べてみると日本の多くの宗派やお寺のホームページでこの言葉についての説明を見ることができました。「お布施」というと法事などでお寺さんに納める金品というイメージだけれども、そういった財物が無くてもできる七つの施し、行いがあるということが、おおむねどのサイトでも説かれていました。
 糸賀は、この日、講義のためにメモ書きしたレジュメの他に手持ち資料として「無財の七施」について手書きした原稿用紙五枚をわざわざ用意し、黒板に板書までして説明しました。
 糸賀はこの原稿の最後で、この「無財の七施」は、小手先の道具として使うものではなく、心から湧き出てくるような行いでなければならないと書いています。
 また、ギスギスした現代社会における人間関係の潤滑油ともなると言っています。
 「施設における人間関係」と題した講義の締めくくりに、わかりやすく心に残る言葉を受講者に送りたかったのかもしれませんね。
 
 翻刻したものを以下に挙げてみます。
 (一碧文庫には、その現物が保管されています。インターネットなどをみると、七施を「しちせ」と読んでいます。おそらくこれが正式な読み方でしょうが、糸賀は「ななせ」と言っています。)
 
 
         無財の七施(むざいのななせ)
 
 この言葉は、大蔵経の一部「雑宝蔵経」の中にある。仏教でいう慈悲の心を平明に表現している言葉とされている。金もなく地位もなく、寝たきりの病人でも、つぎの七つの施しができるというのである。
 
(1)眼施(げんぜ)
 やさしい眼ざしで周囲の人々の心を明るくする。人間の眼くらい、ある意味で複雑な色合いをうつし出すものはない。「目は心の鏡」ともいう。その眼にたたえられたなごやかな光は、どんなにか人々をなぐさめ、はげますことか。特に相手が過失をおかした時は。
 
(2)和顔悦色施(わげんえつじきせ)
 目のつぎは笑顔である。中老年の笑顔は、まわりにはもちろん、何よりも本人にとっての救いである。
 
(3)言辞施(げんじせ)
 やさしい言葉をかけること
 
(4)身施(しんせ)
 身体を使って、人のため、世のためお役に立つこと。現代語で勤労奉仕などというが、奉仕は、ほんらいほどこしである。
 
(5)心施(しんせ)
 感謝の言葉で、まわりの人々の心を明るくする。現代人には「ありがとう」という言葉がスラスラでてこない。ハニカミもあるかもしれぬが。アリガトウ、たったこの五字の音声が、この世のなかをどんなにか住みよくすることか。
 
(6)牀座施(しょうざせ)
 場所、席をゆづり合う。そのことによって人々の心をやわらげる。交通ラッシュだ、やれ席取り競争だ、から、あるいは権力の座の争いにいたるまで、現代において何と、牀座施の必要の痛感されることか。
 
(7)房舎施(ぼうじゃせ)
 乞うもの、たずねるものがあれば、一宿一飯のほどこしをあたえること。
 
— 以上が「無財の七施」である。大切なことは、七施は生活の技術ではない。もとこれ真心より発するものでなければならぬ。
 現代は人間の関係がギスギスしすぎている。とすれば、この七つは、現代社会の七つの潤滑油といえないだろうか。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第23回 代用教員(5)-3
2025-08-17
 四月の終りに生れてはじめての月給三十五円を貰った。事務室で事務員から封筒に入れて貰ったが何だか、遊んでいてこんなものを貰ってまことに相済まんという気が強く起った。
 「はつ まことに こんなに沢山頂いて、相すみません」
と私は思わず頭を下げて礼をいってしまった。瞬間、相手の事務員はいやな顔をした。皮肉をいわれたと思ったらしい。じろりと私の顔を見上げたが、私が至極真面目な顔をしているものだから、むこうも驚いたらしい。そして、まことに恐縮したように、
 「いや、どうも」といいって頭を下げた。その辺にいた連中がみなにやにやと笑った。
 私はその封筒をふところに捻じこんですぐ洋服屋へいった。そして一番安いサージの詰襟服を一着買った。十一円であった。靴は少しおくれて、呉の親類にたのんであったのが送られてきた。海軍の兵隊靴が丈夫でいいだろうという訳だ。ところがどう間違ったか大きさが十一文もある。これを履いて歩くと、脱げそうになるから勢い引きずる。すっと、ごつぽんごつぽんと音がする。まるで神主のはく木履だ。そのころ、一しきり職員室で神主さんといってひやかされた。それを出目金先生が心配して考えてくれた末、靴の先に紙をつめてみるという事になりしてみたら、どうやら木履でなく靴になった。
 月給を貰うようになってから、伯母の家を出て下宿することになった。伯母の家に迷惑をかけたくなかったし、それよりも、鼠の脅威からのがれたかった。幸い、学区内に酒屋さんが二階を貸してくれることになり、同じ養成所のクラスで下宿がなくて困っていた二人の男も一緒に頼んでやり、三人で下宿することになった。そこに五年生になる女の子がいるので、その子の勉強をみてやるという条件で下宿代はただにして貰った。食事は外の食堂でとることにした。
 はじめは八畳の間にはいって工合がよかったが、そのうちに家人の感情が悪化して遂に四畳半に押しこめられてしまった。それというのが、相棒の二人のうち丹後の男が酒が好きで時々酔っぱらって帰ってきては勉強をみてやらなかったり、電燈の笠を煙管でたたき割ったりするためであった。岡山の男が怒って、
 「おどれあ、そげんことしよると、どうなら」
といっておどしても、丹後のよいどれには一向きかず
 「わいの金で、わいが酒のむのが、どうなら」
とうそぶいていた。
 岡山と丹後の喧嘩はどうでもいいが、とにかく、四畳半に三人は参った。それも体だけではない。三人とも机と行李一つもっている。机を二つならべてねると、行李を机の上においても、首だけは机の下にはいってしまう。たださへせまいところにいきのいいのが三人もねているうえに西陽の強く当る部屋で、とても暑くてねられない。そこで毎晩ねる前には一まわり近所を散歩してくることにした。ところが、場所が遊郭の裏で一寸曲ると、もう、
 「兄さん、兄さん、ちょっとちょっと」
である。丹後のおとこなど喜んで引き手婆をからかったりしていたが、毎晩通っているうちに、顔を覚えられてしまって、もう相手にされなくなってしまった。
 しばらくして丹後の男が出て行き、その後間もなく岡山の男も勤務校の近くに下宿が出来て、そちらへ移ってしまった。おかげで部屋は丁度よくなったが、貧乏ぐらしは相変らずであった。
 最初月給を貰った時は相すまんと思った程有難く思ったが、さて三十五円で一ケ月いくとなるとなかなか苦しかった。それも時々映画をみたり本を買ったりすると、とても一ケ月もたなかった。月給の一週間前ぐらいになると十五銭の朝食がたべられずコップで水をのんで学校へ出かけた。三杯位は目をつむってのむが、それ以上はなかなかのめなかった。そして九時頃になると体中がだるくなり、十時頃になると、大体において立っているより椅子にかける方が多くなる。
 昼は職員室でたべない。というのは、他の先生方のように三つ重さねの弁当や、丼ものは勿論のこと、うどんすらたべられないから、私は焼芋をたべた。いくら何でも焼芋を職員室でたべるだけの度胸を当時の私はまだ持合せていなかったので、これを教室へ持って来てたべた。
 その頃、私は女の先生が、お産で休んでいる補欠として、三年生の男女組を持っていた。教室で焼芋をたべる先生を子供達は喜んだ。先生方で教室でべんとうをたべるのは私ぐらいのものであったので、子供達には珍らしかったのであろう。
 ところが、こうして子供達と一緒に昼べんとうをたべるようになってわかったことは、大てい毎日、二三人の弁当を持って来ない子がいることであった。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第58号(1954(S29).4.1、真生活協会)より)
 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第22回 代用教員(5)-2
2025-08-01
  ― SEEDS column 筆者より ―
 先日、3日連続で人前に出て話す機会がありました。
 話をする日は、今年度の大木会青山塾第1回開講日の次の週末だったので、スケジュール管理の甘い筆者のこと、青山塾のもっと前から取り掛かっておけば良かったのに不十分な準備のせいで、思っていたことが十分に伝わっただろうかと反省シキリです。
 ともあれ筆者は、これが本業ではないので、さすがに3日連続はキツかった。
 持ち時間は20~30分程度でしたが、テーマも対象者もそれぞれに違った内容だったので、3日間を終えて筆者はもうカスカスの完全放電状態に陥ってしまったわけです。
 ということで、枯渇したエネルギーは充電せねばなりません。
 これで2度目になりますが、通常のコラムはお休みし、「屑屋先生」を繰り上げ掲載します。
 …スイマセン。いいわけでした。… 
 壊れたリチウムイオン電池みたいに爆発しない程度に急速充電しますので、お許しください。
 それではどうぞ。
 

 
 それから、二、三日して二年生の体操の補欠をやらされた。当時、体操の時の教師の服装は、白シャツ白ズボン白のズック靴それに白の体操帽にきまっていた。洋服の上衣を着てやっていけないことは勿論、ネクタイをしめたままもいけない。ズボンも白の体操ズボンに限り、靴も黒や茶の革靴ではいけないということになっていた。ところで、私は体操帽も白ズボンも白ズック靴も持っていない。規格にあうのは白シャツだけ。といって、和服の袖をたくし、袴の股立ちとつてというのも勇ましすぎる。遂に覚悟をきめて、シャツに猿股、はだしというかっこうで運動場にとび出した。
 ところが、二年生の子が笑う笑う。それはそうだろう。まるで潮干狩の男が間違って運動場にとびこんで来たというかっこうだから、これは子供でも笑う筈だ。私は子供達の前に立って直立不動の姿勢をとった。
 「つけえーつ」
 私は腹の底から声をしぼり出した。教練でおそわった通りにやった。子供達は一瞬ぽかんとしたが次の瞬間崩れる様にげらげらと笑い出した。これはいけないと思った。更に丹田に力をこめて、あらん限りの声を張り上げた。
 「つけえーつ」
 ある子供達はおびえたようにぼんやりしていしまい、ある子供達はもうたまらないように笑いころげた。私はげっそりしてしまった。
 「先生、小杉先生、だめ、だめ」
 みると、すぐ近くの教室の窓から出目金先生が顔を出している。
 「そんな小さな子に兵隊さんみたいなこというてもあかへんわ。やっぱり、やさしう、気をつけというてやらな」
 ぺこんと頭を一つさげると、私はやさしくいった。
 「気をつけ」
 子供達はちゃんと姿勢を正して「気をつけ」をした。あまりはっきりしているのでいやになってしまった。
 はじめに行進や徒手体操を少しやっておいて、後一しょに「鬼ごっこ」をやって大いにとびまわったから、子供達はご満悦で体操がすんでからも「小杉先生、小杉先生」と体のまわりに一ぱいとりついて来た。とりついてくるのはいいのだが、何しろ猿股一ちょうなもんで、その点まことに接触が工合が悪くてほうほうの態で職員室に逃げこんだ。
 ただ体操最中に一番困ったのが横隊行進をやった時である。「廻れ右前へ進め」をかけようとしたところが、どっちの足で「進め」をかけるのだったか忘れてしまった。ええと、どっちだったかな、左だったかなと考えているうちに子供達はどんどん運動場のはしの方へ行ってしまう。さあ困った、早く号令をかけなければと焦る程思い出せない。とうとう羽目板のそばまでいってしまった。子供達の中には心配そうにこちらを振りむく者もある。中には気を利かしてもうそろそろ足踏みをしかけるのもある。せっぱつまって、かけた号令が
 「止れーつ」
 子供達はやれやれというように止った。私もやれやれと思った。シャツの下が汗でぐっしょりになった。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第58号(1954(S29).4.1、真生活協会)より)
 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第21回 代用教員(5)-1
2025-07-15
挿絵
 
今回から、「代用教員」の第5回です。
第5回では、「小杉先生」の授業の様子について、いくつかのエピソードが描かれます。
これらは、著者、田村一二が京都で小学校の教師をしていた頃の実体験が元ネタなのでしょう。
 
 
 このクラスとは、その後非常に親密になって、私はその後も転々とあっちこっちのクラスの補欠にまわっていたが、彼等はよく私のところへ遊びにきた。何ケ月かたって、高等科生の遠足があった時、又担任が休んだために私が補欠にいった。彼等は歓声をあげて迎えてくれた。さて帰途、私の組は全体の先頭に立った。ところが、私の歩度は少し早すぎた。というのは、まだ教員としての経験がないので歩度の調節を知らなかったのである。
 だいぶ来てから、ひょいと振り返ってみると、うしろにしたがっているのは私の組だけで、あとの組はどこにも見えなかった。組の子供達は顔を真っ赤にして頭から湯気をたてていた。みな歯をくいしばって来たらしい。私は危く涙がこぼれそうになった程感激した。学校に帰ってから、学年主任の先生からひどく叱られたのは勿論である。しかし、このことで私は教員生活の楽しさと難しさを知ったのである。
 ある朝、出勤すると直ぐ教頭がやって来た。
 「小杉君、すみませんが、今朝急に○○先生が休んで、又一つ補欠をたのみます」
 「はいどこですか」
 「三年は組で、修身です」
 「修身?苦手だなあ」
 「なあに読ませて話してやればよいので何んでもないですよ」
 「そうですか。まあやってみましょう」
 教科書を貰って一時間目の修身に出かけた。教室にはいると、小さいのが六十人ばかりもぎっしりつまってわいわい騒いでいた。私の姿をみると、もの珍しそうな顔をしてだんだん静かになった。
 「修身をやります。本を出しなさい」
というと子供達は机のふたをがたがたといわせて大あわてにあわてて本を出すと、大急ぎに両手を膝において口を結んだ顔をつんと上向けて半身になった。そして自分より遅い子を横目でじろじろ眺めていた。いつもそういう工合に本を出す習慣になっているようだ。早いのはいいけど、どうもあの目つきは気にくわないと思った。
 「第〇課、読んでもらおうかな 読める人」
といい終わらないうちに、はいはいはいと、いやはや賑やかなこと。中には、立上っているのや、とび上って手を挙げているのまである。
 一人読ませると、又はいはいはいである。二三人読ませた内容は、西南戦争の時、西郷軍にかこまれた熊本城から鍋ずみを顔にぬって、谷村計介が脱出して城を救おうという物語である。こんなことわかりきったことだと思った。
 「君たち、この話知ってるかい」
ときいてみると、全部が手をあげて知ってますという。知っているなら別に話すこともいるまいと思った。するとこの課はもう何もすることはない。はてどうしようかなと思ったが、よい考えも浮かばない。ええい、次の課へいってやれ。
 「では次の課へゆきます、はい、読める人」
 はいはいはい、又殆どが手を挙げる。子供達はもうこんなうすっぺらい修身の本くらい家ですっかり読んでしまっているらしい。二、三人に読ませてきいてみたら、みな異口同音にこんな話はもう知っているという。こころみに感想をきいてみたが、みんな大体において出来ている。
 仕方がないので次の課に遊んだ。こうして五課いったところで終りの鐘がなった。流石に子供達もあきれたらしく、四課目位からはおずおずと手を挙げるようになった。五課目になると、お互いに顔見合せながら手を挙げていた。
 職員室に帰って来ると、丁度教頭がいたので、教科書を返しにいった。
 「や、御苦労さんでした。どうでした。」
 「はあ、ここと、ここと、ここと、ここと、それから、ここと合計五課いきました」
 その時、教頭は「えつ」というよりも「げえつ」というのに近い声を出して、私の顔を見つめて目をパチパチさせた。私はさっさと自分の席に帰って来た。
 その次の時間にはもう出目金先生が、
 「あんた、修身を一時間に五課もいったんやって?…」
といって私の顔をまじまじとみた。何と職員室という所は話が早く伝わるところであろうかと私は感心した。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第58号(1954(S29).4.1、真生活協会)より)
 
 
どんぐりメダル、続報
2025-07-02

 今年の1月1日。この「SEEDS Column」で紹介したどんぐりメダルの続報です。
 1月の記事では、最初に「糸賀一雄年譜・著作目録」の発行や改訂の経過を紹介し、その中で糸賀一雄が授与されたであろうどんぐりメダルが一碧文庫に収蔵されていて、それが第4号らしいということ。
 しかし、年譜・著作目録には、近江学園創立5周年にどんぐりメダルを制定して、第1号を園児に贈ったという記載はあるものの、以後どうなったかについては記されていないこと。
 などなどをお伝えしました。
 そして「4」と刻印されたこのメダルは果たして糸賀のものだろうか?
 第1号授与者は園児だったけれども、大人ももらえたのだろうか?
 資料の面でも、記録の面でも、そして実物にしても謎多きシロモノだねぇ…と言って終わっていました。
 今回は、その謎解き編になります。
 
 答えは、いつものことながら、灯台下暗し、「南郷」に載っていました。
 前号までで、戦前の田村が書いた著作物の紹介が一段落した筆者としては、さて?次に何をしようかと考えていました。
 そんなとき、ふと「そういえば、南郷時代の近江学園職員の同人誌として、このコラムでもたびたび取り上げてはいる「南郷」だけれども、それはいつも別の資料なりを紹介するときの引用資料として部分的に紹介していただけで、そのものは、まだだったなぁと思い到ったのでした。
 それなら一度「南郷」特集をやってみようかということで、いろいろとデータを見返しているうち、第18号にどんぐりメダルについて記されているのを見つけてしまったわけです。
 「そうか!『どこかでみたような』と感じていたのは、これのことだったのかな?」
 「まだまだ読み込みが足らないなぁ」と反省しつつも、「やろう」と決めた「南郷」特集は、またもや後回しになって、今号はこのネタでいこうとなった次第です。
 
さて、それでは本題とまいりましょう。「南郷」第18号です。
発行は1957(昭32)年11月15日となっています。
発行履歴を見てみると、この頃の「南郷」は1年に1回、年刊ペースで発行されていて、第15号(1954(昭29)年)から第19号(1958(昭和33)年)までは近江学園の創立記念日(11月15日)に合わせて発行されています。
そして巻末のページには必ず学園日誌の記事があって、前号の発行日、つまり前の年の創立記念日から以降の学園の出来事が綴られています。
第18号が発行された1957(昭32)年は学園創立10周年の次の年。
田村一二が執筆した学園日誌は、目次には「園内日記」と記され、本文は「近況報告」と題されています。
書き出しからいきなりどんぐりメダルのことが出てきます。
 
「近況報告」 木 人
 昭和三十一年十一月十五日の十周年記念日には、一碧園長、田村木人、荒川妙人の三人が学園最高の名誉章、ドングリメタルを貰った。これは、めったやたらに出すヤスモンメタルではなく、学園全体がその表彰を妥当と認め、園長がよろしいと許したものでないと貰えない。だから学園創設以来まだ三人しか貰っていない。即ち第一号は石田文孝、第二号は末政功司、第三号は小林武夫。そしてこんどの三人が、第四、五、六号を貰ったわけである。全部ナンバー入りの、中央にポカリとどんぐりが一つ浮彫りされている、銀メタルである。
 これに白いリボンをつけて、文化勲章のように首から下げて貰ったのである。あれあ、本物のドングリの実の方がおもしろかったという声もあったが、どうもまだそこまで子供になり切れなかった。
 それから、この十周年記念日に……(以下省略)
 
                (本文は「南郷」第18号、32~38ページに掲載)
 
 1月に紹介したあのどんぐりメダルは、やはり糸賀本人が貰ったものだったのですね。そして刻印された数字の「4」は、やはり第4号という意味だった。
 さらに判明したのは、続く第5号は田村に、第6号は荒川妙人という人に授与されたということ。
 荒川とは、近江学園創設の時から学園の事務方を一手に引き受け、長年、学園の会計や事務を支えておられた荒川友義氏のことでしょう。「妙人」とは、一碧、木人と同じく俳号もしくはペンネームだと思います。
 つまりは、学園創立10周年を記念して学園のトップ3に授与されたということでしょう。
 ちなみに「糸賀一雄年譜・著作目録」には、29ページの1957(昭31)年の年譜欄に
    「11(月) 創立10周年を記念して「どんぐり章」を制定、第1回授与」
 となっています。この「どんぐり章」が、すなわちどんぐりメダルのことなのですね。
 
 どんぐりメダル第1号から第3号の授与者名もわかりますね。
 第1号は、1月にも紹介した石田さん。創立5周年の際にどんぐりメダルが制定されましたがその第1号だったわけですね。
 続く第2号、第3号も調べてみないとわからないですが、おそらく園児ではないかと思いますが、ここで新たな謎が浮かんできました。
 2号、3号の授与者が園児であるかどうかもありますが、いつ授与されたのでしょう?
 創立10周年で4号授与ですから、それまでの5年間うちのどこかでしょうが、そして授与された理由は何だったのでしょうね。
 また、それまでどんぐりメダルはあったのに、10周年に際して新たに「どんぐり章」として制定したのは、どうしてでしょう?
 もしかしたら、それまで子どもや園児対象だったものを「どんぐり章」とすることで、「大人」も貰えるようにしたのでしょうか?
 そして、第7号以降の授与はあったのでしょうか?
 
 またもや、いろいろな疑問がわいてきて、オタク道まっしぐらの様相になってきました。
 ナゾがナゾ呼ぶミステリー。続報、乞うご期待。
 
ドングリメダル、続報 資料写真

 
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第20回 代用教員(4)-2
2025-06-15
 代用教員である私には担任学級はなく、誰か欠勤した先生があると、その学級へ補欠として教えに行くのが仕事であった。だから、欠勤の先生のない日には職員室でぽかんと椅子に腰を下ろしているということになる。そこで、よく給仕と間違えられた。
 十八才の若造で、頭は丸刈り、紺がすりに小倉の袴、入口をはいったところの机で、その上には何にも載っていないとなると、給仕と間違える方があたり前である。
 外来者で私を給仕と間違える人があっても、これは致し方がないが、内部の者で、私の身分をはっきりと知っていて、ぶべつした者があったので、遂に一寸痩せ腕を振った事件があった。
  高等科二年の先生が休んだので私はその補欠に出ることになった。
始業の鐘がなったので私は直ぐ職員室を出て、教えられた高等科二年の教室へ急いだ。生徒達もぞろぞろと教室へはいっていた。私より体の大きいのが沢山いる。
 階段を上っていると、その連中が私をかこむように近づいて来て、そのうちの一人がどんと私にぶつかって来た。はじめは誤ってぶつかって来たのかなと思ったが、そうではなかった。再び別の奴が肩をぐんとぶちあてて来た。私はよろよろとした。
 「へえ、これでも先生か」
 「ひょろひょろやんけえ」
 「洋服ももっとらへん」
 「こんなもん先生やあるけえ」
 「給仕じゃ」
 「給仕々々」
 「給仕が教えるなて生意気やぞ」
 こういった悪罵がとんで来た。そしてもう一人どんとぶつかって来た。
 私は全身がかっと熱くなり、次の瞬間、しーんと青ざめた冷たさがとってかわったのを感じた。私は黙って教室にはいって。
 「今、階段で僕にぶつかって来たやつ、これでも先生かとか、給仕だとかいった奴、手をあげろ」
 私は教壇から睨みまわした。彼等は互いに顔を見合せてにやりとしたり、窓の外を見てうそぶくようなかっこうをしていた。
 「外へ出ろッ」
 はずみというか、調子がよかったのであろうか、はつとみんな腰をうかすとぞろぞろと出て来た。
 「なんや、なんや」
 「外へ出て、どないしよういうね」
 「行ったれ、行ったれ」
 そんな声が背後からがやがや聞えたが、それはもう先程の悪罵程の強さはなかった。私は後ろを振り向きもせず、どんどん階段を下りていった。運動場へ出ると、はだしのまゝ砂場へ進んだ。彼等はやや困惑したような顔をしてぞろぞろとついて来た。
 「大きい奴から順に一列にならべッ」
 私の大喝にふくれっつらをしながらもごそごそと一列にならんだ。
 「一番、前へ出ろッ」
 私よりずっと体の大きい一番のやつが、なんでいというように肩をそびやかして一歩前へ出た。
 「たッ」私の足払いがきれいにはいった。ずしんと地ひびきを打って相手はぶっ倒れた。そいつには目もくれず、
 「次ッ」ちょっと尻ごみをする二番を、つつと進むと胸ぐらをとってぐいとひいた。ひょろひょろと前のめり出てくるところを「えいッ」
 腰投げでぶっとばした。丁度一番が立上ったその足もとへどしんと二番がころげてへたばった。
 もうこうなると完全にこちらの優勢である。残りの連中は全く気をのまれてただ蒼くなってぼんやりしたまま、次々と、私の足払いと腰投げにぶっ倒されていった。途中二三人少し抵抗した者もいたが、勢にのった私には物の数でもなかった。
 それでも全部で三十人余り投げとばした時には、流石に、肩も腹も大きな波を打っていた。
 「教室にはいれッ」
 彼等はしおしおとうなだれて階段を上っていった。気がつくと袴のすそが少し裂け、着物の左の袖が半分ちぎれてぶら下がっていた。私は腕まくりをして教室へはいっていった。
 「お前達は、服装だとか容貌だとか外形で人を判断するとあやまるぞッ」
 私の一喝にみんな神妙な顔をして頭を下げた。
 「わかったかッ」
 「はい」大部分の子供が返事をした。
 「よし、勉強だ、本を出せ」
 丁度国語の時間であったが、国語なら、少々はやれる、どんどん質問々々で攻めたてゝ、ぎゅうぎゅういわせてやった。授業終りの鐘がなって、本をしまわせると、級長が大きな声で
 「起立、礼ッ」
と号令をかけた。軽く答礼をすると、私はさっと教室を出た。後から連中もぞろぞろ出た来たが、くすッともいう者はなかった。職員室に帰ると、出目金先生に、袖のほころびをなおしてもらった。私はただ子供達と一寸、角力をとったんだといっておいた。
 放課後まっ先に足払いでぶっ倒された一番が職員室にはいって来た。私の机の横に立つと直立不動の姿勢をとった。
 「何だ」
 「掃除、出来ましたッ」
 「後の始末をちゃんとしたか」
 「はいッ」
 「よし、帰れ」
 「はッ」彼は兵隊のようなおじぎをして出ていった。その辺にいた先生方があきれたような顔で、彼と私をみくらべた。
 「へえー、あきれた、あの子がねえ」
 出目金先生が例の近眼鏡をくっつけて、しげしげと私の顔をみた。
 「小杉先生、一体どうしたの」「何がですか」
 「何がって、あの子が、あんな神妙な態度で来るなんて、今までに一ぺんもなかったのよ」
 「へえ、そうですか」
 「えらい落着いてんのね、あんた、ね、何かあったんでしょ」
 「いや、別に」
 「へえー、不思議だわ」
 翌朝、出目金先生は又おどろいた。それは、朝礼の時に、私が彼等の組の前に立つと、連中が一せいに直立不動の姿勢をとったからである。放課後、彼女は職員室にはいって来て隣に坐るなり
 「小杉先生、あんた、やったのね」とささやくようにいった。私は黙って笑った。彼女は机の引出しから飴玉の袋を出すと、黙って私の前に置いた。
 
         (月刊『SANA』(サーナ)第57号(1954(S29).3.1、真生活協会)より)
 
 
 
『勿忘草』第2号、もう一つのつながり
2025-06-01

 昨年の8月にこのコラムにて、田村一二が京都の滋野小学校在職中に事務局を務めていた京都市特別児童教育研究会が発行していた「勿忘草」という雑誌(編集者は田村一二)があったことを紹介しました。
 一碧文庫では第1号と第2号を所蔵していますが、第2号には田村が担任をしていた特別学級での日常を描いた9篇エピソードを集めた「覚書帳より」という記事が掲載されています。
 このエピソードのうち、いくつかが戦後の著書『百二十三本目の草』のエピソードの元ネタになっていることもあわせて紹介しました。
 今回は、『勿忘草』第2号が実は『手をつなぐ子等』ともつながりがあるよということを紹介したいと思います。
 まずは、時系列的に整理してみましょう。
 
①『勿忘草』第2号
 1943(昭和18)年9月15日 京都市特殊教育研究会 
 田村著のエピソード集「覚書帳より」を掲載。
   ↓
②『手をつなぐ子等』
 1944(昭和19)年1月20日 大雅堂より初版発行
 
となります。「勿忘草」第2号発行の約4ヶ月後に『手をつなぐ子等』が発行されています。
 
さて第2号には、先に紹介したように「覚書帳より」と題して9篇のエピソードが収録されていますが、このうち冒頭の「戦争」というエピソードは他の8篇とはおもむきが違います。
 他のエピソードは、田村と障害児たちとの学校での出来事が綴られているのに対して、このエピソードは保護者から担任教師に宛てた手紙について書かれています。
 
 まずは翻刻したものをお読みください。
 
「戦 争」
 最近こんな話をきいた。
 たった一人の子供が低能である。父はその子供のことで頭を悩ましていた。
 どの学校へ行っても断られる。やっとどこかの学校へ入れて貰ったと思うと、直ぐ「あの子は出来ないから、どこか適当な施設へ入れたらいいでしょう」と追い出される。適当な施設へ入れるだけの資力が自分にはない。
 途方に暮れていた時、召集令状が来た。
 父は悩みを押しかくして決然と出征して行った。
 しかし、父の頭に浮かぶものは、常に故郷に残して来た低能のわが子の姿である。
 近所の子供達から、又いぢめられて泣いていることであろう。その子の母も泣く子を抱きしめて歯を食いしばっていることであろう。
 学校へうまく入れて貰えたかしら、入れて貰えても、放ったらかしかもしれない。
 腹がへって、塵箱を探す様な浅間しい真似はしていないだろうか。
 戦いに疲れた体を露営の草枕に横たえている時、不憫なわが子の姿を思い出しては、流石の勇士も、人知れず不覚の涙に軍服の袖を濡らすのであった。
 ところが、この事をきいたある特別学級の担任が、進んでその子を自分の学級に入れ、親切に面倒をみることになった。
 やがて戦地から、担任にあてた長い手紙が来た。
 その中の一節に、
 「……これで自分も思い残すことはありません。晴々とした気持ちでご奉公が出来ます。立派に戦って死ねます…」
と書いてあった。
                       【原文の旧字体は新字体に改めています。】
 
 戦地に出征した父親が、障害のある我が子を特別学級に迎えてくれた担任へ感謝を伝える内容です。昨年8月のコラムで紹介した「方便」「混同」など他の8篇で感じられる特別学級のユーモラスで楽し気な雰囲気とは、書き方も文の調子も明らかに違いますよね。
 どことなく小説っぽい感じがしませんか?
 すでに『手をつなぐ子等』を読んだことのある方ならピンと来たのではないでしょうか。
 「戦争」というエピソードは、『手をつなぐ子等』本編冒頭、第1章にあたる「出征」と第3章にあたる「手紙」と内容がよく似ています。
 むしろ取り入れられているといってもいいぐらいです。
 
 「出征」は、主人公の寛太が障害がある故に学校でいじめに合い、教師からも見放されて、いくつもの学校から断られるなか、父親が出征し、途方に暮れる母親が最後の望みにと尋ねた小学校の校長と教師にこれまでの顛末を訴えて受け入れられるという物語の幕開けとなる部分です。
 約17ページに渡る、この小説としては比較的長い文章のなかで最後の部分の1ページ分に「戦争」の前半部「軍服の袖を濡らすのであった。」までの部分が使われています。
 その翻刻がこれです。
「出征」(抜粋)
 …………
 中には、こんな子供は特殊な施設へ入れた方がいいだろうと言って、いろいろ調べてくれる先生もあったが、そのような施設は、大てい月に三十円から五十円の経費がかかるのである。
 月に三十円以上の費用を出して、寛太を特殊な施設へ入れてやることは、今の父親としては、とても経済的に堪えられない。
 全く夫婦は途方に暮れてしまっていた。丁度、その時父親に召集令状が来た。
父親は決然として出征して行った。
 後に残った母親は、どうせ学校を変わるならと思って、店をたたんで、寛太をつれ、実家のあるこの町へ帰って来た。
 その後、たった一度だけ戦線の父親から便りがあったが、その中には、寛太のこと以外何も書いてなかった。
 戦闘に疲れた体を、露営の草枕に横たえる時も、ただ、寛太が友達にいぢめられてはいないか、学校で放ったらかしになっているのではないだろうかと、そればかり心配していると書いてあった。
 …………
【原文の旧字体は新字体に改めています。】
 
 『勿忘草』第2号では、父親からの手紙の内容について、そんなに詳しくはないですが、『手をつなぐ子等』では、かなり詳しく書かれています。
「手 紙」(抜粋)
 …………
 この変化、母親によって、戦線の父に、大きな喜びとして報ぜられた。
 その手紙の中には、「寛太は全く生まれかわりました」とも「私は毎朝学校の方を向いて、手を合わせて拝んでいます」とも書いてあった。
 それに対する父親からの返事は、だいぶたってから、母親と同時に松村先生へも届いた。
 
 …………
 
 そこには、こんなことが書いてあった。
 …………身はもとより 大元帥陛下に捧げ奉ったものに有之(これあり)、生に対する執着、死に対する恐れは微塵も御座無く候(ござなくそうろう)、さりながら、ただ一つ寛太のことのみは、拭いても拭いても拭い切れぬ悩みにて、戦友にも打ち明けられず、ただひとり露営の夢にも、軍服の袖濡らすことしばにしばに有之候(これありそうろう)、愚かなる親とお笑い被下度候(くだされたくそうろう)
 さりながら、唯今は、既に胸中一点の曇りもなく、ただただ全身一杯の歓喜に御座候(ござそうろう)
 必ず必ず立派に戦死可仕候(つかまつるべくそうろう)………
 
…………
【原文の旧字体は新字体に改めています。】
【(  )内、よみがなは筆者挿入】
 
 両書の発行時期から考えると、『手をつなぐ子等』に取り入れているというよりも、「勿忘草」第2号の文章を元に物語のイメージを大きく膨らませ、前後に文章を添えながら小説として完成させていったといえるかもしれません。
 逆に「勿忘草」第2号の前に既に『手をつなぐ子等』の原稿はできていて、要約したものを第2号に載せたのでしょうか。
 この間、わずか4カ月ですが、原稿の執筆、それから推敲や校正など、発行するまでにどれくらいの時間がかかるのか筆者はまったくわからないので、ただただ想像するしかありません。
 
 
『手をつなぐ子等』…筆者のウンチク

 北大路書房などから発行された『手をつなぐ子等』をお読みになった方は、冒頭の章のタイトルは「出発」じゃないの?と思われたのではないでしょうか? 
 本コラム2025年2月1日号でも紹介していますが、『手をつなぐ子等』は戦中に大雅堂より初版が発行されましたが、戦後になって一部内容を改訂し、大雅堂、北大路書房などから発行されました。
 「出征」というタイトルも、改訂の際におそらく戦時色が強いという理由だとおもいますが、「出発」に改められています。
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第19回 代用教員(4)-1
2025-05-15
挿絵
 
 今回から、「代用教員」の第4回に入ります。この回は案外と短い章なので2回に分けました。
 
 着任早々、新任校長の歓迎会に誘われもせず、逆に宿直を押しつけられてしまった「小杉先生」、小使室で住み込みの用務員夫婦と出会い、お酒のはいった小使いのおじさんに絡まれかけて・・・。
 

 
 「おじさん、ねる前に一度校舎、見廻っておくんだろ」
 「えゝ、だけど、先生はまだはじめてだし、あっしが廻っときますよ」
 「なに、僕が廻るよ」
 私は立上がった。
 「それじゃ、提燈に火をつけますから」
 「そんなものいらないよ」
 小使室を出た私は、渡り廊下を渡って校舎にはいっていった。
 校舎にはいってみると案外に暗かった。これはやっぱり提燈を持って来たらよかったと思ったが、一旦いらないといい切って来た以上引返すわけにもいかんと、意地を張ってそのまま歩いていった。
 階段の踊り場で、何やらむこうから動いてくるものがいるので、ぎょっとして目をこらしてみると、大きな鏡に写っている自分の姿であることがわかったが、しばらくは胸がどきどきとしていた。
 長い廊下をすたすたと歩いて行く私の草履の音だけが聞える。だいぶいった頃、すうっと両側が壁になって真暗になったと思ったとたん
 ぐわーん
と音がして、私は大きな鉄板にぶつかった。全く予期していなかったのと、大きな音がしたのにびっくりして、危く後ろにひっくりかえるところであった。
 手探りでなでてみると、防火扉であることがわかった。更になでまわしていると、ハンドルがわかった。それをまわして、やっと向うに出た。後をしめると急にこわくなって大急ぎで歩いた。廊下を左に廻ると、民家からのあかりでやや明るくなっていたので、ほっとした。
 小使室に帰って来て明るい電燈の下に腰をおろしたらやれやれと思った。
 「やあ、先生、廻って来ましたね、えらいもんだ、若い人で一人で廻るせんせいってめったにありませんぜ、大抵、おじさん一しょに廻ってくれだ、先生は若いけどえれえや、おまけに提燈もなしでよ」
 「その提燈を持っていきやよかったよ」
 額のあたりがひりひりするので指でおさえてみると少し血がにじんでいた。
 「おや、先生、どうしました、そこ」
 「だから、提燈を持って行けばよかったんだ、防火扉にぶつかったよ」
 「うわつはゝゝゝ」
 虎が手を打って笑った。
 「こいつあ、いいや、防火扉に正面衝突するなんて、勇敢だ、先生はいいとこあるね」
 「おとつゝあん、何をいらんこというてはんね、まあまあ、先生、危うおしたなあ、あそこは暗いとこやさかいな」
 「あそこに、まさか防火扉があるとは思わなかったよ」
 「そうどすとも、はじめての先生にわかるもんどすかいな、でも先生、若いのに、しっかりしといやすなあ、感心どすわ」
 そして、おばさんは何だか油薬のようなものを塗ってくれた。
 それから、宿直室へつれていってくれたが、そこは丁度小使室の二階で六畳敷ばかりの部屋に床、押入れがつき、窓よりにベットが一つ、別の窓のところに机が一つ、その横に碁盤が一面、座蒲団が二三枚ある。ベットの蒲団には洗いたての敷布がしいてあって気持がよかった。枕は脂でよごれていたので、放り出して、座蒲団に手拭いをまいた。着物、袴をぬぐと、シャツのままもぐりこんだ。
 ところが、ベットは藤で張ってあるらしく、それが古くなってゆるんでしまって、丁度、体の下のところがへこんで、特に尻の下はそのへこみがきつく、まるで、ふとんの溝の中にねている感じであった。それでもいつの間にかぐっすりとねむってしまったが、明け方にえらく寒いので目が覚めてみると掛ぶとんがベットの下に落ちてしまって、私はふとんの溝の中にまるくなってねていた。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第57号(1954(S29).3.1、真生活協会)より)
 

 
 
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