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SEEDS column シーズ・コラム

 

更新は1日と15日

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『屑屋先生』(田村一二:著) 第34回 本科正教員(3)-3
2026-05-15
 
 教頭は、びくっとして椅子から立上ろうとして、うまく椅子が後に引けず、よろよろとした。
 「あわてるなッ、教頭だと思って、おとなしくいっていれぁ、いい気になりやがって、何んだと、君には教育者としての愛がないのかだと、へん、君のいうような教育愛は、はばかりながら持ち合わせはないんだ。君らは、出来ん坊と呼ばれる子供達が、他の出来る子供達の予習の邪魔になるからといって早く帰されていくあの姿をみたか。君らは、あの子供達が、何といっているか、聞いたことがあるのか」
 私は、かつて、池のふちでかんじたあのどうにもならぬ腹立たしさを再びここに感じた。そいつを思い切り、教頭に校長にたたきつけてやった。
 「あの子供達のあわれな姿がみえず、その子供達の淋しいつぶやきが聞えずに、一体全体、それで教育者だと云えるのか、何が教育者だ、何が教育者としての間、嗤わせるな。」
 校長も教頭もまっ蒼になっていた。坂本先生がしきりに私の上衣のすそをひっぱる。
 「坂本先生、先生にはまことにすみません、だがお願いです。今日はいわせて下さい」
 「はッ」
といって、坂本先生はあわてて手をひっこめた。私はこの老先生が気の毒になって、成る可く早くやめようと思った。
 「僕は何も子供達が中学に入ることを喜ばぬわけではない。だがあなた方のいう、屑をほったらかしておいての予習教育など断然反対だ。僕達は優等生も、劣等生も生かさなければならぬ。こんなことはわかりきった話だ。現在では、優等生の方は至れりつくせりだから、むしろ僕達は、これら屑といわれている出来ん坊、低能児の面倒を大いにみてやる必要がある。
 頭のいい人間が、愚直な素朴な人間よりえらいなんて一体誰がきめたのだ。よくみればなずな花さくかきねかなで、牡丹も美しい、だが野菊にも美はある。低能児のなかに、如何に美しいものがあるか、純一無雑な美しさがあるか、僕は短い体験だが自分のクラスにいる子供達で知ったのだ。何が屑だ。なまじ、頭が少々位よくっても強いものにおべっかして、弱いものをいじめたり、法律の反を強制したりする奴よりいくらましかも知れんぞ」
 島田がパチパチと手をたたいた。私はそちらをみて、にやりと笑った。みんな、私の方に顔をむけて熱心にきいていた。まるで私の講演会のようだった。
 「そんなやつにくらべたら、彼等の方が宝石だ。それをしも、屑というなら、屑といえ、その屑どもを集めて僕は教育したい。屑屋先生、そうだ、僕は屑屋先生になりたい」
 「はゝゝゝゝ、屑屋先生はよかった。」
 法本が手をうって笑った。
 「屑屋先生、もう座れよ」
と島田がいった。もう嬉しくてたまらんといった声だ
 「よし」私は座った。
 「これで、本日の会を終ります。」
 校長は苦り切って、それだけ云うと、さっさと校長室へはいってしまった。その後を追っかけるように教頭がついていった。
 「おい、今夜は屑屋先生のために乾盃しよう。六時に○○屋に集合だ。愉快々々」
 誰にいうともなく、それだけ云うと、島田は踊るように出ていった。私もその後から立ったとたん、ふと町野先生の方をみた。上気したような顔で、涙ぐんだ目がじっと私をみていた。私はどきんとして、あわてて島田の後を追った。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第62号(1954(S29).8.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第33回 本科正教員(3)-2
2026-04-15
 九月になって早々、職員会が開かれた。いろいろ新学期の予定などが打合わされた後で、校長が
 「坂本君」とわが五学年の学生主任の坂本先生をよんだ。
 「はい」坂本先生は五十才に近いおとなしい先生である。
 「又、例によって二学期から五年生の予習教育をはじめてもらわにゃならんですな」
 「はい」坂本先生は丸刈のゴマ塩頭を下げた。
 「予習教育って何ですか」
 私は小声で隣席の坂本先生にたずねた。先生はひどく狼狽したようで私を抑えるような手つきをして、
 「そ、それは、その」
と吃った。すると向う側にいた教頭がひきとった。
 「中学の入学試験の予習ですよ」
 彼は、今更何を云うんだというような顔で、煙草の煙を輪に吹いた。
 「それなら法律で、禁止されている筈です」
 私のこの一言は効果的であった。一瞬全体がしーんとしてしまった。教頭と校長は苦い顔を見合せた。大部分の人がうつむいてしまい、法本と島田と、町野先生だけが顔を上げていた。法本は眉をぐっとよせて、校長や教頭の方をみていた。島田はやったぞ、やったぞというような顔をして、目を輝かせて校長と私とを見くらべていた。町野先生は私はよく見られなかったが、何か懸命な視線を私の片頬にかんじた。
 「だがね、小杉君」
 校長は両手をテーブルの上で組み合わせた。
 「予習教育は、今では公然の秘密だよ」
 「だが、正しいことではありません」
 「でも、中学が競争ではいる以上、自分の教え子が一人でも多くはいってくれるように、特別に勉強をみてやることは教師としての情ではないだろうかね」
 「それで、放課後特別に残して勉強させるわけですね」
 「そうなんだよ」
 校長は、形勢が逆転したと思ったのか、機嫌がよかった。
 「それでは伺いますが、中学へ行けない子供は勉強をみてもらえずに早く帰されていますが、あれはどうなんでしょうか」
 「…………」
 「ああいう子供は、放っておいてもいいのですか」
 校長は苦り切った顔をした。島田がますます嬉しそうな顔をして私を見ている。この頃になると、大部分の者が顔を上げて興味ありげに校長と私とを見くらべはじめた。唯、坂本先生だけは、学年主任として自分の責任とでも考えているのか、非常に恐縮して頭を下げたきりであった。
 「それぁ、君、あんなもの教えたって、無駄だよ」
と、教頭が校長の方をちょいちょい見ながら云った。校長に助け舟を出しているつもりなのだろう。
 この馬鹿野郎と思った。
 「あんなものとは何ですか」
 「あんなものとはあんなものだよ。人間の屑みたいなもんさ、教えてみたってどうにもならんさ」
 彼は、また煙をふうーと吹くと、椅子にそり返った。
 「それで早く返してしまうんですか」
 「その方があの連中も喜んでるだろう」
 「喜んでいると、直接子供から、或は子供の親たちからきかれましたか」
 「そんなこと聞いてないよ」
 「それでは、本当のことはわかりませんね」
 島田がくすくすと笑った。
 「うるさいな、君は」
 教頭は蒼ざめた顔で私をにらんだ。煙草をもった手がふるえている。
 「一体全体、予習教育はやるのか、やらんのか」
 彼はおどかすように大声を出した。もうこちらの勝である。私は静かに答えた。
 「やりませんよ」
 「う、う」
 教頭は唸って、ふるえる手で煙草を灰皿にぐっぐっと押しつけた。
 「大体、君、先程も校長先生がおっしゃった様に、一人でも多く中学にはいれば、子供もよろこぶ、学校の名誉にもなる。元来、この学校の入学率は本市でも十指の中にはいっているのだ。君は子供が中学にはいることを喜ばぬのか、君には教育者としての愛がないのか」
 「やかましいッ」
 私はいきなり椅子を後にひいて立上った。全員がギョッとして私をみた。法本でさえ、はっとしたようであった。私は割に頭の方は冷静であった。ただ体の方が全体かっかっと燃えるようであった。
 
 (月刊『SANA』(サーナ)第62号(1954(S29).8.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第32回 本科正教員(3)-1
2026-03-15
挿絵
 屑屋先生 本科正教員の章。今回から(3)に入ります。
 今回の職員室で「花を食べる」という同僚の町野先生との「恋ばな」の場面は、田村自身の半生を編集者に語った回顧録的著書「ちえおくれと歩く男」(1974(昭和49)年10月5日、柏樹社)にも、Ⅱ章(2)掃除結婚として載っています。
 このエピソード、田村と夫人の結婚にいたる実際のなれそめだったようで、夫人の手記として紹介されています。
 残念ながら、本書は絶版状態で、出版社自体がなくなっているので、古本の他は入手困難です。
 (国会図書館でアカウントをお持ちなら、インターネットで読むことができます。
 

 
 その頃になって、私は毎朝、私の机の上がきれいに拭かれていることに気がついた。そういえばこれはもうだいぶ前から続けられている。時々はきれいな花がコップにいけられてあることもあった。誰がそんなことをするのか、わからなかった。
 ただ、子供がするのではないことはわかっていた。掃除の手口がどうみても子供でない。大人だ。すると誰だろう。
 考えているうちは、私は、私の心の中に何か、コツンとぶつかるものがあったのではっとした。いつもの私なら、向いの島田に、「おい、いつも俺の知らない間に、机の上がきれいふいてあったり、花がいけてあったりするのは一体誰がするんだろう。」
 とあっさり訊いている筈だ。それを、今度に限って、私は、何故島田にも、誰にも訊かなかったのだろう。私は何故、このことだけは、皆にだまったいたのだろう。私は何かに思い当ったように、どきんとして、きれいな机の上に、新聞をぱっとひろげてしまった。
 それから、二三日たって、私は宿直にあたった。翌朝珍しく早く眼が覚めて、下シャツのまま洗面所へ行こうとして、ふと職員室をのぞいた。そして、はっとした。町野先生だ。町野先生が誰もいない職員室で、いかにも楽しそうに私の机をふいている。
 私はカーと顔がほてってきた。何か悪いものでも見たように、足音をしのばせて、職員室の横を廻り抜けた。洗面所で、私は、いきなり頭からジャージャーと水をぶっかけた。それから、立てつづけに深呼吸をした。鏡にうつっている顔をみたら、何だかよその人の顔のように見えた。それを見たら、急におかしくなってやっと気持が落着いた。
 ぬれ手拭を首にひっかけたままわざと勢よく職員室の戸をあけた。
 「やあ、早いですなぁ」
 私はびっくりしたような顔をした。
 「お早うございます」
 もう、自分の席で本を読んでいた町野先生は立上って、にこにこと挨拶をした。私はどうも、まぶしくて彼女の顔が正面からみられなかった。
 私は自分の席に腰をおろすと、引出しから煙草を出して火をつけた。机もきれい、花も何という花かしらぬが白いかわいい花で新しい水のはいったコップも新鮮で美しかった。
 だが私は、それのお礼をいうことが出来なかった。どうも何んだか工合が悪い。私は花に手をのばした。
 「ふうむ、かわいい、いい花だなぁ」
 斜め前にいる町野先生の顔が、ちらとこちらに動いたように思った。私は、においをかいでみた。さわやかな芳香をはなっていた。
 「ふーむ、いい匂いだ」
私は口に入れてちょっとかんでみた。ぱせりのような味がした。ぱせりは私の好物である。私は、むしゃむしゃとその花を食ってしまった。そして、ひょいと、町野先生の顔をみた。彼女は目をまるくして、私をみつめていた。私は弱った。がりがりと頭をかくと、
 「町野先生、ダリという男を知っていますか」
 「存じませんわ」
 「絵かきです。シュールリアリストです。その男が、いいました。美は可食的なりと」
 「美はなんですって」
 「カショクテキナリ」
 「それ、どういうことですの」
 「美しいものは、食いたくなるということです」
 「まぁ」
 「日本にだって、食ってしまいたいほどかわいいと云う言葉があるでしょう」
 町野先生の顔がぽうっと赤くなった。
 「僕、シャツを着てきます」
 私は職員室の外へとんで出た。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第62号(1954(S29).8.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第31回 本科正教員(2)-3
2026-02-15
 毎日の休憩時間は運動場で子供達と遊んだ。
 子供達はよく私をみこしのようにかつぎ上げ、わっしょいわっしょいと胴上げをした。いつもあげられているというので、天ぷら先生というあだ名までつけられた。
 私は組の男の子たちにかつぎ上げられて、わっしょいわっしょいと運動場をねり歩きながら、運動場の隅からうらやましそうに、指をくわえて私たちをみつめている、他の組の出来ん坊の淋しい目を痛いほど感じた。
 朝礼のたんびに叱られているよその組の出来ん坊。みんなの前で情ようしゃもなく叱りつけている担任の声をきいていると腹がにえるような気がした。叱りつけられて、おどおどしている彼等の哀れな顔。
 教頭のクラスの出来ん坊は、職員室の机の下に何時間も押しこめられていた。
 彼はその子供の上に足をのせてチョビひげをなで、パイプを掃除していた。又ある時は、その教頭の席のすぐ後のカーテンに通りすがりの私が何気なくふれた時、そのカーテンがまるで、人肌にさわったようなやわらかさをしていたので、ギョッとしてさわりなおしてみると、明らかに人間が中にはいっている。おどろいて巻き直してみると、中から、出来ん坊の男の子が、あらわれた。あわれや、彼の泣きつかれた頬には、はっきりと涙のあとが見えた。彼は私を見上げてニーと力無く笑った。
 私は彼をその場から帰らしてやった。放課後、教頭と大激論をやった。よっぽど殴ってしまおうかと思ったが法本や島田にとめられて、その場は一応おさまった。
 ある日放課になって間なしに、私は校庭の池のよこで植木鉢をならべて、手入れをしていた。すると、うしろへ誰かすっとよって来て立ったけはいなので、振り返ってみると六年の男の子が三人かばんをさげて立っていた。
 三人とも朝礼でいつも叱られている出来ん坊である。
 「いよー君たちどうした」
 彼等は恥しそうに顔見合せて笑うと、黙ってしゃがみこんだ。私はせっせと鉢のよごれを洗ったり、水を如露でやったりした。
 「先生とこ、ええなぁ」
とその中の一人がつぶやくようにいった。
 「何が」
 「先生とこ、みな、一しょにかえらはるんやろ」
 「そうだよ、みんな、教室で、いろんなものをつくっているよ」
 「ええなぁ」
 三人とも一せいにいった。
 「君たちは、どうなんだ」
 「わいら、先生が、先に帰らさはんね」
 「どうして」
 私は知っていたけれどもきいた。腹が立って来て、いじわるになったせいだろう。
 「…………」
 子供たちは黙ってしまった。私はどうにもならん憤りを感じてむっとしてしまった。子供達はおびえたように、そっと立上って行ってしまった。
 ちえっー あの子供達を放っておいて何が教育だ。教育とは何だ、養成所での講義の中にもなかった。本にもかいてなかった。しかも、現実にみる、このあわれを、低能児たちの姿、この子供達のことを教えずに、何が一体教員養成所だ。馬鹿々々しい。
 何が師範学校だ。何が先生だ。
 私はもうどうにもならぬ程、腹が立って来た。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第61号(1954(S29).7.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第30回 本科正教員(2)-2
2026-01-15
 二学期、三学期もすんで、新しい年度が来た。私は五年男子を受持つことになり、私の持っていた三年男女組は、新任の町野という女の先生がもつことになった。
 町野さんは今度師範学校を出たばかり、校長につれられて職員室に挨拶に来た時も、まだ、学生のままのような感じであった。何か運動をやっていた人らしく、学校時代水泳の選手だったということが後でわかった。体ががっちりとして均整がとれていた。
 頬も陽にやけて健康そうだし、切れ長の目がやさしかった。私は感じのいい女の先生に私の後をやって貰うことを喜んだ。
島田も、同学年に町野さんを迎えたことは喜んでいたが、私が五年男子の担任になったことは不思議だといって首をひねっていた。
 大体五六年はいつも校長一派にもたせるので、小杉なんかに持たせる筈がないというのである。ひょっとすると、まだ小杉が法本、島田たちの仲間でないと思ってるのかも知れないともいった。ともかく、どういう理由で校長が私に五年男子を受持たせたか、わからなかったが私は約六十名の男の子を相手に張切った。放課後も子供達と一緒に理科の実験をやり、又その準備をととのえ、一緒に絵をかき、額縁をつくり、古新聞でパルプをこしらえて地理の模型をつくったり、空かんを利用して家庭で使う灰皿をつくったり、植木鉢に草花を植えたり水槽に魚を飼って観察したり、又一緒にフットベースボールや、ドッヂボールをやって遊んだり、毎日子供達はふうふういうくらい学習して本当にたんのうして家に帰っていった。
 勉強の出来ない子も二三人いたが、私は彼等が、学科学習の時には青葉に塩の如く元気がないのに、いざ、図画、工作、体操となると、人がちがうようにいきいきとしてくるのをみて驚いた。更に、額縁つくりやパルプつくりをやらせてみて、その根気のよさ、熱心さにびっくりした。彼等の目はきらきらと輝いているではないか。これが、出来ん坊、劣等生、低能児であろうかと思われるほどであった。私は彼等を教科書、活字から解放した。勿論、学科学習を全然放棄したわけではないが、分量をうんとへらして、体を通した作業学習に重点をおいた。彼等は旱天に雨を得たものの如く、見る見る生き生きとしてきた。朝も一番早く教室に来て、掃除をしたり、エナメルや筆の段取りをちゃんとしておくのも彼等であった。
 私は、こういう出来ん坊の教育の一つの鍵を手に入れたような気がした。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第61号(1954(S29).7.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第29回 本科正教員(2)-1
2025-12-16
挿絵
 さて、シーズコラムですが、しばらくの間充電期間を取らせていただきます。
 これまで、不問庵・一碧文庫にある資料をもとに、筆者が集めたり、調べてきたことを拙い文章でお伝えして来たのですが、一旦整理をしてみようと思い立ちました。
 昨年の糸賀生誕110年、今年の田村没後30年があり、そのお陰かどうか糸賀、田村に関する新たな資料もいくつか発見されました。ですので、ネタが尽きたというよりも、これらをこのコラムでも紹介できるよう一碧文庫の資料として整理作業をすすめたいと思っています。
 お読みいただいている皆さまには、申し訳ないですが、再開の日を楽しみにお待ちいただきたいと思います。
 屑屋先生については、これまでどおり月1回ペース15日に更新していく予定です。
 

 
 養成所の卒業の時、私は、本科正教員になったら、第一にポマードを買って、塗ってやるぞ頭の毛にいいきかせたのに、いざ月給を貰ってみると、まっ先に買ったのが、油絵のセットで、ポマードなどすっかり忘れてしまっていた。したがって頭髪は相変らずぼさばさで、服は黒のサージの詰襟、靴はぶかぶかの兵隊靴、ただ肩からぶら下っているスケッチ箱だけが、真新しい。
 第一番に描いたのが、こわれた数個の素焼の植木鉢で妙に古びた素焼の鉢の色にひかれた。
 古いかけた素焼の鉢が五つ六つ横隊に一列に並んだ絵をみて、島田が顔をしかめた。
 「おい、これは池の横にころがっていたやつだろ」
 「そうだよ」
 「又、変なものを描くやつだなぁ、これは捨ててある鉢だぜ」
 「だって、美しいじゃないか」
 「ふーん、そうかなぁ」
 法本が横から絵をのぞきこんだ。
 「小杉が描いたのか、なかなかいいじゃないか。面白いよ、この絵で見ると、案外小杉という男は、特殊な教育の方にとびこむかもしれないぜ」
と、云って笑った。
 「こういうこわれたものや、捨てられたものに美を感じるやつだから、人間の屑に興味を持つようになるかもしれんなぁ」
と、島田もいった。
 私はそんなことを今までに考えたこともなかったのに、こう云われると、何か、かくしていることを、いい当てられたような気がして、黙り込んでしまった。
 そして俺は、そんなことを考えたことがあっただろうかといろいろ反省してみた。
 その時ふと思い出したのが、この学校へ赴任して来る前の日のこと、用事で学校の裏通りを通った。ははん、この学校だな、今度来る学校はと思いながら歩いていると板塀のところに五六年の男の子三人がしゃがみこんで、何か眺めていた。何気なしに後からのぞきこんでみると蟻が穴から出たりはいったりしているところであった。それを実に熱心にながめているのだ。九月のはじめで、まだ残暑にきびしかった。
 三人共鼻の頭に汗をうかべている。
 「面白いか」
と聞くと三人共私を振り仰いでにやりと笑った。どれも余りかしこそうな顔ではない。
 「君たち、S校の生徒さん?」
 中の一人が「うん」と答えた。
 「もう学校すんだの」
 実は、まだ短縮授業中だから、午前中に授業はすむ筈だが、それにしても、この子供は早い、まだ午になっていない。それに鞄を下げてこんなところで蟻を見ている。一寸、疑問に思ったのだ。ところが、この私の問いに対して、彼等は俄然、不機嫌になった。ぷいと立上ると、おこった様な顔付で、草履袋を振り廻しながら行ってしまった。その後姿は不貞腐れているようでもあったし、やけくそみたいな感じもあった。
 その時は妙だなと思っただけであったが、赴任してしばらくすると、この問題はわかった。
 又、別のそういった子供達と、近くの神社の境内で出会った。彼等は池の亀に石を投げて遊んでいた。
 「君たち、六年生だろ、今頃、こんなところにいるなんて、どうしたの」
と聞いてみると、今度は、よくしゃべるのがいた。
 「わいらなぁ、勉強出来へんさかい、早うかえるねん」
 「どうして」
 「先生なぁ、お前らじゃまになるさかい、早う帰れいわはんね」
 「……でも、みんな遅くまで勉強してるじゃないか」
 「ああ、あらなぁ、よう出けるやつばっかり残っとんね、わいらあかへんのじゃい」
 その子は怒ったように、池の亀をめがけて、石を投げた。
 
  (月刊『SANA』(サーナ)第61号(1954(S29).7.1、真生活協会)より)
 
田村一二没後30年記念事業『田村一二の思想と実践を今に』を開催しました
2025-12-01
 11月16日(日)の午後、湖南市甲西文化ホールにて田村一二没後30年記念事業「田村一二の思想と実践を今に」を開催しました。
 心地よい秋晴れの一日、ほくほくと暖かく運営スタッフの中には屋外でお昼弁当を食べる人もいるほどでした。
 そんな行楽日和の、しかも何かと行事ごとが多いこの時節にもかかわらず、選んでこの催しにご来場いただきました皆様には、本当にありがとうございました。
 田村一二先生と親交のあった方、一麦寮の旧職員の方、福祉施設関係者の方、障害児・者福祉・教育の研究者の方などなど幅広い層の皆様がお集まりくださいました。
 前半は導入として、青山塾で田村一二先生の講義をお願いしている京都女子大学教授の玉村公二彦さんに田村先生の生涯を振り返っていただきました。戦前の教師時代から戦後の一麦寮までを中心に貴重な写真や資料のスライド、映像を披露していただき、その時々の田村先生の活動をお話しいただきました。
 特に田村先生のラジオ出演時の音声は、民謡を歌う場面もあり、懐かしく思い出した方、初めて聞く方様々だったと思いますが、貴重な経験だったと思います。
 後半は日本社会事業大学准教授の冨永健太郎さん(青山塾では池田太郎先生担当)を進行役に、元一麦寮寮長の吉永太市先生、法人顧問で田村先生の次男でもある田村俊樹さん、そしてひきつづき玉村さんにも登壇いただき、トークセッションをしていただきました。
 93歳とご高齢ながらお元気な吉永先生には、田村先生との出会いや一麦寮での実践の姿、また田村先生から受けた教えについて、田村さんからは石山学園、近江学園、びわこ学園で幼少期から青年期まで家族として暮らし、育った経験から現在の障害者入所施設の在り方に対する思いを、そして玉村さんからは障害児者福祉・教育史の研究者としての田村一二論を語っていただきました。
 手前ミソなお話ではありますが、実はこの日を迎えるまでには都合7回の実行委員会をもち、別に旧職員の同窓会やミニ&プレ対談をやったりしながら、四人の登壇者には打ち合わせを重ねていただきました。(本当にお疲れさまでした。)
 その甲斐あって田村一二の思想と実践が決して過去の遺物などではなく、今へとつながり、現在の実践の場で働く人の精神的な指針になり得ることが実感していただける催しになったのではないかと思います。こうした動きがより拡がっていけばと願っています。
 
田村一二没後30年記念事業第2弾。資料展開催中
 さて、ここでお知らせを一つ
 田村一二没後30年記念事業は、これで終わりではありません。
 第2弾として資料展『田村一二と石山学園・近江学園・一麦寮』を開催しています。
 会場は、田村先生が実際にお住まいになっていたお家です。(湖南市東寺三丁目3-7)
 永らく無住になっていましたが、この資料展のために少し改装もして展示会場となっています。
 水曜日~金曜日(午前10時から午後5時30分)、土曜日(午前10時から午後4時)に開館しています。日曜、月曜、火曜はお休みです。期間は来年3月14日(土)まで。
 年末年始(12月28日(日)~1月6日(火))は休館です。
 
 石山学園の昭和20年度日誌や田村先生が著書「茗荷村見聞記」の構想意図を綴った次男田村俊樹さん宛の直筆の手紙など初公開の資料も数点ある資料展です。
 また田村先生の筆になる絵画や一麦利用者の作品も展示しています。
 何より先生が実際に絵を描いておられたアトリエをご覧いただくことができます。
 ご興味、お時間のある方はぜひお立ち寄りください。
 
 どうしても開館日に都合が合わないという方は、ご相談に応じますのでお気軽にご連絡ください。
 (社会福祉法人大木会 一麦 事務室(℡0748-77-3029))
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第28回 本科正教員(1)-3
2025-11-15
 今度来た学校は、以前のにくらべると半分位の小さい学校だが、きれいにこじんまりとしていた。運動場も前の学校の四分の一位で、ぐるりがすっかり校舎にかこまれていて、どちらをむいてもガラス窓ばかり、まるで金魚鉢の中へはいったような気がした。それで、新任式の時にこんなことをいってしまった。
 「この学校の運動場はぐるりがガラスでかこまれて、まるで金魚鉢のようですね、その中で遊んでいるみなさんは金魚や鮒のように見えます。女の子は金魚で男の子は鮒ですか」
 子供達が顔見合せてにやにやと笑った。
 「でも、私は暴れん坊ですから、ひょっとすると、金魚鉢をこわすかもしれません、こわすと、校長先生に叱られますか」
 こゝまでいうと子供達がうわーと云って校長の方を見た。これはよほどふだんからガラスをこわすなといわれており、こわれた時はひどくしかられるんだなと感じた。壇上から校長の方を見ると、なるほど、澁い顔をしていた。
 その後、私は子供達と運動場でボール遊びをやっていて、二回にわたって三枚ばかりガラスをこわした。先生がガラスをこわしたので、その度にもう子供達は、喜んでしまって、ころげまわるようにして笑った。
 その度に又、校長が校長室の窓を開けて顔を出したが私がこわしたと知ると、苦い顔をして何もいわず窓をしめてしまった。
 教頭にあやまりに行ったら、
 「先生からそういう悪い手本を見せて貰っては困りますねえ」と云って、じろりと白い目でにらんだ。
 「すみません」
と頭を下げたが、好かねえ野郎だと思った。自分の机に帰ってくると向いにいる同学年である三年担任の島田君が、僕の顔をみてにやにやと笑った。彼は私より一つ年上で血色のいゝ丸顔をいつもにこにこさせている陽気な青年で、気持は呑気でおっとりしていた。
 私とは直ぐ仲よしになった。
 彼はあの挨拶が気に入った。久し振りですっとしたといった。
 「小杉君だんだん面白くなるぜ」
 「何が」
 「今にわかるよ、とに角、君はやるから面白いよ」
 私はさっぱり訳がわからなかった。その日の放課後に島田に誘われてコーヒをのみに行った。島田は私の他にもう一人先生をつれて来ていた。これが高等科女子担任の法本であつた。彼は私より三つ程年上だがみたところ十才も上のように老けてみえた。日蓮宗の寺の息子で、頭も丸刈り、顔もそういえば俗人ばなれをしていたが、利かぬ気の青年らしかった。しゃべっているのは殆ど島田で、法本の方は大体に於て黙っていた。しかし気持は両方とも全く通じでいるようであった。
 こゝできいたのが、校長と教頭を中心とする一派と、法本、島田その他二三人でかためている反対派との対立である。その他の先生方は、表面は校長一派で腹の中では法本一派に好意を持っている連中だということであった。
 その校長派の背後には学務委員の沼田というのがいて、これが学校内のボスで、校長は全く沼田のかいらいに過ぎないとか、教頭が沼田のきんちゃくで、むしろ教頭の方が校長より人間が悪いとか、職員同志の、或は区内のあつれき、その他いろいろ複雑な事情がこんがらがっているようであったが、新米の私にはよくのみこめなかった。
 たゞ、校長や、教頭が、余りいい人間ではなさそうだ。そして、この沼田や法本は、いゝ人間のようだということはわかった。従って、今後、校長達のやり方を見て、それによって法本の方に味方をしてやろうと思った。
とに角、私がガラスを割ってから、運動場の周囲に金網がはられ、子供達は遠慮気兼ねなくボール遊びが出来るようになった。
 島田が私の肩をたゝいて、
 「小杉、君のてがらだぞ。」
 
  (月刊『SANA』(サーナ)第60号(1954(S29).6.1、真生活協会)より)
 
『屑屋先生』(田村一二:著) 第27回 本科正教員(1)-2
2025-11-01
 今回も屑屋先生をお楽しみください。
 

 
 本科正教員になると同時に、私は転任させられた。今度は市の中央部の学校である。
 簡単な送別式だけで、送別会もない。挨拶をすませて門のところまでくると、焼芋を分けてたべた連中が数人待っていた。相変らず、縄帯にはだしの子もいる。ひとりごう然とうそぶいていた子もいる。
 私は立止って、黙って彼等の顔を見渡した。彼等も黙ってニヤーッと笑った。私は急に彼等がいとしくなった
 「こらッ、お前たち、焼芋の味を忘れるな」
 「うん」
と、皆が一せいにうなずいた。
 「どんなことがあっても、へたばるなよ、わかったか」
 「うん」と又、皆一せいにうなずいた。
 「よし」
 私は拳固をかためて、一人づゝ彼等の頭をコツンコツンとたゝいて廻った。
 彼等は真白な歯をみせて、実にうれしそうにニャーッと笑った。私は涙が出そうになったので、そのまゝ振り返りもせず、どんどんと校門を出ていってしまった。
 
 本科正教員になると同時に、月給も七十五円にはね上った。
 それを機会に〇市の裏長屋にいる両親を引取って臨済宗の禅寺D寺のすぐ横に小さな家を一軒かりてはいった。
 久しぶりで、奉公にいっている兄も来て、親子四人が水入らずで、夕飯を共にした。
 冷奴で盃をかたむけた父が、僅かに五六杯で真赤になった。昔はビールなど徹夜でのんで一ダース位のビンをならべた人であったが全く別人のように弱くなった。
 酒も弱くなったが、気も弱くなって、兄や私を眺め、
 「俺が意気地がないばっかりに、お前達に苦労をかけてすまんなあ」と云って目をしばたゝく。
 「お父さん、何いっているんだよ。これから大いにやろうという今晩はめでたい出発の日だぜ」
と、私がわざと元気よくいうと、
 「うむ、うむ」
と嬉しそうにうなづく。
 「いくらせまくっても、こうして親子が一しょに暮せるんだから私しゃ、とても嬉しいよ。」
と涙もろい母は袖を目にあてる。父も母も嬉しいんだなぁと思うと、私も胸が熱くなった。
 一軒家を持つと月給だけでは少しつらいので、知人の紹介で家庭教師を一つ世話して貰った。中学の入学試験準備というのでなくて、学校の成績の悪い子、いわゆる出来ん坊だが来てくれるかという遠慮がちな話であった。間接な話であったが、私はその子が哀れに思えて即座に行くことを承知した。
 その晩、紹介状を持って、その家をたづねた。古めかしいつくりの旧家であった。家の中は昼でも電灯がつけてあった。
 その子の父も母も祖母も出て来て、実に遠慮勝に頼むということをくどくどといった。
 こういう出来の悪い子は家庭教師もなかなか来てくれないということが、この人達の話でわかった。やはり可なり出来る子を教えて、中学に入れて、御礼をたんまり貰って、そしてそれが又自分の経歴になるということらしい。
 気の弱そうな家族の人たちの同じような話をながながときき、さて帰ろうとして、立上つたとたんに、すとんと仰向けにひっくり返ってしまった。しびれが切れたのである。
 家族の人達は、見てはならぬものを見たように、はっとして、皆が目を伏せた。
 「はっはゝゝゝゝ」
 と私が笑ったものだから、やっと気の毒そうに目をあげて私を観た。私は苦笑いをしながら、しきりに足をさすった。主人は挨拶に困って、
 「どうも、どうも」
ばっかりくりかえしていた。
 翌日、教えに行くと、ちゃんと、椅子とテーブルが畳の上にそなえてあったのには恐縮した。
 
 その後間もなく、ある人の紹介で、D寺の老師と近づきになった。老師は八十三才と聞いたが、かくしゃくとしていた。どういうわけか私が気に入って、小杉君、小杉君とかわいがってくれた。
 私も寺のふんいきが好きで、よく遊びに出かけた。日曜日などは、大てい、例の小倉の袴をはいて寺へ遊びに行った。そして老師のたてる茶をよばれた。
 「どうだ、小杉君、これは石州流だが、教えてやろうか。」
 「真っ平です」
 「にべもない奴じゃな。はっはゝゝゝゝ」
 老師は歯の抜けた口を開けて笑った。当時の私は茶など習う気は毛頭なかったが、今頃になって、あの時に習っておけばよかった、惜しいことをしたと思っている。
 そのかわり、老師の作務はよく手伝った。
 「小杉君、庭の手入れじゃ」
 「かしこまりました」
 私はくるくると着物をぬぐとシャツにさる又、はだしといういでたちでしたがう、ならんで庭の草を抜いているが、老師も無言私も無言、たゞせっせと草を抜く。この間別に何を教えられたというでなく、又何をきいたというでなく、茶をよばれたり、作務を手伝ったりして、三年間老師のもとへ通った。
 
(月刊『SANA』(サーナ)第60号(1954(S29).6.1、真生活協会)より)
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